批評

2011/1/14 ルテアトル銀座 坂東玉三郎特別公演

1・〈壇浦兜軍記〉阿古屋 ★☆☆☆☆
2・〈女伊達〉 ★☆☆☆☆

前売と同時に全席完売、初日前日の元日公演さえ追加された大盛況。

今年61歳とは思われぬ玉三郎の美しさは驚異的だ。
いまや屈指の当たり役とされる遊君阿古屋に扮する玉三郎。自信に溢れ余裕綽々、長身の姿態と甘味を含む声を駆使して観客の耳目に訴えるさま。時代を代表するスターのみが誇り得る、上なき艶容である。
エレベーターの扉が開き3階劇場入口に降り立つと、正面に玉三郎女形口上姿の大写真。盛大なカーテンコールで幕を閉じるこの公演は、「坂東玉三郎ルテアトル銀座リサイタル」なのだ。

この公演を、この〈阿古屋琴責〉を、どう評価するか。

たとえば、越路吹雪版=岩谷時子版〈愛の讃歌〉とは別の立場に立つ美輪明宏のような考えはあるにもせよ、越路の歌うそれが、「エディット・ピアフの歌うそれと色々な意味で違う」という批評をもはや超越し、日本歌謡史上の絶対価値として屹立することは、誰しも認めるだろう。私は越路の〈愛の讃歌〉を、さらにはまた(実際に聴いた)淡谷のり子の〈愛の讃歌〉を、シャンソン原曲との異同を越えて、偉大な一代藝として心から畏敬する。これと等しく、今回の〈琴責〉を「坂東玉三郎ルテアトル銀座リサイタル2011」中の演目として見れば、これはもう、文句なしに★5つであろう。

だが、それで良いのだろうか?

私の見るところ、この日、玉三郎が演じた〈琴責〉は虚劇である。
リサイタルを彩る一コマの趣向としてならば格別、演劇的には空しい、ということだ。

玉三郎の〈琴責〉が非演劇的である最も大きな理由は、ドラマの核心をなす三曲の演奏がそれだけに自閉し、阿古屋という人物の劇的表現にほとんど結びついていない点にある。

玉三郎が阿古屋に初めて扮したのは1997年1月の国立劇場。團十郎の景清による通し上演〈壇浦兜軍記〉は初日の舞台がNHKから放送もされ、当時かなり評判になったものだ。
私はこの時たまたま、『歌舞伎・研究と批評』第20号(1997年12月刊)に「阿古屋残照~国立劇場1月『壇浦兜軍記』復活上演」と題する批評を執筆した。玉三郎の阿古屋についての所感は、その後の再演も含めて、ほとんど変わらない。

誰の目にも著しい立派な役者ぶりは別として、玉三郎の〈琴責〉が演劇的名演と誤解されるのは、三曲の演奏が劇的に機能していないことが一般に見抜かれにくいからである。

なるほど、玉三郎は流暢に歌い、楽器を巧みに操っている。が、それだけでこの三曲が良しとされるわけでは、本当はない。
伊達傾城の衣装や鬘という、演奏の自由を阻むハンデキャップはある。また、ここで披露する三曲は、〈朝顔話〉〈本下〉の箏、〈安達三〉の三弦、〈五郎藏切腹〉の胡弓とは比べものにならない本格の曲ではある。
それでも、音曲の素養を欠いた三代目澤村田之助が3日間の荒稽古でこれを出したという「伝説」はともあれ、楽器にまったく手を触れたことのない人でも、キチンとある程度の稽古をすれば、また竹本や長唄の補奏が加わればなおさら、見た目も音色もゴマカシが効く程度にはなる。少なくとも、「リストやパガニーニの超絶技巧曲を人前で弾いて見せよ」と言うのとは根本が異なるのが、阿古屋の三曲だ。
3つの楽器をちょっと触った経験があり、入るに易く極めるのに至難な邦楽器の特性を知り、この芝居の三曲がいかなるものかを心得る人ならば、これは理解できるはずである。

ちなみに、大抵の役者は胡弓が擦れないといわれるが、それは、胡弓の演奏が際立って難しいというよりも、マイナーな楽器ゆえ敬遠しがちだということが大きい。膝に挟んで擦る体勢が特異で、その利便のため昔は世話掛かったあんこ帯で阿古屋を勤めた女形も多いけれど、やはり俎板帯でないと格調は出ない。もっともその場合は、目立たぬように帯に穴を開け、中子先を挿し込んで胡弓の止まりを良くする工夫もある。

