批評

2011/1/24 国立劇場初春歌舞伎公演

通し狂言〈四天王御江戸鏑(してんのうおえどのかぶらや)〉 ★★☆☆☆
作:福森久助/監修:尾上菊五郎/補綴:国立劇場文芸課
序幕:相馬御所の場/二幕目:一条戻橋の場
/三幕目第一場:羅生門河岸中根屋格子先の場/第二場:同二階座敷の場/第三場:同花咲部屋の場
/四幕目第一場:二条大宮源頼光館の場/第二場:同寝所の場/大詰:北野天満宮の場

いささか旧聞に属するが、備忘録を兼ねて短評を試みる。

大体のあらすじは、以下のとおり。
序幕では、将門の遺児・相馬太郎良門が、内侍所の神鏡を盗み出させて一條院の即位を阻み、共に源氏に怨みを抱く葛城山の土蜘蛛の精の助力を得、源氏への報讐と天下調伏を誓う。
二幕目では神鏡と、大内に召し上げられた相馬の家宝・繋馬の旗をめぐる「だんまり」で、鏡は盗賊・袴垂保輔が、旗は渡リ巫女・茨木婆が手に入れる。幕切れに傾城姿の土蜘蛛の精の宙乗がある。
三幕目はガラリ世話に砕け、鳶頭・綱五郎、実ハ渡邊綱と、女郎・花咲、実ハ土蜘蛛の精の色模様に、花咲母・茨木婆、実ハ愛宕山の茨木童子が絡む。
この3人が四幕目で本性を顕わし、茨木童子は綱に成敗されるものの、土蜘蛛は神鏡を奪って逃げ去る。実はこれは偽鏡。袴垂が善心に立ち返り、兄・平井保昌に化けて自害、命に替えて土蜘蛛の精を欺いたもので、袴垂から託されていた真の神鏡は保昌から頼光の手に入る。
四幕目は、頼光が保昌に与えた霊矢、水破・兵破2本の功力で土蜘蛛は滅び良門の謀叛も阻まれ、鏡は大内に、旗は相馬家に、それぞれ納まり、一同後日の決戦を約して幕。

総体に稀薄な内容。
この程度の「娯楽」に歌舞伎の将来を託する気には、到底ならない。
復活の意義を疑うこの作品を、わざわざ国立劇場が取り上げた意図を測りかねるのが正直なところ。

この作品はもとは顔見世狂言だから〈暫〉は不可欠だが、今回は正月公演でもあり、役柄としてはウケに当たる菊五郎の良門だけを拡大、その見せ場としている。したがって〈暫〉の趣向ではない。
相馬太郎良門に扮する菊五郎に古怪な叛逆者の面影は薄い。序幕で着けた王子に類する鬘は青色を帯びて、パンク青年の髪のようだ。
こうした超越的な役柄にふさわしくない口跡の菊五郎だけに、この場のこの役はまったく持ち切れない。

三幕目の世話場になると、菊五郎の鳶頭はふだんの役柄らしく安定はしている。もっとも、そのぶんルーティーンワークの延長のように見え、新味はない。
第二場、前年大晦日紅白歌合戦に出た(らしい)AKB48を当て込んだ禿踊り兎耳アキバ系所作事はご趣向過ぎてあやまるが、一座の面々を相手に綱五郎の「お土砂」で、大道具に砂が掛かると柱がグニャリと曲がるおかし味は良くできた。まあ、ドリフのコントだが、これは歌舞伎の笑いだ。

役者の中で目立つ菊之助。美しいには美しいものの、三幕目で手管の限りを尽くす女郎に扮し身を入れて演じていても、肝腎の色気が皆無だから、芝居に説得力がない。
二幕目の宙乗りで花道上の引っ込みはさすがに印象的。土蜘蛛の精だけあって、蜘蛛の糸を手繰り出しつつ傾城姿で宙を歩むのだが、糸紙をそのまま客席に放ち捨てるので、いかにも放恣な放出感があって面白い。この糸紙は常に後見が巻き納めるものだから、こうした「ゴミ放棄」は珍しい処置なのだ。

