2014/1/5 能〈竹生島 女体〉の異形性 | 好雪録

2014/1/5 能〈竹生島 女体〉の異形性

本日は観世会定期能の初能。
午前11時から午後5時半まで、翁付脇能に脇狂言〈末廣〉の連続上演、クリ・サシ・クセを省略しない〈羽衣 和合之舞〉、トメに〈小鍛冶 黒頭〉、間に仕舞9番をはさんだ盛り沢山の番組を見通してさすがに疲労困憊。もっともそれぞれが見どころある出来ばえである。家元・清和をはじめ、観世流宗家派の藝勢が今まさに盛んであることを実感させられた。

今日の脇能は〈翁〉に続いて観世清和が演じた〈竹生島 女体〉だった。
これは喜多流の小書を移植したものである。

近年、家元自身が特別な能や演出を手掛ける時はプリントや小冊子でその概要や意図を見所に知らせるのが通例。今日もこの1曲に特化した解説パンフレットが配られて鑑賞を大いに助けた。
喜多流の先代宗家・喜多實と観世流の先代宗家・観世左近元正は年齢が離れていたにもかかわらず肝胆相照らすものがあったらしい。そうした両家元の交歓の結果、喜多流からは〈竹生島 女体〉を観世流に、観世流からは〈松風 戯之舞〉を喜多流に、それぞれ伝授交換して移植したということは、以前、梅若玄祥氏と塩津哲生氏から聞いていた。喜多流〈松風 戯之舞〉は1969年4月、喜多實によって初演されたが、観世流の〈竹生島 女体〉は家元によって舞われないまま年月を経ていた(2009年10月「至高の華」公演で梅若玄祥が試演している)。清和は本日それを初めて世に問い、改めて観世流の小書として披露したわけである。もっとも、後ジテ・辯才天の舞事は喜多流だと五段の楽だが今日はイロエガカリ三段の盤渉中之舞に替え、ほかにも随所で意慾的な新工夫を加えていた。

この小書は喜多流を後援した井伊直弼の発案によるものだということは広く知られている。今日の間狂言・末社の神の立チシャベリは山本東次郎。同家には直弼作の長大な替間が伝えられ、実際にそれが披露された。

喜多流「女体」は矛盾の際立った小書である。前ツレ・女人が「社壇の扉を押し開き」と橋掛リで堂内に入る型をし中入するのに続け、前ジテ・漁翁もまた「翁も水中に~波に入らせ給ひけり」と一畳台(本日は笛座前に角掛けて置いた)上の小宮に中入するのだから、竹生島に辯天堂が2ヶ所もあることになってしまう。前ジテの老人が後ジテの辯才天に変じて作リ物から出現する男体→女体の入れ替わりも不思議と言うか妖しいというか、要するに「無理」なのである。
これはもう、近江一帯を領していた井伊直弼が竹生島尊さのあまり無理を承知で辯才天をツレからシテに格上げしたいがための創作であろう。
もっとも、金剛流にはツレ家・長命家の型と称する別の「女体」がある。これだと前場のシテとツレが入れ替わり、前ジテ・女人が作リ物に中入し後ジテ・辯才天となり、前ツレ・漁翁は幕に入り後ツレ・龍神が出るから違和感はない。両ジテ格に扱っても良いから「女体」ならばこちらの型を活かしたいと私などは思う。

以上のように喜多流の〈竹生島 女体〉は一種の誤読演出と私は見なすのだが、ここには辯才天信仰の未整理が潜んでいると思う。

辯天信仰の実態が最もよくわかるのは造像の遺例。それから見ると、中世以前に作られた辯才天像の作例は奈良時代に遡る東大寺法華堂塑像が現存唯一の例外。奈良・薬師寺の国宝画像や浄瑠璃寺の美しい彫像で知られるように美貌の天部ならば「吉祥天」が圧倒的に信仰されていたので、文献上も平安時代・院政期まで辯才天信仰そのものが明確には確認できない。「霊地・竹生島」も王朝文学にはほとんど出てこない。院政期直前に成った『狭衣物語』は修行地のひとつとして竹生島が語られる珍しい例だが、法華経修行地としての設定であり「辯才天鎮座地としての竹生島」ではない。寺伝(明治の神仏分離後は宝厳寺)では神亀元年(724年)聖武天皇勅願建立とされ直弼の間狂言もこれに基づくが、奈良~平安時代の辯才天信仰はきわめて低調というべく、「霊地・竹生島」の実態もよく分かっていない。
竹生島辯才天が文学史上にわかにクローズアップされるのは『平家物語』巻第7「竹生島詣」平經正の琵琶弾奏である。「平家一門が信仰した厳島が辯才天の霊地とされた関係で、平家たる北條氏が江島辯才天を尊んだ」とは能〈鱗形〉の作劇源でもあるが、確かに、鎌倉時代に入って辯才天信仰は急速に流布し造像例も多くなる。

ただ、その像には2種類ある。

ひとつが2本の腕で琵琶を奏でる美麗な女体。これを「妙音辯才天」と称し、音楽・藝能の守護仏はこちらである。江島神社現蔵・鎌倉時代作の裸形辯天は名高い。琵琶の家・西園寺家に伝来した同時期の作で京都御苑内・白雲神社の秘仏辯才天もそうだという。

もうひとつが、琵琶は携えずそれぞれ持物(じもつ)を持つ8本の腕、頭には白蛇と老人が合体した「宇賀神」を頂く「宇賀神辯才天」。こちらは現世利益一般、福徳増長の霊験を約束する。竹生島の辯才天はこちらである。

「妙音辯才天」の遺例は少なく、「辯天さま」と言えば大抵は宇賀神辯天。この両者は造像としてハッキリ異なるのだ。

井伊直弼作の替間では竹生島の辯才天を正しく「八臂」としながら「琵琶を弾く」ともしていた。「妙音辯才天」と「宇賀神辯才天」とは造像の様式(これを「儀軌=ぎき」と言う)が異なるし、八臂=8本の腕それぞれ持物で埋まっている「宇賀神辯才天」には「妙音辯才天」のように琵琶を持つ余裕はないから(あえて持たせるならば腕が10本必要)、これは誤解である。
能の作者は「竹生島辯才天=八臂の宇賀神辯才天」と正しく理解していたのだろう。松岡心平氏の冊子解説のように「能〈竹生島〉で琵琶に触れるところがない」のは当然である。

ただし、松岡氏説のように、前後で男女両性が入れ替わる「女体」の小書すなわち「宇賀神=翁神=男神」と「辯才天=女神」との合体同居の表現、と積極的に評価するのはどうか。

古来の民俗や信仰に関する知見は必須な半面、能の理解に一番大切なのは「本文に書かれていることを正しく読み取り、過剰な読み込みは避けること」だろう。「本文の論理」を無視して思い入れ深く能に接すると、かえって理解を過つことにもなりかねまい。
〈竹生島〉で言えば、やはり「翁は水中に」と地謡が謡えば漁翁は湖中に消える演技をするのが正しく、作リ物に入るのはヘンである。
喜多流→観世流の小書「女体」の場合、その「ヘン」は信仰や民俗の裏付けによるのではなく、ひとえに知識人・井伊直弼の「思い入れ」に発している。
学問を援用した新たな「思い入れ」を現代人が付け加える必要はないように私は思う。

喜多流〈竹生島 女体〉の異形性の淵源は、中世が遥かに遠ざかった江戸末期の宗教的渾沌であり、能そのものから導かれる演劇性を凌駕した近世人の過剰な「解釈」であると、私には思われる。

2014年1月 5日 | 記事URL

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