現代人は箏や三弦や胡弓に親しむ機会がほとんどない。学校教育で奨励はされていても、日ごろ聴くことはもちろん、弾くことに至っては思いも寄らない人が大多数である。したがって、三曲演奏の実態を知らず、ただ箏を撫し、三味線を弾き、胡弓を擦る、その見た目だけで感心してしまうのが実情だろう。

「三曲の演奏が劇的に機能していない」とは、どういうことか。

ひとつには、楽器の演奏と、(動的にせよ静的にせよ)それに伴う演技とが、多くの場面で有機的に一体化していず、ともすると玉三郎が無演技状態の素(す)になっていること。

ふたつには、演奏そのものが平坦で譜を追うことに終始。楽器の音色が浅く、「心」を盛り込む深さに欠け、演技の手段としての三曲ではなく、目的としての演奏に聴こえること。

分析すれば、問題は以上の2点にある。

たとえば、三味線。
能〈班女〉クセから取った詞章の内、「さるにてもわがつま」で阿古屋の手が止まりかける。岩永を窺う重忠に制せられて、気を変え、また弾き継ぐ。その、手が止まりかける「わがつま」への思い入れが、実に稀薄ではないか。
阿古屋の手が止まりかけるのは、「わがつま」の語に感無量となるためだ。
ここでは、〈班女〉のシテである野上の宿の遊女・花子の心情「恋人と不本意に別れた遊女の絶望と、男への変わらぬ思い」(能では舞台あるいは橋掛リ一ノ松に佇立して思いを示す、全曲中最も大切な部分)が、阿古屋にとってわがことの如く思われるさま、さらに、「夫(つま)」と慕う景清の身を案ずる誠心を、演技として存分に見せねばならない。それが、「さるにてもわがつま」での三味線の停滞である。
その直後ハッとなって再び演奏に専心、あとは細かい手をこなしてゆく難所に転ずると、これらのメリハリから芝居全体に面白い変化が生ずる。
この、「さるにてもわがつま」での玉三郎は、ただちょっと弾くのを忘れて喪心した態である。「わがつま」への魂切るような深い「思い」は、その無表情からは窺えない。したがって、そのあとの芝居もまた平面的にズルズルと続いてゆく。

三味線に先立つ箏の中、合ノ手を受けたあと「かげきよき名のみにて」の、「かげ」で愁いを示し、ハッと気を変えて「きよき名のみにて」から位が変わるところでも、玉三郎の思い入れは不足している。
箏曲の始原というべき古典、表組第一曲〈菜蕗(ふき)〉の趣向を採るこの箏は、基本となる一定の手(奏法・音型)を反復する箏組歌に基づくだけあって、表層的には奏法は単純。阿古屋の三曲の中で、この箏が最も容易である。
ただ、それだけに、深く弾きこなすのは最も難しい。音を落とす(=弾けないところを部分的に弾き飛ばす)ことがあっても速く奏でれば喝采を博しやすい三味線と胡弓のようにはゆかず、ジックリ弾き込み、歌い込むので、演技としての「表現」もそれだけ深くならなければならない。
玉三郎の琴歌は、美しく張りある美声で美事。だが、これを歌う玉三郎は三味線同様の無表情の演技に終始するので、「景清」の名を隠題に読み込んで重忠に心根を訴える替歌としての意義は薄い。

そもそも、箏→三味線→胡弓と順を追って、景清を思う阿古屋の心の陰翳も濃くなり、そのぶん演技も深まるからこそ、「琴責」になるのだ。それゆえ、阿古屋の三曲の中で胡弓が最も大切とされる。
玉三郎の演技不足が最も顕著なのが、その最後の胡弓である。
これは三味線でもそうなのだが、次第に音を繰り上げてゆくところ、その高音は聴く者の胸を締め付ける。ギリギリの高さまで弾き詰め、擦り詰めてゆく昂揚が、責苦を忍ぶ女の悲鳴のように聴こえるのがミソだ。
胡弓のツボを上げきった果て、ギッ、ギッ、ギッーッと擦り切る玉三郎の表情は、世上よくない例に用いる「能面のよう」で、感情の発露がない。歌右衛門の如く「これでもか」という苦悩の表情を作る必要もないけれど、ここだけでなく胡弓を擦るあいだはずっと、玉三郎はただ目をまん丸く見開き続けている。そのシラっとした相貌は、客席からどう凝視しても、頭の中で譜面を追っている表情であり、まったくの無思考状態である。

