2015/5/3 近藤乾之助追悼 | 好雪録

2015/5/3 近藤乾之助追悼

近藤乾之助さんが亡くなった
癌の再発を耳にしていたから覚悟していたとはいえ、実に悲しい。
1928年=昭和3年生まれの87歳。先日長逝した片山幽雪より2歳年上である。

私はたまたま昨日、5月興行歌舞伎座初日の夜の部を、いささか呆れつつ見ていた。
最後の〈め組の喧嘩〉にはまだしも「藝というものの何か」が見え隠れする。けれども〈丸橋忠弥〉〈蛇柳〉は基本的に無内容の極致であって、出し物の3つが3つとも最後は(役者たちの身体を張った熱演自体には讃嘆を惜しまないが)ドラマからの逸脱と評したくなる長大な立ち廻りに時を費やし(従って3つの演目で3つとも「またか」という気にさせられ)、「このセリフは、型は、これで良いのか?」「この脚本はこれで有効か?」と内心で首を傾げつつ見るばかりだった。
だが、休憩時間にロビーに出ると、観客のさまざまな言葉が聴くともなしに耳に入る。
「今の、ヤバかった!」
「ホント歌舞伎って、面白いよね~♪」

菊五郎の辰五郎は彼の後半生をある意味で代表する役である。一方で私の脳裏には、亡き勘三郎が旧山谷堀の平成中村座で最後に初役で勤めた辰五郎の、年のころと藝力とニンが渾然となった美事さが髣髴する。
あれは、亡き勘三郎が、心身をすり減らして最後に咲かせた花だった。
昨夜の歌舞伎座で、場内どこをどう歩いて観客の会話に耳を澄ましても、勘三郎の辰五郎について耳にすることはなかった。

人はみな、自らの中に「経験値の図書館」を持っている。
われわれが耳目にした物事を聴き取り見取るには、その「蔵書」から検索し判断する以外、手はない。
私は懐古主義者では、決してない。むしろ、そんなものは全否定したい。
その認識の下に、こう考える。自分が得てきたこれまでの「経験値」をその都度自己検証し、それに照らして「いま」の経験を検証する努力を怠った時、人は限りなく傲慢に、無責任になるのではないだろうか?
批評に関わっているとはいえ、私だって乏しい中から手銭で劇場に通う芝居好きの一人である。始まったばかりの帝国劇場〈レ・ミゼラブル〉を5回も6回も続けて見てそのたびに涙しているような私は、実に情けないシアター・ゴーアーズであるに過ぎない。
それでも私は、舞台を見ることを、私自身の「感情の排泄慾の反映」にはしたくない。
舞台を見ることによって内なる経験値の更新を図り、「良いとは、悪いとは、いかなることか?」を問い直し続けたい。
さもなくば、舞台上で真実を尽くしつつ日々反省克己する本当の舞台人たちに対して、申し訳が立たないではないか。
イエスと言うよりノーと言うほうが、しばしば10倍も100倍も難しい。

こんな取りとめもないことを思い巡らしたのは、近藤乾之助という能役者は、恐らくそれまでの能役者の誰にも似ず、誰にもできない「何か」を模索し続ける「永遠の未完成」を生きた舞台人だったからだ。
進退を賭した起死回生の一番と評すべき〈誓願寺〉。笛・藤田大五郎の出役がギリギリ間に合った圧倒的な番囃子〈関寺小町〉。どちらもたまたま平成16年の舞台(この年が乾之助にとって特記すべき変容の契機だった)。みな「いまこの時がすべて」と言いたくなるほどの完成度ではあった。
だが、それと同時に、「まだまだこの先には、何かある......」と余白を残す感覚があった。
この、容易なことでは自足しない感覚。それが乾之助の舞台の「若々しさ」を裏打ちしていたのだ。

自戒の念を込めて言う。現在の能楽批評の貧しさは、どうだろう。
近過去これほどまでの宝をわれわれに示してくれた近藤乾之助に対して、冷静で正鵠を得た評語を、私は目にしたことがない。
「乾之助、ヤバかった!」と一度でも思った者は、果たしてその「ヤバかった!」と思った実態は何だったのか、思い返してみることを怠ってはならないと、私は信ずる。
数はごく少ないが専門の批評家であれ、ブログやツィッターの類で気軽く舞台の感想を述べる人であれ、外部に向けて「発信」する立場に立つ以上「見たものに対する責任」を負わねばならない。ことに、一回性が強く「見た者勝ち、言った者勝ち」になりやすい能・狂言では、なおさらのことである。

故人の、能に対する、藝に対する、ヤスリで研ぎ澄ますような姿勢は、「徹底した自己反省による徹底した自己発見」と言うべき、直心の求道だった。
名手・近藤乾之助の、その「直心の求道」の実態とは、何だったか。

私はこれからもずっと、思い出し続け、考え続けてゆきたいと思う。

2015年5月 3日 | 記事URL

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