2014/1/8 能の間狂言について | 好雪録

2014/1/8 能の間狂言について

午後から久しぶりのお下がり。本日から年初の大学講義が始まった。

昨日付記した1月6日付・朝日新聞朝刊「文化の扉~はじめての伊勢物語」。
何人もの人から「読みましたよ」と言われたが、知友がその記事を送ってくれ、本日ようやく読むことを得た。私のインタヴュー記事は以下。

 一方で、全体を貫くテーマはあるようだ。明星大学の村上湛教授は「いち早く行動に移
 す雅(みやび)」を挙げる。例えば第一段で、昔男は美しい姉妹に歌を贈ろうと、晴れ着の
 裾を思い切りよく破る。感情に身を任せる美意識には、連れて逃げた女が鬼に食われる
 「芥川」のように、背後に死が潜む。

まずまず、無難にまとめられていて安心。

昨日1月7日の国立能楽堂企画公演は能〈當麻〉だった。
シテ・本田光洋は桜間金記と並んで現在の金春流を代表する藝の妙手だが、昨年歳暮の〈道成寺〉が残念ながらまことによろしからざる出来ばえだったのでちょっと案じていた。
結果は「圧倒的な名演」とは言われないまでも、例えば歳末の梅若万三郎〈當麻〉のように「スラリとスマートな品位」とは違う、独特のヴォリュウムある能作りはなかなか面白かった。

さて、これはこの能を見るたびいつも気になっていること。
〈當麻〉の前場に出るシテとツレの正体である。

間狂言を聴いていると、昨日は茂山逸平だったが、大蔵流茂山千五郎家では「前ジテ・老尼=阿弥陀如来/前ツレ・女人=中将姫」と語り、前場ツレと後ジテがどちらも「中将姫の精魂」として対応する設定。同流山本東次郎家の詞章は「さてはわれらの推量には、老女は阿弥陀如来、さてまた一人の女性は中将姫にてござあらうずると存じ候」とあるから全く同じ。

和泉流三宅派はちょっと異なり、「前ジテ・老尼=阿弥陀如来/前ツレ・女人=中将姫」とは明言せず、「それがし推量仕るに、御心中貴き僧の當寺へ初めて御参りを中将姫は嬉しく思し召され、假に御姿をまみえ給ひたると存じ候」と語る。このように、「前場に中将姫の化身が出現した」とは説くが、だからすなわち「中将姫=前ツレ」とは単純に解し難い。
というのも、同派の間狂言ではそれに先立ち「『年たけたる尼公=正身の弥陀如来』に『九品の様体を曼荼羅に織り付け候へ。われらも力を添へうずる』と勧められた中将姫自身が曼荼羅を織った」と説いている。にもかかわらず、その先では「中将姫と申すは正身の阿弥陀如来の化現にて」と付け加えてもいるのだ。
これはおかしい。「中将姫と阿弥陀如来は別人格」としながら、返す刀で「両者同一体でもある」とは明らかな矛盾。その上、仮にも「中将姫=阿弥陀如来」としてしまうと、姫の篤信が正身の阿弥陀如来との対面の奇蹟を実現させる、肝腎の前場クセの法悦の物語が成り立つまい。
総体、和泉流三宅派の間狂言は何が何やら訳の分からぬ内容と言わざるを得ない

ともあれ、「前ツレor前ジテ?=後ジテ=中将姫(=阿弥陀如来?)」と錯雑した和泉流三宅派はひとまず措くとしても、大蔵流の間狂言では「前ツレ=後ジテ=中将姫」と理解している。
果たしてこれは正しいのだろうか?