これは「肚藝」でもなければ、「すべての感情を胸中に封じ込めた、意味のある無表情」でもない。
たとえば、優れた能役者の優れた静止の演技は、このような無表情ではない。もっと内面の奥処から、沸々と滾る熱気が静かに湧き起こっているものだ。
玉三郎の無表情は素の無表情なので、これはもう、演技以前の素顔である。

三曲を弾き済まし、「この上には構ひなし」と重忠から宣告されても、玉三郎はほとんど眉を動かさない。「盡きぬお禮を伏し拜めば」で歌右衛門が眸を廻らして一笑、ヒタと合掌した部分でも、ただ、「はぁ。そうですか」とばかりに頭を下げ、素っ気ない。
阿古屋のこの時の心情は、「自らが責め苦を逃れた喜び」だけではない。幾分それもあるにもせよ、それのみでは浅い。
ここは、「三曲演奏の結果、自らへの嫌疑が晴れたことによって追求の手のひとつが減り、景清に迫る危険が確実に減じた」ことを喜ぶのだ。
つまり、景清へ捧げられた阿古屋の「愛」が流露する頂点である。それを見ればこそ、われわれは感動する。
本来ならば確実に「泣ける」場面である。玉三郎の阿古屋で、私は泣けない。

玉三郎の阿古屋を前にした重忠は、「演奏に籠められた無言の言葉と嘆きを聴き分け感に堪え、阿古屋に虚偽のないこと(+たとえ二度と逢えなくとも景清が逐電を貫き生命を全うできよう祈る真心)を悟った」のではなく、「黙秘を通す遊女の強情に呆れて、匙を投げた」かのようだった。

三曲の演奏における爪音と撥音の深みは、名人上手の専門家の演奏に親しみ、耳を養わなければ解しがたい。現代ならば山勢松韻や、調子のよい時の米川文子のレベルと、それ以下の凡百レベルとの差を聴き分けることにも通じよう。
ただし、役者の奏でる三曲とは、それだけではない。役者の藝事は素人藝レベルでも結構。その中に、演技として昇華する深さが秘められていればよいのだ。役者としては、むしろそのほうが大切である。
富崎春昇や川瀬里子といった、過去の名手の弾く地歌三弦。歌右衛門、玉三郎、それぞれの弾く阿古屋の三曲。さらには、二世豊竹古靱大夫の重忠に五世竹本錣大夫の阿古屋を配し、1923年に二世豊澤新左衛門が吹き込んだ〈琴責〉全段の驚異的な三味線演奏(平成22年度文化庁芸術祭大賞受賞の日本コロンビア「二世豊竹古靭太夫(山城少掾)義太夫名演集」所収。藝に心ある人は必携のCDである)。これら録音の聴き比べを、是非お試し願いたい。

玉三郎は三味線の胴を長唄と同じように膝に載せ、象牙の丸撥で弾く。歌右衛門は古風に胴を所作板に落として身体を傾がせ、撥は本(もと)水牛の末(すえ)鼈甲を用いた。この役を歌右衛門が間接的に学んだ十二代目片岡仁左衛門が阿古屋に扮した写真に玉三郎と同じものがあるから、歌右衛門は意図的な復古式なのが分かる。
撥に関しては、象牙よりも、本(握リ)は水牛+末(撥先)は鼈甲のほうが、比較にならぬほど音色に艶と粘りが出る。水牛+鼈甲の撥は象牙の丸撥より格が落ちるという考えがあるのを承知で、歌右衛門はこれを選択したはずだ。
ちなみに、歌右衛門も玉三郎も、現代の地歌に従い、三味線は鳩胸の曲線(棹が胴に接する部分の湾曲)がなく、切り立った近代型。撥もやはり大型で分厚い津山撥を用いる。江戸時代の地歌三味線、いわゆる柳川三味線は、長唄三味線と同様のなだらかな鳩胸をなし、撥は小型杓子状で薄い京撥である。祗園の藝妓は今も「京地」でこれを用いるが、演奏効果に劣るため、古風な歌右衛門さえさすがにこれらは用いなかった。

