平成27年/2015年の能・狂言「心に残る舞台」 | 好雪録

平成27年/2015年の能・狂言「心に残る舞台」

簡便なツィッターに慣れて、このHPの更新を殆ど放置し続け年の瀬に至った。お読み頂いている向きに対してまことに怠惰なることと、お詫び申し上げる。
毎年吉例の能・狂言「心に残る舞台」。平成27年/2015年の閉じ目に際し、こればかりはキチンと振り返ってみようと思う。

本年1年の間に見ることを得た能・狂言の総公演数は77公演で、前年に比べて13公演も減少。一昨年に比せば10公演単位で毎年減っている。これは何も能・狂言の鑑賞動機が失せたわけではなく、第一には私自身の世俗の業務が増えていることに原因するものだけれど、一方では、今年惜しくも亡くなった片山幽雪・近藤乾之助の晩年に代表されるような「すべてを擲ってでも見ておかねば」という演者が減りこそすれ増えていない現実によるものでもあると、正直に告白しておく。ちなみに他ジャンル加えれば、実見した舞台総数は(能・狂言を含め)延べ251公演。鑑賞総数として実は昨年より10公演も増えているのである。

さて、2015年=平成27年、心に残る(優れた)能・狂言の舞台を数え挙げてみよう。(日付順)

1)野村万作・萬斎〈三番叟 雙之舞 1月3日/大槻能楽堂新春公演
2)大槻文蔵〈墨染桜〉 2月7日/大槻能楽堂研究公演
3)大槻文蔵〈鸚鵡小町 杖三段之舞3月7日/東京大槻清韻会別会(観世能楽堂)
4)野村四郎〈求塚〉 3月13日/銕仙会定期公演(宝生能楽堂)
5)友枝昭世〈井筒〉 3月28日/友枝昭世の会(国立能楽堂)
6)野村万作〈枕物狂〉 5月28日/第20回記念・野村万作萬斎狂言会(大槻能楽堂)
7)梅若万三郎〈実盛〉 6月13日/国立能楽堂普及公演
8)関根祥丸〈舎利〉 8月6日/観世会荒磯能(梅若能楽学院会館)
9)大槻文蔵 舞囃子〈安宅 延年之舞8月30日/第21回能楽座自主公演(国立能楽堂)
10)観世清和〈班女 笹之傳9月11日/銕仙会定期公演(宝生能楽堂)
11)大槻文蔵〈砧〉 9月18日/代々木果迢会(代々木能舞台)
12)梅若玄祥〈檜垣〉 10月11日/梅若会演能会(大濠公園能楽堂)
13)野村萬斎〈狸腹鼓〉 10月15日/萬歳楽座(国立能楽堂)
14 )梅若万三郎〈定家〉 10月25日/橘香会(国立能楽堂)

昨年の「これ一つ」は片山幽雪〈野宮〉(10月25日・大槻能楽堂自主公演)だったが彼は既にこの世にない。時として絶句など瑕はあったものの現代最高の身体技を見せてくれた山本順之は今年ほとんど舞台に立たなかった。時の流れを実感させられる現実である。
その中でやはり、これは日本経済新聞での能評にも明言したことだけれど、現在のシテ方で最も円熟した藝を堪能させてくれるのは「東の梅若万三郎・西の大槻文蔵」だろう。「これ一つ」とは言わず「これ二つ」として、文蔵は〈墨染桜〉。万三郎は〈実盛〉。狂言の最高は、今年新たに文化功労者として顕彰された野村万作が大阪で勤めた〈枕物狂〉。以上三つを、私が実見した能・狂言「三幅対」と推すことにやぶさかではない。

