批評

2011/1/6 新橋演舞場 壽初春大歌舞伎 昼の部

1・〈御攝勸進帳〉加賀國安宅の關の場 ★★★☆☆
2・〈妹背山婦女庭訓〉三笠山御殿 ★★★★☆
3・〈壽曾我對面〉★★★☆☆

鱶七上使と姫戻の付いた完全版〈妹背山四段目〉が近来の見もの。今後これを上越す〈金殿〉はなかなか見られまい。
義太夫狂言に、型物に、ご興味の向きは是非一見の上、それぞれの思いを巡らされたい。これを肯定するにせよ否定するにせよ、一考の価値が確かにある。

團十郎の鱶七は当代一だろう。正直者の性根が一本徹っているのと、何よりも明朗な性格が役の本質を射抜いている。口跡の工夫で聴かせる吉右衛門でも中々こうはゆかない。
この役には竹本に就く部分が存外少ない分、義太夫味に不足する團十郎には勝手が良い。たとえば、〈盛綱〉和田兵衛の引っ込みと、〈金殿〉鱶七の引っ込みと、同じ作者の同じような役だけあってよく似ているが、和田兵衛のほうが絃に乗る演技はよほど重要だ。
金輪五郎になっても手強い中に情があり残忍に見えず、幕切れの大きさも充分。もっと年を取って動きを封ずる境地に至れば、かえってさらに大きくなるかも知れない。

5日から休演の芝翫に代わって橋之助の求女。立ち姿良く、仕事も引き締まっている本役。ただし、橘姫を試そうと刀を構える件で「心底見えた」とサラリ早く言い過ぎた。ここで一呼吸詰め、姫の心を見透かす肚をハッキリ示したい。芝雀の橘姫は年相応の重みがあり、ジャラジャラと他愛もないセリフのため知に走らず見えるところがこの役らしく、父譲りのどこか手強いところも良い。左團次の入鹿は、いつもながらセリフの角々でもっと絃を受けたら時代味が出るところ。豆腐買の東藏は本役に見える。吉右衛門あたりがご馳走で出る気はなかったか。

いじめ、姫迎い、どちらも官女の役者が揃って舞台が大きい。ことに姫迎いは歌女之丞(もともと口跡の良い人だが近来かすれ気味なのは心配)以下、いかにも歌舞伎座で育ったらしい濃厚な名題連が並ぶのは嬉しい。

歌右衛門伝授の福助のお三輪は、とうぜん成駒屋型。歌舞伎義太夫狂言として細緻を尽くすこの成駒屋型〈金殿〉は心技一致した手順をなしており、ちょっとやそっとの後考の工夫は入り込む余地がないほど全体が緊密に組み上がっている。八重垣姫や政岡と並び、五世から六世へ「歌右衛門の遺産」として受け継がれた型物の代表格といえる。

ただ六世歌右衛門は、八重垣姫は早くに手掛けたものの、お三輪にせよ政岡にせよ五世没後に当たり役としたものである。先代に手を取って教わったことはないはずだ。抜群の記憶力を誇った六世歌右衛門のことだから、自身幼少の大正末期に先代がまだ演じていた八重垣姫と政岡については、その舞台をよく知っていただろう。能の型付に匹敵する詳細な型の記述に充ちた五世の藝談『歌舞伎の型』、また、中村梅花など偉大な門弟の記憶もある。

だが歌舞伎の型物は、それらだけで完全に再生できるほど単純ではない。なるほど、型や手順は記録に残せる。が、それをどう扱うか、記録できない合間をどうつなぐか、これらは実地に習い覚えて初めて身につくものだ。
その実地の伝授を欠いた型物を、間接的な情報を基に、身に合ったかたちに仕立て直し、再生しようとなると、これはもう並大抵の知性と努力では済まない。六世歌右衛門は政岡やお三輪を体得するについて、博識の門弟の教示を助けに、先代の型をどう活かすか身をもって模索し、完成させたということになる。
ちなみに、同一の役において五世と六世の藝がどれほど異なっていたかは、SPレコードに残された五世の八重垣姫や政岡の記録を聴けばありありと分かる。不自由な録音というバイアスを考慮しても、そのイキもたたずまいも、六世とは別物と言って良いほど異なっているのに誰しも驚くはずである。

つまり、福助が受け継いだ成駒屋型お三輪は、先代の型を忠実に襲いながらも、その型扱いに自らの叡智を張り巡らせて意志的に全体化した、六世歌右衛門の「作品」なのだ。その「作品」を六世本人から微に入り細を穿って伝授された福助にとって、これを演ずることはどれほど強烈な重圧だろう。

別に、玉三郎は同じく歌右衛門に政岡を直伝されたが、のちに彼は別個の型と手順を新案、実体は玉三郎型というべき仕勝手を作り上げた。福助がお三輪を演じて感ぜざるを得ない重圧は、いま玉三郎が政岡を演ずる際には存在すべくもないだろう。もちろん、これはこれでひとつのすがたである。