箏の爪音。三味線の撥音。胡弓の擦り音。すべて玉三郎は耳に優しく流麗である。同時に、平坦である。歌右衛門がそれらの一音一音に異常なまでの神経を使い、時として美感よりも真実味を優先しつつ、「譜の再現ではない、役者の三曲」を弾き分けようとした試みは、ここにはない。

元来、〈琴責〉という芝居は、演劇的にさほど内容のある演目とはみなされていなかったようだ。

戦後に歌右衛門が得意とするまでの戦前は、先述の十二代目仁左衛門、また三代目坂東秀調が阿古屋の双璧だった。
仁左衛門は美声で楽器が巧みだった。その仁左衛門について折口信夫が、「早く役者をやめて、歌うたいにでもなればよかった」(『折口信夫座談』1946年3月20日条)と言い放っている。これは十二代目松嶋屋一家が「食物の怨み」で使用人に惨殺された翌月だが、前年1945年12月その演ずる〈琴責〉を見た印象に続く言葉だけあって、演奏本位で外面的な仁左衛門の演技が髣髴する。
向島出身の秀調は美声なるがゆえに長唄方を志していた。その後、役者に転ずるにはかなり高齢の19歳で九代目團十郎の門に入り、修業を積んだ変り種である。秀調の〈琴責〉が、まず演奏、とりわけ美声の歌本位だったことが想像される。

歌右衛門以前に阿古屋を持ち役としていた意外なひとりに、五代目上村吉彌(1909~92年。前名・市川右升)がある。
晩年は老女役専門で重用された吉彌の若い頃、西日本一帯の巡業芝居で「阿古屋の右升か、右升の阿古屋か」と讃えられたとは、死没翌年に発刊された『一方の花~五代目上村吉彌の生涯』(西村彰朗編著)に見える記述。同書の吉彌直談によると、旅芝居では〈阿古屋〉が受けたという。都市部のみならず地方でも三曲の素養が一般的だった当時、これを勤める女形はほかにもあり、人によっては〈娘道成寺〉の合ノ手を弾き込んで喝采を博することもあったらしい。
こうした旅芝居、小芝居の上演履歴は、1984年12月国立劇場発刊の上演資料集中、〈壇浦兜軍記〉上演記録に漏れている。歴史の彼方に消え去った、あまたの〈琴責〉があった、ということだ。

歌右衛門の作り上げた〈琴責〉は、それまで一般的だった〈琴責〉とは、きわめて異なる次元にあったはずだ。
歌右衛門が後年しばしばこう説いた。
「三曲に重点を置きすぎると、阿古屋がお留守になっちゃいますから、どこまでも景清のことを主に思って、弾かなければならない。そこがむずかしいところで、楽器を弾ければいいというものじゃないわけです」(『歌右衛門の六十年』)。
この認識は、たぶん過去の実情とはズレている。秀調、仁左衛門、右升=吉彌の〈琴責〉は、歌右衛門的には「三曲に重点を置きすぎ」たものだったに相違ない。それを支持した観客の価値観と、「三曲に重点を置きすぎ」てはならぬとする歌右衛門の主張とは、ハッキリ一線を画するものだったと考えるべきだろう。

いわば、歌右衛門は〈琴責〉を、リサイタル演目から演劇演目へ振り戻した。また、観客に対してもそのように〈琴責〉を見るよう提案したのだ。

歌右衛門は1953年の初演以来、本興行だけでも通算12公演、〈琴責〉を出している。
そのうち1964年以来、後に触れる当代團十郎との1回を例外として、最後まで8興行に亙り重忠役に十三代目仁左衛門を望み、共演し続けた。
歌右衛門が〈琴責〉をリサイタル演目から演劇演目へ振り戻しそうとした意図は、重忠に仁左衛門を特定起用した顕著な事実にも窺い知ることができるように思う。

松嶋屋の側はともあれ、歌右衛門は生涯を通じて必ずしも仁左衛門を相性の良い共演者と見なしてはいなかった。この2人を主演として売り込んだ出し物が〈合邦〉くらいしか思い当たらないのはその証左である。
たとえば、演目が古風なうえ、2人別々の川向かいで直接のカラミもなく済み、共演にふさわしそうな〈吉野川〉(晩年の歌右衛門最愛の演目だった)さえ、仁左衛門の大判事を相手に歌右衛門が定高を勤めたのは1977年歌舞伎座での1度きり。その仁左衛門も、二代目松緑の代演としての付き合いだった。
その2人が8回までも特定のコンビを組み続けた〈琴責〉は、まさに特異な演目である。