能では後ジテの登場部分で「ただいま夢中に現はれたるは中将姫の精魂なり」と謡う。もし「ただいま夢中」=前場、と見なせば、「前ツレ=後ジテ=中将姫」の解釈は正しい。
だが、「ただいま夢中」は必ず「前場」と限定できるものではない。
「ただいま」すなわち「現時点いまここに」とも解せる。そうすると、前場では出なかった後ジテ=中将姫が初めて姿を現わした自己紹介とも解釈できる。むしろ、そう解するのが自然だろう(前場を指すならば「ただいま」ではなく「ありし」や「ありつる」を用いた過去・完了形で作文するのではなかろうか)
これ以上のヒントは能の詞章の中には認められない。

能〈當麻〉作劇の源が享禄4年(1531年)に成立した『當麻寺縁起』絵巻に説く當麻曼荼羅説話によることは現在よく知られている。これは新潮日本古典集成『謡曲集・中』所収、伊藤正義先生による達意の能〈當麻〉解題に抄録されているので容易に参照できる。
それによれば、「われ(化尼)は西方の教主阿弥陀如来なり......織女(化女)はわが左脇の弟子・観世音菩薩なり」とあるから、これに従う限り「前ジテ=阿弥陀、前ツレ=観音」となる。そもそも、能で用いられる「化尼」「化女」という呼称は極めて珍しいが、同『縁起』にはこの語もハッキリ用いられている。
これらに基づくのが能〈當麻〉の正しい解釈なのだろう。

もっとも、同『縁起』では「曼荼羅を織ったのは化女=織女」。この点、間狂言でもそう語られ一般にも流布している「中将姫が自ら曼荼羅を織った」説は否定されるけれども、〈當麻〉の詞章には「中将姫が曼荼羅を織った」とはどこにも明言されていないから、『縁起』の所説を導入し能を解しても何ら矛盾はない。

ちなみに、観世流昭和版謡本〈當麻〉に付載の鷺流間狂言には「その後、観音と弥陀来迎なされ、この寺の乾の隅にして酉過ぎより寅の前方に一丈五尺の曼荼羅を織り立て給ひ」とあって「中将姫が織った」とはせず、さらには、「いにしへの化尼・化女の假に見みえ給ひたると存ずる」とだけあって「中将姫=前ツレ」とは言わず、結果として『縁起』に最も忠実な内容となっている点は面白い。

私も間狂言の新作をいくつも手掛けた中で、信条としていることがある。

◆能の作意を正しく伝えること。
◆その際に、詞章に引用される詩歌で劇の焦点に関わるものは、能の詞章で説明されていない場合必ずそれに触れること。
◆たとえば〈芭蕉〉における「雪中の芭蕉」、〈姨捨〉における「山上棄老」など、作者があえて詞章内に触れずに置いた大切なテーマやエピソードが間狂言で種明かしされるパターンには最も心を配ること。
◆その際、懇切を尽くすあまり、能より後代に成立した説話の類には決して触れないこと。

こうした点に照らすと、世阿弥があえて作中で触れていない『當麻寺縁起』の内容、中でも「化尼と化女の正体」と「化尼=阿弥陀如来が製糸と染色を教え、化女=観世音菩薩が曼荼羅を織った」ことは正しく間狂言で語ってもらいたいと思う。
現在の大蔵流と和泉流に伝わる〈當麻〉の間狂言には、双方ともこの点で不満がある。
※現存『當麻寺縁起』が制作された享禄4年(1531年)は能〈當麻〉の成立から100年ほど後だが、もちろん「世阿弥がこの絵巻物を作劇源とした」と考えるわけではない。寺社縁起というものは作者の個人的創作物ではなく、寺社の口伝あるいは一般に流布した伝説の集成である。享禄年間に絵巻物となった當麻曼荼羅伝説はそれに先立つ他書にも確認できるから、世阿弥在世当時も諸方に伝播していたであろう。その原説話を「能の本説」として想定するわけである。(2014年1月10日追記)

研究が進むにつれ、昔は分からなかった、あるいは問題にしていなかった、新しい事実が出現し、能の作意が明らかになることがある。文辞や事象の考証とは単に机上の行為ではなく、能の上演に反映されてよりよい見方を導く頼りとなる。
復曲の活動が相不変盛んなのは結構なことで、今後も能の豊かな可能性を探る契機になるだろう。
これとはちょっと視点が変わるけれども、現行曲の間狂言の見直しや補綴という作業も、今後はぼつぼつ開発すべきではないかと私は考える。

2014年1月 8日 | 記事URL

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