★大槻文蔵は幽雪亡きあと文字どおり「関西の雄」として舞台数も多い。それだけに、中には「大槻文蔵・裕一の会」(12月13日・大槻能楽堂)における〈自然居士〉のようないささか「取りこぼし」もなくはないものの、横浜能楽堂企画公演〈桜川〉(1月17日「能の五番 朝薫の五番」)も美事だったし、舞囃子ながら特にここに挙げた〈安宅 延年之舞〉は(ことに男舞で巻き上げた数珠が切れるまでは)「完璧」というべき調身に舌を巻いた。〈鸚鵡小町〉は宝生閑のワキを得た音取置鼓の荘重な演式が美事で、初演(2014年2月22日「大槻能楽堂企画公演」)と甲乙付けがたい当代の〈鸚鵡〉。半屋外のすばらしい演技空間・代々木能舞台で秋の一夜あれほど精妙な〈砧〉を見られた少数の観客は幸運である。
〈墨染桜〉は半ば拙作の復曲であり、私はいわば「関係者」だけれども、舞台の成果は事実なので、文蔵本年の代表作としてこれを挙げた。観世流としての初演であるから細部にはまだ手直ししたい部分はあるものの、静謐を極めた文蔵の藝力に関して文句のつけようは全くない。
私事にわたる感想を述べて洵に恐縮ながら、この〈墨染桜〉は客観的に見ても満足のゆく舞台だったと思う。みずから手掛けて愛着のある復曲演目を最高のレベルで上演してもらっているのを目前にする幸福たるや、私としてはちょっと言葉にできない深いものがあった。

★昨年(2014年)は梅若万三郎にとっては豊饒の一年であり、再演の〈関寺小町〉(2014年9月21日「久田舜一郎古稀記念・皷楽の会」大阪能楽会館)を筆頭に現代最高の舞台が続いて実に壮観だった。今年はさすが舞台数が減りはしたが、質はいささかも落ちていない。6月の〈実盛〉、10月の〈定家〉、たまたま『能楽タイムズ』月評担当に当たりそれぞれ詳細な分析と賛意を示した。後場の序ノ舞にわずかな乱れが生じた〈定家〉よりも全く隙のない〈実盛〉を上位に置く(ここまで高レベルの舞台に甲乙を付けること自体が本当は不毛なのだ)
文蔵と同じく万三郎の舞台の凄さは、印象批評的に見ていても感得できるだろうけれども、やはり、声も身体も計算されつくした技法の粋を尽し、一瞬一瞬みずからをギリギリまで追い込んで行く、精神と肉体の緊張、および徹底した「離見」の凄さだ。「能は覚醒の藝術である」と、改めて思いを新たにする。

★今や世上「名人」と評価の定まった感のある友枝昭世の舞台に、私は正直、心の底から感動することが少ない。「手の内が見える」というのが端的な感想。文蔵や万三郎の調身の厳しさが「内から発して外に顕現する」性格を持つのに対し、昭世のそれは「外から規定し内を封ずる」もののように思う。これは、面のつかい方やハコビと背筋の連関など、細部の技巧や身体表現のありようを仔細に見取ればいともたやすく分かることである(いやしくも能の批評を公にしようとする者で、そうした技法分析力を伴わず、磨こうともしない輩が多いことに驚く。批評に関わる者~たとえ「研究者」であっても舞台について言挙げする者であれば例外たり得ない~でありながら観客の自己没入式「感動」に終始するとはいかなることであろうか)
そうした中で3月の〈井筒〉は予想もつかない名演。近来の昭世をこの一番で全く見直した(11月1日・国立能楽堂の友枝会〈砧〉ではまた巻き戻ってしまったが......)。アゴの出やすい、ということは、腰から背筋の線と面とが分断されて能全体の表情が死にやすい(能を見る人たちにはこの道理をよくよく考えてもらいたい)昭世の弊がこの時はほとんどなく、普段の行き方とは逆に「内から発して外に顕現する」手法を獲得していたため、この人の悪癖ともいえる痙攣的な突発表現(必要以上に荒っぽく面を切る、激情に任せて乱暴な所作をする、など)が見られなかった。その結果、実に静かな、枯淡なる〈井筒〉が成就し、地味かもしれないが、それは地に足のついた能だった。
いつまでも若いと思っていた彼も、もう75歳なのだ。その「老い=衰え」を見詰めてこそ、友枝昭世ほんらいの良さは円熟し、その能は成就するのではなかろうか。片山幽雪も近藤乾之助も、本当の意味で面目を一新したのは晩年の10年間。もしその前で終わっていたら彼らの藝はついに未完のままだったろうことを、私はしみじみと考える。

