批評

2011/1/3 大槻能楽堂自主公演能 新春能1日目

平成23年1月3日(月)午後2時 大槻能楽堂
◆〈翁〉 翁:観世喜之/千歳:井内政徳/三番三:茂山七五三/面箱:茂山逸平
/笛:赤井啓三/小鼓頭取:荒木賀光/脇鼓:荒木健作・吉阪一郎/大鼓:河村大/地頭:長山禮三郎
◆狂言〈宝の槌〉 果報者:茂山あきら/太郎冠者:茂山童司/すっぱ:丸石やすし
◆能〈唐船 干之掛應答〉 シテ:大槻文藏/ワキ:福王和幸
/子方(唐子):赤松裕一・浦田親良/子方(日本子):寺澤拓海・武富晶太郎
/アイ(太刀持):松本薫/アイ(船頭):茂山千三郎
/笛:藤田六郎兵衛/小鼓:清水晧祐/大鼓:辻芳昭/太鼓:上田悟/地頭:多久島利之

喜之は昨年4月、〈關寺小町〉を勤めた。凡庸な藝風の喜之だが、百歳の小町は良いものだった。この人の歩いてきた道が見える能になっていたし、そうでなければ〈關寺〉など何の意味もない。
藝で評価できない〈翁〉も、そういう目で見なければならない。もっとも、常に温厚平静に思える喜之とはいえ、挙措進退に思いがけぬ果断なキレを示し、無表情の奥処に燃え残る焔を見た気がしたのは面白かった。

休憩を挟んで〈宝の槌〉。表情の味付けと声の大きさを除けば、内実は何もないようなものだが、関西ではこれが常なのだろう。あきらは仕事のない時に身体と表情がすっかり素である。華やぎのある童司、この程度の表現意慾で納まっているのは勿体ない。

〈唐船〉は何よりも文藏の謡の巧さ。もっとも、説明的な表情は付けていない。「牛馬をあつかひ草刈笛の」で内心の屈託を、「九牛が一毛よ」と謡い捨てて秘かな誇りを、それぞれサラリと思いがけず示すのは、よほど謡の力のある証左である。動きの随所に細心の注意があり、儀理能の本道を行く情味に溢れた好演。合掌の手を下に構えて大陸風に拱く(たんだく=胸前で手を合わせ拝む)のも面白い。
日本子(寺澤拓海・武富晶太郎)と掛け合いのロンギは引キなどを教え込むのが難しいが、子方はよく覚えて感心。樂の前の地謡の間に物着。尉髪につけた頭巾状の飾布を取り、髪を後ろに放って小型の透冠を頂き、水衣の上に布縁の裲襠を着、間狂言の船頭から唐団扇を渡されて船中の盤渉樂を舞う。
小書「干之掛應答」は樂のカカリ冒頭1クサリに干ノ手を吹くだけのことである(笛:藤田六郎兵衛)。キリは緩急が付き、グッと締まってから「船には舞の袖の羽風も追風とやならん」で小鼓と太鼓がナガシを打ったのが効果的。

2011年1月 6日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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