今月の福助は万事が歌右衛門写しで、間然とするところがない。人によっては「歌右衛門の形態模写」と言う人さえあるに違いない。もっとも、歌右衛門が肥大化させて問題となった「お留守かぇ」の件、あるいはいじめの官女に突かれて気を失う件、こうした不要の末端には拘らず、サラリとこなして無駄がない。
これら細部の取捨選択はあるものの、福助はほぼ歌右衛門型を墨守している。その結果だろうか、ふだん陥りがちの説明過剰、観客に自己を理解して貰いたいがための「爆演」がまったく見られない。客席の動向に意を用いることなく(夜の部〈浮世柄〉お國には少しその嫌いがある)、自らの内をシカと見据えて心を散らさず、藝のイキは切れずに型と手順が重層的に積み上がり、ついに「あれを聞いては」の疑着の相に至るのが今月の福助のお三輪だ。

ただし今日のところ、疑着の相の爆発はまだ不足だった。ここはどれほど強く醜くなっても良い。今月の福助ほど慎みに慎みを重ねていれば、金輪五郎に刺されて怨言を吐露するまでの短時間、どれほど突っ込んでも格を外れることはあるまい。それほど今月の福助は型と手順を周到克明に追い、これを借り物にとどめず血肉化することによって、客席の反応に一喜一憂する精神的弱さを免れている。
福助が歌右衛門型を墨守したことの意義は、実はここにある。型と伝承の重圧との対峙が内なる自己と対話する強さに直結した、ということだ。福助のお三輪に求女という男をひたすら恋い慕う純情がよく顕われていたのは手柄で、この役の性根はただそこに尽きるのだが、今回なぜ福助はそれを舞台に顕わし得たか、が重要なのだ。

今は落語をほとんど聞かない私だが、志ん朝在世当時は暇を見て寄席に足を運んだ。独演会よりも、裃を取った寄席での志ん朝の姿が好ましかったからである。
忘れられないのは、客席の最前列に座って高座を凝視していると、志ん朝は決して私と目と目を見合わせようとはしない。高座での志ん朝の態度は、例の万人を逸らさぬ愛嬌、決して冷淡どころではない。だが、噺の合間にしばしばこちらを見ても視線は必ず僅かばかり外れていて、眼光は輝いていながら、そこには幾分か他を拒む紗幕のような濁りが常に泛んでいた。
むろん、噺家が誰でもこうであるわけではない。が、「視線をそらす志ん朝」という記憶、これは志ん朝という藝人のある本質を暗示すると同時に、古典藝能における舞台と客席との関係の本質を照らし出す気がする。

義太夫狂言の時代物は、土台、現代人の常識を超えたものである。近年、このジャンルの出し物が限定され、演目の幅が狭まっているのは誰しも感ずるところだろう。比較的分かりやすい〈金殿〉でさえ1時間45分、上演頻度がそう高くはない。
こうした重厚長大な演目を観客にアピールするには、どういった姿勢が必要か、今月の福助にとっておのずから会得するものがあったのではなかろうか。演劇の本質を伝えることと、説明的演技をなすことは、まったく関係がない。型の中に身を置き、客席に余計な視線を投げ掛けないことによって、内的な自在を得、却って観客を引き寄せる強烈な磁石の力を体得するのが古典演劇の役者にとって至上命題だと思うが、福助はこれをどう考えるだろうか。

ひとつ気をつけるべきは、齢の割に福助の顔つきがだいぶん衰えている。女形としてまだ衰貌の年でもない。精神的なものか生活的なものか、ともかく艶麗静閑の容貌に近付くための努力は、これから心して必要になるだろう。

序幕〈芋洗〉。橋之助の辨慶はやや鈍重ながら、明るい中に強さ漲る好演(胸に縫い取った「弁」の字は正しく「辨」とありたい)。荒事は発散する力以上に、内に溜める力感が肝要だ。演じていて疲れない荒事は荒事とは言われない。

〈對面〉は通常レベル。五郎は三津五郎で、夜の部の三番叟よりよほど良い。土器を砕き、足を割り腰をウンと落として上手に意気込む件はさすがに見せる。十郎の梅玉は細部に至るまで安定した持役。五郎を制する形も良い。
セリフにアヤがある吉右衛門の工藤。曾我兄弟への思いが滲む「お芝居」のコクが備わり、単なる儀式的演目には見えない。手慣れた芝雀の虎に比して、巳之助の少将は試演レベル。歌昇の朝比奈は張りのある口跡で見せる。
八幡を勤める種太郎の、若者らしい凛とした態度が良い。〈芋洗〉駿河次郎で同山の束ね役として意気地を見せ、夜の部の實盛郎党で立ち並んだ中でも種太郎に自然と目が行く。将来有望、ここらで女形の修業も経験させたいものである。

2011年1月 7日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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