★梅若玄祥の能が荒れている。以前なら、不調であればあるだけ「なにクソ!」とばかり自己の身体と技術に向き合い却って張り詰めた舞台を成し遂げたが、生来の「巧さ」が禍をなして、身も蓋もないことを言えば「表面を糊塗する藝」でケムに巻いてしまうことが日常になりかけている。誰にも真似できない「部分」はあれどもそれは程度問題、全体にその弊を脱し得なかった6月の〈姨捨〉(7日・大槻能楽堂)と〈関寺小町〉(14日・国立能楽堂)が評価できなかったことは『能楽タイムズ』月評に明言したとおりである。
それが一転し、「不調であればあるだけ『なにクソ!』とばかり自己の身体と技術に向き合」う名演になったのが10月の〈檜垣〉である。これまたそのすばらしさについては『能楽タイムズ』に詳しく批評した(余談だが、私は幸運なのか観能歴の上で特筆すべき名舞台に出会った月がたまたま『タイムズ』月評担当月であることがはなはだ多い。2005年3月26日・京都観世会館での幽雪=当時・九郎右衛門の再演〈関寺小町〉もそうだった)。この時は宝生閑が、後見・欣哉を背後に出し、腰宛てを入れ(以前の閑なら考えられないイレギュラーである)長坐を楽にしてでも、肉体の限界を試すかのような凄絶なワキを勤めおおせた。間狂言にはこれまた眦を決した山本東次郎が厳として控える。能というものは、突き詰めれば「巧さ」は最終的な問題ではない。もちろんこれを誤解すると変な実感主義・素人主義に陥って危険ではある。「『巧い』だけではどうにもならんし、『巧くない』では話にならない」というのが正しいだろうか。〈檜垣〉はすばらしい名演ではあったが、いずれにせよ、いま玄祥の能に大きな潮境が訪れていることだけは確かだ。

★野村万作、野村四郎、この兄弟が揃って老来自在の藝を見せ始めた。四郎の〈求塚〉さらには「鵜澤久の会・第4回研究公演」(7月11日・喜多六平太記念能楽堂→これは日経夕刊に批評を掲載した)における〈卒都婆小町〉は、既定の型を逸脱してでも感興に任せた演技に走ることがあり、それが正統と奇矯と紙一重のところでとどまっている点に無類の面白さがある。その藝を支えているのは万三郎・文蔵的な「内から発して外に顕現する」身体表現なので、ある意味で非風は非風としても型崩れがしないのである。
万作はそうした「非風」には走らない。むしろ、枯れた藝をそのままポンと投げ出すだけで演じているように見える。大阪での〈枕物狂〉は、亡き千作が最大の当たり役としていた作品だけに、また、大蔵流と和泉流三宅派とで台本がほとんど変わらないだけに、激越な狂言に慣れた阪地の観客の前でいささか分が悪くもあったが、大変な傑作であり名演だった。晩年は直面で演じた千作がドラマの中に入り込んで活躍する行き方だったのに比べ、万作は作品内部に沈潜しつつも「語り手」の客観性を捨てず、万事に風通し良く演じ進める。それでいて萬狂言(10月18日「大曲二題」国立能楽堂)で兄の萬がこれを勤めた時のように、「万作よりも声と動きに精彩があり、万作よりも巧いが、『作品の読み』は屹立しても『作品そのもの』が屹立しない」という問題は感じられない。まさに、万作の〈枕物狂〉は、名手の至藝を媒介にして「作品そのものと相向かう」面白さであって、いろいろ問題はあったものの実に刺激的だった「万作を観る会」(11月29日・国立能楽堂)における〈楢山節考〉の面白さに直結するものだ。

