2016/2/9 宝生閑追悼 | 好雪録

2016/2/9 宝生閑追悼

2月1日に81歳で亡くなった宝生閑さんの通夜に参詣した。

余寒の夜にも関わらず大変な数の弔問者で、焼香の列が長く続いた。
能楽関係のみならず、ちょっと見回しても実に色々な方面からの参会と見え、ざっくばらんで心の豊かだった故人の人徳が偲ばれる、こう申すのも何だが、良い通夜であった。

宝生閑のワキ方としての業績は、稿を改めてきちんと評価しておかなくてはならない。
二十世紀後半の能が、ある意味で「観世寿夫を中心に回ってきたもの」とすれば、その回転軸の潤滑油をなしたのは宝生閑である。われわれは寿夫が死の前年に残してくれた偉大なる〈井筒〉の映像を簡単に見ることができる。そこで旅僧を勤めている43歳の閑の藝はすでに立派に完成している。その藝の本質は38年後の没年まで揺らぐことはなかった。閑の藝には、良い意味で「老熟を知らぬ若々しい強さ」が、衰えた最後の最後まで消えることがなかった、と思う。

昔話で恐縮だが、母校・早稲田大学には、今はどうかは知らぬけれども、私の在学中はシテ方五流と下掛宝生流、和泉流狂言(野村万之介指導)の学生サークルが曲がりなりにも揃っていた。古い学生会館の部室は二部屋で、観世・喜多・金剛・狂言と、宝生・金春・ワキ宝生とに分かれていた(能の地謡で地頭の座る位置が同じ流儀ごとにまとまっていたのは偶然だろう)。ワキ宝生の師範は宝生弥一・閑の父子。部室の粗末な壁には弥一の筆になる「四海波静」の色紙が掛けてあった。国立能楽堂の研修制度が軌道に乗る以前は、早稲田の下宝(シモホウ)がワキツレの貴重な供給源となっていて、学生あるいは卒業生が玄人能の従僧に出て、長い曲だと足が痺れて立てなくなっているのを見たものだ。工藤和哉、高井松男など「弥一学校・閑学校」古くからの個性も、早稲田下宝の貴重な産物である。
宝生新以来、文化人や大学人の稽古人に愛された流儀の歴史を重んじてか、学生へ対する「閑先生」の指導は実に熱心で、それは素人相手のみならず玄人の育成にもいかんなく発揮された。今や東京の能楽界は、宝生閑が一代を賭けて養い上げた門弟たちのワキ方に支えられているではないか。

これがどれほど凄いことであるか。国立能楽堂の研修制度あってこそとはいえ、その基盤になるのは、師として指導の任に当たる閑の技量と人徳である。
自身、舞台に立って当代一のワキ方だった宝生閑は、能楽界の下支えにも周到な力量を発揮した。
私は観客として、閑の偉大な業績に深く感謝せずにはいられない。

そういえば、もう30年以上も昔の、ちょっとしたエピソードを思い出す。

関東地方の宝生流の大学サークルは家元と連動し「関宝連(カンポウレン=関東宝生流学生能楽連盟)」という組織を持っており、年に一度、水道橋の宝生能楽堂で学生能が催されるのが例。その時のワキは早稲田下宝が勤めるのである。
ある年の演目に選ばれたのが〈小鍛冶〉。シテ方にすれば比較的「軽い」能だが、ワキ方にとって三条小鍛冶宗近は素人には勤められない習物の大役である。
それを考えず、早稲田下宝がホイホイ引き受けてしまったからたまらない。当然、あとになって閑先生から大目玉。
だが、結局は、しぶしぶかもしれないが、特別に教えてもらい、無事、学生能〈小鍛冶〉は上演された。

私は今も、おそらくブツクサ言いながら〈小鍛冶〉のワキを学生に教えていたであろう閑の姿を想像すると、おかしくてたまらない。
だが、そこに閑のおおらかさ、豊かな人間性を想像し、何とも愉快な気持ちになる。

宝生閑はほんとうに人間味のある舞台人であった。
学生や若い弟子たちに囲まれ、彼らに正面から対峙し続け、最期まで第一線に立ち続けたこと。
宝生閑の「老熟を知らぬ若々しい強さ」の秘密は、そのあたりにあった気がする。

2016年2月 9日 | 記事URL

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