良門伯母・眞柴を演じた田之助は、序幕と二幕目だんまりだけの出演。白髪の打掛姿で存在感を示す。ただ、後述の茨木婆と同様、三島由紀夫〈椿説弓張月〉の阿公に通ずる手強い老女(「眞柴」は新古演劇十種の内〈茨木〉の鬼の名だ)として、田之助では善人に過ぎ、この役ではない。いわば皮肉な役者、昔で言えば亡き芝鶴あたりの持ち役であり、今だと竹三郎でもちょっと弱かろう。

時藏は頼光と茨木婆の二役。
本性は鬼神たる茨木婆は土蜘蛛の精を蘇生させた老巫女で、今は羅生門河岸の花売りだから、モノは違うが〈女團七〉おとら婆(歌江のお梶をいたぶった實川延壽が懐かしい......)にも通ずる、相当の悪役、汚れ役であるべきだ。だが、立女形の自負もあるのだろう、時藏は純白の白髪に綺麗な白塗、着付も能衣裳のようで、まったくこの役らしくない。当然、演技も生硬。
この人は一種「怪優」の素質のある役者だと私は思う。しかし、生得の冷たさが自意識の壁を砕かず、役者愛嬌に不足する点で中々殻が破れない。
玉三郎の5歳年下。次代の女形はこの人のはずだ。玉三郎以上に人間性が乏しい弊を、今後どうするか。
二役の頼光は美麗だが、やはり芝居に実がない。相貌の相似を幸い、双子の兄の身代わりに切腹し偽神鏡で土蜘蛛の精を欺いた袴垂保輔自害の真相に接しても、いささか酷薄に見える嫌いがある。

保輔と保昌の二役は松緑。綱の許嫁・辨の内侍を梅枝。保昌家臣で良門の間者・伴森右衛門に團藏。そのほかほぼいつもの菊五郎一座。

幕切れで、いくら菊五郎が座頭とはいえ、台上(社前に朱の高欄付の露台の大道具を出すので三段は用いない)から菊之助扮する一條院を平舞台に見下すのはどうか。少なくとも両立ちにすべきだろう。
菊之助は常の衣冠姿だったが、天皇らしく金冠白衣に緋の長袴を着用したほうが良い。大詰めにこうした役が映えてこそ、劇全体の骨格が太く見えるものだ。

土蜘蛛の出現など、随所にシンバルなどを加えた新音楽風の下座。これは良くない。

古典歌舞伎の演出は、古典に存在する抽斗のみを駆使して行う、いわば、制約の中で奇想を尽くすからこそスリリングなのだ。CGの発達でどんなに映像操作が自在になっても、実写に比べれば劇的表現として虚しいのと、これは同じだ。

今回も、音楽効果のみならず、過剰な照明の操作がある。序幕最後に舞台溶暗、菊五郎だけが浮かび上がる照明本位の演出は歌舞伎的ではない。
終幕で客席に向けてテープが爆射される仕掛けなど、劇的必然はない。
このレベルで勝負する限り、もっと大胆に演出し得る一般の商業演劇に太刀打ちできまい。また、この種のことを、賛否はともあれ、猿之助は過去すでに相当試みている。

「歌舞伎でもできること」ではなく「歌舞伎でしかできないこと」を、もっと煮詰めて考えられないのだろうか?
特にこれらは、観客サーヴィスの美名の下、ともすると遊戯的不真面目に陥りやすい菊五郎劇団の芝居に付いて回る問題だろう。

歌舞伎役者たちの世界観の貧困、コンプレックス、そうしたことが安易な演出主義に走る契機となっているのだとしたら、問題だ。
究極のところ、胸を搏つドラマに回帰しない歌舞伎は無意味である。どれほど盛り上がろうと、ショーの範囲に留まる限り、歌舞伎が存続する必要はない。

正月らしく楽しい芝居ではあったにはあったが、ハネて劇場を出、バスなり電車なりに乗り込む頃には、いま見たことをすっかり忘れてしまっている程度の「楽しさ」だった。

2011年3月 9日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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