批評

2011/1/21 国立能楽堂 狂言の会

平成23年1月21日(金) 午後6時半 国立能楽堂
◆狂言〈寶の槌〉 シテ:大藏彌太郎/アド(主):大藏基誠/アド(売り手):大藏千太郎(善竹十郎休演)
◆狂言〈栗焼〉 シテ:山本東次郎/アド:茂山良暢
◆素囃子〈大ベシ〉 笛:栗林祐輔/小鼓:田邊恭輔/大鼓:大倉慶乃助/太鼓:德田宗久
◆狂言〈鬼丸〉 シテ:石田幸雄/アド(僧・観音):野村萬齋/小アド(父):野村万作/地頭:深田博治
/笛:栗林祐輔/小鼓:田邊恭輔/大鼓:大倉慶乃助/太鼓:德田宗久

〈寶の槌〉シテの彌太郎は、いつものことながら声が詰まり気味で気の毒。明快さ第一の脇狂言ゆえその欠点はなおさらである。基誠は舞台に座して控えている時に眼を閉じている。それはまだしも、気まで抜けているのは要注意。なにせ、脇狂言である。徹頭徹尾、祝言の「気」が張り詰めていないでどうなるものでもない。

〈栗焼〉。当初は茂山忠三郎のところ、休演(健康だが足が悪く動きに耐えないらしいのは気の毒)に伴い東次郎の代演。おそらく初めてかもしれない良暢を相手にしたせいか手の内をためつすがめつ、結果として普段に増してタップリと手を掛けた演じよう。野村萬とは別の意味で、既に名人の境地である。
東次郎の〈栗焼〉については既に論じたことがあるが、舞歌の技術が完全に具わっているので、その様式性の力から、末尾、いきなり謡ガカリに転ずる唐突感が皆無。かえって格調がグッと高まり、そのあと「逃げ栗、追い栗、灰まぎれとて、三つは失せて候はず」と苦しい言い訳をするのがたまらなく滑稽。これは、整いきった謡と舞の格調が、最後にまたガラリ一変する転調の効果である。
良暢は終始いかにも京都人らしく柔らかく落ち着いており、最後の算用を懇切丁寧に数えて見せるので分かりやすい。
東次郎の名演とも相俟って、この日の観客の中に「分からない+つまらない」と不満に思った人は、おそらく1人もなかったのではあるまいか。最高級の娯楽である。

〈鬼丸〉は再演。2007年5月25日国立能楽堂狂言の会が改訂初演で、その時の配役は萬斎の鬼丸、万作の僧と観音、万之介の老父。羽田昶の考証による検討台本は今回も踏襲された。こうした稀曲を、一定の時間を置いて配役を変え再演するのはまことに有意義である。

~鈴鹿山に住む鬼丸は、老父養育の口実の下、山賊として世を送っている。たまたま出逢った出家に一夜の宿を貸した翌朝、その出家を待ち伏せた鬼丸は身ぐるみ剥いでしまうが、因果応報の理を諭され改心。出家は消え失せる。迎えに来た老父は鬼丸が山賊だったと知って嘆き、成敗しようと長刀で斬り掛かると、清水の観音が出現。さきほどの出家はその化身だったと明かし、鬼丸を剃髪せしめ、父子ともに極楽へ送ると約束する~

全体の印象は2007年上演時とさして変わらない。万之介が「日本むかしばなし」に出てくるような老父だったのに比べ、万作は舞狂言のような様式性を完備。甲乙つけがたい。
民話ついでに例えるならば、鬼丸役は、吉四六めいて溌剌とした萬斎が前半は適役。そのぶん、知的な萬斎には「回心」の実感が湧かないので、観音の示現に感じて出家する後半は石田の愚直さが合う。
この萬斎の感覚は、僧と観音を演じ分ける難しさにも影響する。萬斎の僧は現実の人間として実体を具えているぶん、突如として消える(切戸口に引く)時、それまでの現実性がプッツリ断ち切られず、それを引きずってしまう。萬斎は非現実の存在を演ずるニンではない。それは、能と違って、基本的に現実のドラマである狂言を演ずる役者として、ごく当たり前のことではあろう。また、ひとくちに様式性といっても、万作のように自我を滅却して舞歌に奉仕する様式性と、どこまで行っても自我が消えることがない萬斎ならではの様式感とは、同一には語れない。
後半は、白蓮立天冠に黒垂、乙の面をつけ、緋大口に白地長絹の〈當麻〉後シテめいた観音が、錫杖で舞働を舞う。若干息切れのした万作より、キビキビと動く萬斎に仏体示現の昂揚感はあるものの、やはり「僧は観音の化身だった」という感覚は萬斎の身にはない。前後断絶した印象だ。

この僧→観音の2役を東次郎にさせたら最適だろう。万作の老父。萬斎の鬼丸。さまざまな意味でちょっとおもしろい競演ドラマが出来上がるはずだ。

2011年1月29日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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