批評

2010/12/28 新国立劇場オペラ公演〈トリスタンとイゾルデ〉

指揮:大野和士/演出:デイヴィッド・マクヴィカー/美術・衣裳:ロバート・ジョーンズ/照明:ポール・コンスタブル /振付:アンドリュー・ジョージ
トリスタン:ステファン・グールド/イゾルデ:イレーネ・テオリン/ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ/マルケ王:ギド・イェンティンス/クルヴェナール:ユッカ・ラジライネン/メロート:星野淳/牧童:望月哲也/舵取:成田博之/若い船乗りの声:吉田浩之
合唱:新国立劇場合唱団/管絃楽:東京フィルハーモニー交響楽団

当劇場として〈トリスタン〉は待望の初演で、海外歌劇場叩き上げの実力に相応しく本年50歳の若さで文化功労者に選定された大野和士の指揮ということもあってか、めでたく夙に全席売り切れである。その2日目を聴く。全体としては普通の出来というところ。
大野の指揮は全幕をひとつの有機体としてまとめた感があり、幕ごとに切り離せば物足りないかもしれない軽量級である。全体は過度の激情に奔ることがないし、第1幕のそれに比べてより演劇的に聴こえがちの第3幕前奏曲でも、「苦悩」の表現を前面に出すような腰の据わった深い響きで対応することはない。いわば、素人受けするウェットな大芝居とは一線を画す、盛り上げ上手ではあっても、ヨーロッパ風の理知によって把握された乾燥した劇音楽だ。これには万全の響きで対応可能な管絃楽をもってすべきだが、いつものことながら厚みに不足する東フィル。第1幕トリスタン登場で金管がひっくり返り(人物が戯画化されて見える失態)、随所で綻びが耳に立つ。

歌手の中で功績第一は、トリスタン初役のステファン・グールド。既に新国立劇場では2006年〈フィデリオ〉、昨シーズン開幕公演〈オテッロ〉で証明済みの強靱かつしなやかな声が、トリスタンの暗より明、韜晦より純情を印象させた。したがって、第1幕イゾルデとの複雑な応接よりも第3幕流血の歓喜に聴き応えがある。
先ごろも当劇場〈指輪〉でブリュンヒルデを勤めたイレーネ・テオリンのイゾルデは、中低音の充実を欠く。したがって、劇中ひとつの枢要たる第1幕盃の場で、胸声の低音が死命を決する「死の動機」を歌っても満足に響かず空虚。そんなこともあり、良く聴き分けると音楽性まことに豊かなものの、当初だいぶん生彩を欠いたのは残念。出番も短く抒情的な高音域で対応できる第3幕は持ち直し、トリスタンの屍骸に縋る述懐が美事。その延長の「愛の死」は繊細な女性的表現の綾を尽くして聴かせた。
藤村美穂子の出勤を予想した人も多かったブランゲーネは、進境著しいエレナ・ツィトコーワ。舞台奥から歌い掛けるため声が埋もれがちな第2幕見張りの歌では芯の徹った美声がコトバはっきりと、管絃楽に圧されず前面に響き出て美事。ただ藝柄が小さく、役作りも従来ありがちな「乳人・御老女」のブランゲーネではなく、第1幕でイゾルデに見下されても致し方ない「侍女・御端下」のブランゲーネである点、評価は分かれよう。マルケ王のギド・イェンティンス、クルヴェナールのユッカ・ラジライネン、みなヴァグナー作品に充分な立派な声の持ち主。

舞台装置そのほか大体以下のとおり。全幕を通して水を張った舞台。前奏曲が始まると暗黒のなか深紅の月が昇り、第1幕は骨ばかりの廃船が舞台を占拠。第2幕は暗黒を彩る青い光の中、岩組の中心に大柱が一本屹立、幾条も絡み合った輪を上部で貫く性的暗示の装置。舞台下手に本火の松明(ト書きどおりイゾルデが擲って消す)。愛の二重唱では柱上の輪が皓々と輝き、背景は星空と変じて美しいが、メロート乱入と共に襤褸の幕を背後に振り落として白昼の照明に一転。岩礁の第3幕は再び暗黒に泛ぶ赤い月。イゾルデも赤の衣装で出、最後は月と色彩を映発し合って上手に消えた。
特別な読み換えをしない演出。第2幕の不倫発覚で2人が慌ても騒ぎもしないなど、全体に無表情な演技指導と見たが、あまり成功していなかったようだ。というのも、細部では個々の歌手は結構ナマな芝居もしているからで、それでいて第3幕トリスタン渾身の熱唱尽きて倒れた直後、待ちに待ったイゾルデが駆け寄りもせず悠然と歩み寄るようでは、瀕死の勇者は浮かばれまい。無表情に徹するなら徹するで、巨体の2人を彫像に準じて厳しく造形、象徴的・記号的に研ぎ澄まされたメッセージをもっと巧みに配する必要があろう。先述の性的暗示の装置も含め、既視感の範囲内になんとなく納まった演出である。
もっとも、修辞の反復が多くなかなか劇が前進しないヴァグナー作品では、演出のツボの取り方が難しかろう。第1幕、薬酒の金盃を受け取ったイゾルデがトリスタンにそれを渡して飲まそうにも、無用の(と私には思われる)長問答を積み重ねる間しばし盃はお留守になり、肝腎の中身がこぼれやせぬかと心配だ。このあたり、〈ヴァルキューレ〉第1幕で戸塗木の幹に突き刺さった霊剣・ノートゥングに劇の焦点が結ばれてからも延々ジークムントとジークリンデの対話が続き、ちょっとやそっとでは抜剣奇瑞のクライマックスに至らない焦燥感と似ている(ちなみに、人倫に反した運命的な愛という劇設定はもちろん、楽想、たとえば3連符を重ねて盛り上げる管絃楽の運びに至るまで、この2作の当該場面では音楽までもが一部酷似する)。演劇台本の作者としてヴァグナーはよほど畸形的だから、再構成するには相応の大鉈が必要である。
最後に付け加えれば、合唱に代わる黙役の男性エキストラに違和感が横溢。半裸の上半身。下半身に袴状の布衣を纏い、第1幕では水夫舵取、第2幕以降マルケ王の扈従に扮する。歌手ではなかろうし、今回のために専門的演技指導を厳しく受けた人たちとも思われない。日本人の通例として笑いはしゃぐ演技が下手だから、第1幕最後で各自気ままにこれをされるとさながら素人の宴会藝に異ならず肝腎の舞台がぶち壊しであり、第3幕で不要になってから音楽に合わせて体を振りつつ退場する演技も無意味を極める。あえて半裸で通した割に突出した肉体美も見当たらない。
こうした間に合わせの登用ではなく、あまたあるモデル事務所の待機者を当たれば、身長、体格、容貌、望み通りの人材が高額の出演料を出さずいくらも確保できよう。たとえば、25年ほど前の金子國義が描きそうなインパクトある男たちを厳選、東洋人にふさわしい無表情かつ緊密を極めた演技指導を施して舞台に載せたら、相当の効果が生ずるに相違ない。他の一般演劇では、そうした人選と訓練は当たり前である。

2010年12月28日 | その他批評 | 記事URL

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