批評

2011/1/16 国立劇場邦楽鑑賞会 三曲の会

平成23年1月16日(日)午後2時 国立劇場小劇場
◆箏組曲秘曲〈八重垣〉 箏:今井勉
◆紀の路の奥〈四季の段〉 箏:萩岡松韻・鈴木厚一/三絃:鳥居名美野/笛:中川善雄
◆〈櫻川〉 三絃替手:米川敏子/三絃本手:藤井泰和
◆〈笑顔〉 三絃:富山清琴・富山清仁 
◆〈松廼羽衣〉 箏:山勢松韻・岸辺美千賀/三絃:山登松和
◆〈新青柳〉 箏:野坂操壽/三絃:矢崎明子/尺八:山本邦山

毎年正月の恒例である。
ただしメンバーも固定、さして新味もない。国立劇場の企画力の限界か。

〈八重垣〉
秘曲とはいえ、組歌だから手は単純である。こうした演目は、演奏の難易よりも、「正統に従い伝授されているか、いないか」が大切なのだ。
楽譜で記憶すれば事済む睛眼者にくらべ、盲人の今井は確かに身体で覚えた藝。粗削りで愛想のない爪音だが、確かな男藝。凝った五歌に聴き応えがある。
二歌「五十鈴川」「さゞれ石」、三歌「「(八重)櫻」、四歌「底清き」「咲く花(の)」など最高音域に差し掛かっても、今井は裏声を極力用いず上げてゆくので、時に野太い声になる。これは正しい。
地歌・箏曲は、安易に裏声に逃げて小味をきかせるようではダメである。録音の富崎春昇は、どんな高音も裏声を遣わず歌いきっている。名人のノドだけあって特殊だったのかもしれないが、これが本当だ。
高い藝格を具えるにはまだまだだが、少なくとも睛眼者の男性奏者にはない底力がある。やはり地歌・箏曲は盲人のものだ。音と声の把握が、睛眼者と盲人とではまったく異なる。
黒紋付の衿元がはだけていたのが気になった。琴を弾くと前屈みになるので特に目立つ。衿留で留めれば簡単に整うのだ。周囲の人がよほど気を遣わないと、盲人の身なりは乱れて見えがちだから、気の毒である。

〈四季の段〉
『新古今和歌集』巻二・春歌下「山寺の春の夕暮來てみれば入相の鐘に花ぞ散りける」は、能〈道成寺〉急之舞の舞上ゲに謡われる能因法師の詠歌。昔の歌本に見え、今は割愛されるこれを冒頭に補曲。最後「告げてや鐘も響くらん」と首尾一貫させて演奏した萩岡松韻の工夫を評価する。冒頭に能因の歌を置くだけで、この一曲がれっきとした道成寺物として立ち上がる。舞踊の地に用いてもさぞ引き立つだろう。
萩岡は一種の美声だが、縮緬の蒲団が掛かった炬燵に温まって聴く四畳半の小唄のようで甘さが過ぎ、爪音も柔弱。鳥居の三味線に生彩がなく、音締も立たなかったが、どうしたことだろう。

〈櫻川〉
先々代以来の派閥を率い、これからの三曲界の中心となるべき2人。ただし演奏は、音楽大学の学生に聴かせる模範演奏の感。ただ手が回って良く揃った、というだけのことで、何の感動もない。これはよくよく考えなければならない問題だ。
2人別々のことをやっていながら、要所がピタリと合い、ただ揃っているだけではないのが、こうした共演で最も大切なことだろう。「揃うだけでは悪い。揃わないではなお悪い」ということである。
数年前、新宿御苑畔の小スペースで開催していた藤井昭子の定期リサイタルで、富樫教子を迎えた〈玉川〉の2挺弾きが、「要所がピタリと合い、ただ揃っているだけではない」演奏で実に面白かった。大先達の胸を借りた昭子の謹直と、若手の弾き盛りを相手に奮い立った富樫の気の張りがぶつかって、そうなったのだ。

〈笑顔〉
富筋の専有曲目。
先代富山は堅過ぎるほど慎んだ藝風だったが、こうした滑稽物に巧まざる面白さがあった。
録音で聴く富崎を、素裸でゴロリ寝ころんでいても隙のない武藝者のような〈笑顔〉だとすれば、先代富山は、キチンと前垂を掛けた丁稚どんが暖簾の蔭に隠れて、使い走りの帰り道に覗いた寄席の噺を思い出し笑っているような〈笑顔〉である。
当代富山も、父のこうした藝風を継いでいる。
だが、ただ弾き、ただ歌い、楽譜の再現機器のような当代富山の演奏は無味乾燥。それに、富崎や先代富山に具わっていた、ちょっとした手を弾いても凄みのある、こちらが斬られるような藝魂が感じられない。これは精神論ではなく、むしろ技術論である。
ツレの清仁は、昔なら屏風に隠れて弾く蔭弾きのレベル。父と並んで歌い分けるのは経験を積む一得にはなるが、キチンと座れず正座椅子を当てたのか腰高。正式に舞台に出るのだからこれは良くない。
こうしたツレを立てる時は、主奏者は洒落弾きあるいは入れ手と称する即興を弾き入れ、演奏に色どりを添えるものである(ほんらいは一人弾きでツレは不要)。だが、当代富山は終始息子と同じ手を弾き続け、変化がなかった。入れ手を弾いたら未熟なツレが乱れるのを懸念したとすれば、これは本末転倒である。

〈松廼羽衣〉
これを聴いて、ようやく一流の会らしい感を得た。
いつもながら芯の徹った山勢の爪音のうるわしさ。決して手の大きな人ではなく、体格も小柄なのだが、どこからあのキッパリした音が出るのかが不思議。冒頭の今井は別として、この日、箏を撫し三味線を弾いた男性演奏家は皆、女の山勢よりよほど女々しい藝に聴こえるから不思議だ。
藝大で生まれ育ったような山勢だが、いかにも上野出というような優等生的な冷たさはなく、たとえばこの曲でも、天女を歌って気品が高いと共に、巧まざる芝居気が必ず伴っているのが面白い。歌声もまったく衰えず、近来の〈羽衣〉だろう。

〈新青柳〉
野坂は箏を弾きながら興に乗るかして、ゆらゆら絶え間なく身体が揺れる。ジャズのセッションではないのだから、これは見苦しい。矢崎の三弦ともども、はじめの手事からかなり速度を上げて弾き進める。
野坂はどちらかと言えば現代邦楽、矢崎は新曲の多い宮城派とて、古曲らしい骨太さと雅趣に欠けるのは致し方ない。〈櫻川〉で痛感した演奏の表面性、共演のあり方に関する問題はここでも同様。

2011年1月29日 | その他批評 | 記事URL

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