歌右衛門が最後に阿古屋に扮した1986年4月大阪新歌舞伎座。既に視力を失い体力も落ちていた仁左衛門は、二重の階(きざはし)に足を落とすことを避けてまで、これまた最後の重忠を勤めたが、以前にましてその内容は実に美事だった。

仁左衛門の重忠は、「三曲をきちんと聴き分けている重忠」だったのだ。

長時間、二重の上で目を閉じ、形を変えながら、仁左衛門はまったく気を抜かず、三曲にハッキリと心を留め続けている。それはもう、客席で見ていても、阿古屋の弾奏の細大漏らさず聴き分けていることが手に取るように分かる態度だった。

かといって仁左衛門は、この人の一種の癖だった細かい芝居を凝らしていたわけではない。ただ、じっと静止したままなのだ。

われわれも日常、容易に判ずるだろう。相手が黙っていて、自分の話によく耳を傾けているか、はたまた上の空で聞いたふりをしているか。そんなことは、すぐ分かるものだ。

こうした仁左衛門の勤めぶりを、「後ろに目のある」歌右衛門が知らなかったはずはない。
客席の私でさえ見飽きない重忠だったのだから、これを背に負って阿古屋に扮した歌右衛門は自身の芝居に気抜けがせず、充分の張り合いがあったに違いない。
だからこそ歌右衛門は、ほんらい相性の良くない仁左衛門を重忠に重用し続けたのだろう。
晩年の歌右衛門は、次々と先立って行く仲間の役者たちの没時、その生前の当たり役を挙げて自らとの距離を暗に語ることに妙を得ていた。仁左衛門の亡くなった時、やはり第一にこの重忠を推していたのは印象的だった。

演技意識に関する玉三郎と歌右衛門の相違は、それこそ随所に見られる。

三曲の演奏を披露する前、竹本の「とんと投げ出す身の覚悟」で、二重の階に身を投げ出す。これは実に映える型である。
玉三郎はここで、展翅された稀少な蛾の標本のように、フワリと捌いた打掛の上に階一杯広がって納まる。花弁が平開して散る直前の牡丹のように華麗なキマリだ。
歌右衛門は違う。もっと腰のタメを使って捌いたかのように(実際は後見が手を添えるが)打掛の裾に強い線を効かせた、屈曲の強い「かたち」ができる。そこへ身を伸すような後ろ身で乗り掛かり、首を思うさま後ろに投げてキマル。玉三郎のように平面的でなく、芯のある強いキマリだ。
この両者の「かたち」が別物と言って良いほど異なるのは、実際の舞台を実見し比較した者ならば誰でも記憶しているだろう。

私はこの部分で、単純に玉三郎を否とし、歌右衛門を是とするのではない。玉三郎の豪奢のすばらしさは、それだけ見ても圧倒される、賛嘆すべき美であり、存在感である。
私が言いたいのは、両者の「かたち」の内面がどう異なるのか、ということだ。

歌右衛門は鼻梁の秀でた役者で、鼻孔も立派だった。この「とんと投げ出す身の覚悟」を遥か3階から見ていると、階でキマった歌右衛門の鼻の穴が、白粉で塗り籠めた顔の中心に黒くふたつ並んでいるのが実に印象的だった。シャレの分かる知人と、これを「歌右衛門のコンセント」と呼んで興じたものだ。大成駒に申し訳ないこの戯言は措くとして、こうしたことは玉三郎にはない。
なぜなら、簡単な話、歌右衛門が思いきり反るのに対し、玉三郎はほとんど反らないからである。「3階席から鼻の穴が見える」などということは、玉三郎の阿古屋にはない。

つまり、平面的に、さして身を反らさずにキマル玉三郎は、その姿態を観客に披露しているのである。だから、重忠に迫る勢いで顔を後ろに反らせる必要はない。
3階席から見ていて鼻腔が見えるほど反った歌右衛門は、観客にではなく重忠に対して、その裁定に任せるため、あえてそうしている。さもなければ、角度によっては醜く見え、身体的にもキツいこんな仕こなしは選ばないはずである。

思うに、玉三郎の阿古屋は、声も良く演奏も巧みで見伊達も立派だった十二代目仁左衛門の阿古屋(前掲『座談』で折口もこれらの美質は認めている)に、きわめて近いような気がする。
ただし、それは一種の「先祖返り」ではないだろうか?