★壮年期の勢いを舞台成果に体現した役者として、観世清和と野村萬斎の2人を挙げた。とにかく多忙で、そのぶん舞台が通過地点ともなりかねない清和の銕仙会における〈班女〉は暴走せず落ち着いた演技で、この人の(なかなか表面に出にくい)底光りする美しさがシットリと顕われた好舞台。萬斎の〈狸腹鼓〉は初演(2006年12月23日「至高の華・第二部」宝生能楽堂)以来折に触れて見続けてきた結果、今回ひとつの解答を得たことは『能楽タイムズ』月評に記したとおりである。萬斎の場合、世阿弥流の「離見」が戦略的な「演出家的視点」にすり替わってしまう危険を孕んでいるのが今後の課題と言えよう。同時に、こうした萬斎の突出した個性に正面からぶつかり合える狂言役者が諸流・諸家の中に見当たらないのが大きな問題ともいえるだろう。

★最若手で一人。昨年に続き今年も関根祥丸を挙げた。3月には〈百万〉(8日「桃々会」観世能楽堂)、12月には〈田村〉(11日「閑能会」梅若能楽学院会館)も見、いずれも決して悪くはない舞台だったが、躊躇なく〈舎利〉を採る。
これは徹底して「技」の能である。技術そのものの精錬なくして〈舎利〉など見ていられるものではない。私が感じ入ったのは中入前。いよいよ足疾鬼の正体を顕わす直前、地謡「栴檀沈瑞香」でシテは舞台正面端の一畳台上に飛び上がる。祥丸はこの時、勢いよく飛んだにもかかわらず、台上に着地する時ほとんど足音を立てなかった。やろうとおもえば出来ることで、それには腰固めを厳格に、膝に適度なクッションを利かせ、全身を崩さぬ注意を漲らせれば良いのだが、まず大抵のシテ方はここでそんな心を配る余裕はない。かたちさえ崩さなければ「ドタン」と音を立て飛び上がっても、まあ、良いだろう。だがそうせず、あえて音を盗んで飛び上がる、ということは、余分な「りきみ」を臍下丹田で吸収し内なる「気」としてこれを取り込んで活かすことなのである。つまり、「ドタン」と音を立て飛び上がるより、フワリと音を立てずに飛び上がるほうが身体運用としてよほど煉り上げられた働きであり、舞台上の結果として何倍も大きく見えるのだ。
祥丸のここを見て、「ああ、良い稽古をしているな。誰に教わったのか、ありがたいことだな」と思っていた。後日、別の機会にたまたま彼に会うことがあったので訊ねたところ、「父がしていましたのを憶えておりましたので、そうしてみました」。
私はこの時、もの凄く感動した。これでこそ稽古、である。
教え手がいかに教え込もうとも、教わる側の受信機能が発達していなければ達意の教授も徒労に終わる。藝事ではなおさらそうである。家元・観世清和、祖父・関根祥六、観世流内で最良の両師を得つつも、祥丸の脳裏にはさらに亡父・祥人が「第三の師」として生きているのだ。
この時の〈舎利〉の良さを語るには半端な字数では足りないほど評語の用意があるけれども、若手とはいえ「名演」は単なるマグレではない。その秘密を如実に知らされたのが関根祥丸の〈舎利〉であった。

以上、はなはだ走り書きになったが、とりあえず平成27年/2015年の能・狂言「心に残る舞台」総括として報告しておきたい。
さて、2016年はいかなる佳き舞台、善き能・狂言に出逢えることであろうか。
(以上、引き続き多少の添削と改文を試みます)

2015年12月31日 | 記事URL

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