批評

2011/1/7 浅草公会堂 新春浅草歌舞伎第1部

1・〈三人吉三巴白浪〉★☆☆☆☆
2・猿翁十種の内〈獨樂〉★★☆☆☆

今回の〈三人吉三〉の場割は、序幕・大川端庚申塚の場/二幕目・巣鴨吉祥院本堂の場/裏手墓地の場/元の本堂の場/大詰・本郷火の見櫓の場、というわけで、土左衛門傳吉の件を省いたかたち。当然、見ても筋が分からない。序幕の後、舞台番の役者が出て説明するが、それでも要領を得ないのは致し方ない。

もっとも、新春浅草歌舞伎は短時間で手軽な歌舞伎入門の性格を持つ興行だから、「これでは演劇性の破壊だ」などと野暮なことを言う必要はない。〈辨天小僧〉で濱松屋と勢揃だけを出すのだって似たようなものだ。いわば、今回のヴァージョンを許容する現代では、それだけこの演目が解体され、批評されている、ということである。

私が考えさせられたのは、序幕である。

和尚が仲裁に入り、問題の百両を自分にくれろと言う。決まってここで客席がドッと湧く。「カッコいいこと言いながら、なーんだ、和尚はチャッカリ得する気だったんだな」と思うからだろう。

むろん、これは早合点であり、誤解である。

和尚は続けて「その代わり、2人それぞれ50両づつの落とし前に、俺の両腕を斬るがよい」と言い放って身を捨てる気概を示し、その意気に感じた2人が義兄弟の血盟を申し出るのだから、百両くれという和尚の言葉は冗談でも滑稽でもない。
だが、今回。「俺に百両くれ」と和尚が言った瞬間、お坊とお嬢が「えーッ、なに言ってんスか?わけ分かんないッスよ!」と言わんばかりの思い入れで、2人とも和尚の顔をジロリと見たのだ。
和尚のこのセリフに対して、普通は2人とも特段のそぶりは見せないものだ。私は今まで、これほどハッキリした反応を演技で示したお坊とお嬢を見たことがない。

「わけ分かんないッスよ!」と反応した亀治郎のお坊と七之助のお嬢は、いわば、観客の誤解に加担したのである。この時、誤解といえども和尚は批評され、突き放される。したがって、続く両腕の達引の意気地がすっかり霞んでしまった。
その結果、どうなったか。
和尚を兄貴分に頂く血盟のピラミッドが立ち顕われず、3人の関係が実によそよそしいものに見えたのだ。

お坊とお嬢の反応を「わけ分かんないッスよ!」と見たのは、あるいは私の深読みかもしれない。が、そう感じたことには、それなりに別の理由も思い当たる。
たとえば、愛之助に座頭(和尚は役としてその格だ)としての存在感が足りないこと。亀治郎の藝に持ち前の批判精神が横溢していること。七之助に人を惹き付ける色気と愛嬌がないこと。こうしたことから思い返しても、私にはやはり、お坊とお嬢が「わけ分かんないッスよ!」と和尚を突き放したようにしか見えなかった。

つまり、この3人は「三人吉三」として有機的に機能していないのである。

さらには、吉祥院の場でお坊とお嬢の間に男色の紐帯がまったく感じられず、心中(に等しい共同死)を決意する動機も稀薄だったことも、このバラバラ感に拍車を掛けた感が深い。

ここまで来ると、この演目を徹底的に読み替え、3人心を合わせているように見えて実は思いは別々とりどり同床異夢の〈三人吉三〉として再生したら、現代的には面白いだろう。

が、それはもはや歌舞伎のなすべき仕事ではないかもしれない。

序幕のセリフ、ことに「月も朧」から七之助と亀治郎の対決場面までが間延びしがちだ。2人ともモチモチせず、イキが詰まってハッキリとありたい。
おとせの新悟は背が高く風采も優れず損だが、他優に見られない清純さが一徳。ほかに何か一つでも長所を持てば、と思う。出て殺されるだけの十三郎を亀鶴が勤めているのは気の毒。

舞踊曲としての〈獨樂〉は取り立てて論ずるに値する演目でもないが、最後に踊り手(「獨樂賣萬作」と役名が付いている)自身が刃渡りの曲獨樂に化してしまうのは実にシュールな発想である。猿之助の〈獨樂〉には奇妙な、フリークスの見世物を見せられたような感触があって、なぜかゾッとさせられたものだ。
亀治郎の鋭い批評性はここでも横溢。猿之助のように「人がコマになってしまう」のではなく、巧みに「コマの振リごとを真似ている人」のようだから、当然ながら怪奇感は漂わない。

〈三人吉三〉火の見櫓に清元延壽太夫、〈獨樂〉に常磐津勘壽太夫、それぞれの出演である。

2011年1月 7日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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