玉三郎の〈琴責〉を見ていると、歌右衛門が昭和の戦後を演じ続けた〈琴責〉が、まるで「なかったもの」のように思えてくる。玉三郎にとって歌右衛門の〈琴責〉は、乗り越えるべきものではなく、無視すべきものだったかのように。

観客の、批評の、責任はどこにあるのかと、これを見ていて考える。
古典演劇の批評とは、過去の遺産がどう継承され(あるいは無視され)、現代に至り、未来に繋がるかを論ずる点に、その価値があるはずだ。

私は玉三郎の〈琴責〉を、非演劇的な虚劇として否定した。これは、演者個人の魅力を看板にするショーあるいはリサイタルとして玉三郎の〈琴責〉が魅惑的だということと、なんら矛盾はしない。

玉三郎ほどの阿古屋の威容は、今後数十年は見られまい。もしも福助が、菊之助が、七之助が、龜治郎が、将来この役を試みる日が来たにせよ、玉三郎の偉大な美が遜色を示すとはとうてい思われない。
だが、〈琴責〉の幕が閉まり、ロビーに出た私の身内は、虚しく冷え入るようだった。ここに阿古屋という女のドラマはない。私が過ごしたのは、無闇に綺麗な女形俳優が静々と箏を弾き、三弦を奏で、胡弓を擦るだけの長時間だった。

スターは観客に夢を与える存在だという。
だが、役者とは、観客に一場の美しい夢「だけ」を与えるのものなのだろうか?

「玉三郎の〈琴責〉が古典演劇として名演である」と正しく説き明かした批評を、私は寡聞にして知らない。これを演劇的に認める識者の透徹した論に、是非接したいと思う。

獅童の重忠は無理な配役。
私は獅童の資質を高く評価する。昨年8月新橋演舞場〈四谷怪談〉でも、加役臭の抜けない勘太郎のお岩や、一人勝手で滑稽感すら漂う海老藏の伊右衛門よりも、三角屋敷が出ないため出番は少ないながらしたたかで色気を具え、薄濁りの効いた声にセックスアピールのある獅童の直助を買ったものだ。
が、情理と格調が必須で、義太夫狂言の演技法に精通した上で演ずべきこの役に、今までの獅童の貯金は通用しない。
たとえば、最初に阿古屋に因果を含める件。
「物柔らかに理を責めてしかもこたゆる」で扇を下に突いて阿古屋を見込み、、「詮議の」の「のォォォ」の産み字で思い入れ、「言葉」で岩永を見込み、気を変え正面を向き、左手で(大松嶋は両手で)肩衣の縁を手で擦ってキマル型は、床の竹本と絃を活かして実によくついている。
ここでの獅童は、どこをどう動いているのやら、演じている本人が自らの演技の意味を解していないのではないかと思われる上、動きそのものが見ていられないほど拙劣を極める。

当代團十郎が海老藏時代の1984年12月、歌右衛門東京最後の〈琴責〉となった国立劇場で初役の重忠を勤めた時は38歳。全体を通じて重みがあり、巧妙ではなかったものの、そのとき大松嶋に習った演技の骨法は正しく、歌右衛門の相手として遜色はなかった。

獅童は今年39歳。基本的な歌舞伎素養の決定的な欠如を実感する。

榛沢は市川弘太郎。竹本は浄瑠璃が愛太夫、幹太夫、泉太夫。三味線が豊澤淳一郎、豊澤長一郎、鶴澤翔也。三味線の件で舞台下手に出る長唄は日吉小間蔵、絃は杵屋勝松。急遽決まった演目とて、出勤者の選定には苦心したことだろう。

〈女伊達〉は何ということもない。途中で入る玉三郎の口上は、人がらが伺える好内容。これが終わって、所作ダテがかなり長い。
踊りそのものは常にもまして棒立ち感が強く全身が働かず、玉三郎ほとんど手だけで踊っている。

2011年1月27日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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