批評

2011/1/30 宝生会企画公演

平成23年1月30 日(日)午後2時 宝生能楽堂
◆仕舞〈土車〉高橋章/同〈弱法師〉三川淳雄/同〈葵上〉寶生和英
◆舞囃子〈岩船〉 三川泉
笛:藤田朝太郎/小鼓:幸清次郎/大鼓:龜井忠雄/太鼓:金春國和/地頭:寶生和英
◆狂言〈佐渡狐〉 シテ(奏者):野村萬齋/アド(佐渡):深田博治/アド(越後):竹山悠樹
◆能〈三輪〉 シテ:今井泰男/ワキ:寶生閑/アイ:石田幸雄
/笛:藤田朝太郎/小鼓:幸清次郎/大鼓:龜井忠雄/太鼓:金春國和/地頭:三川泉

宝生会主催で近年始まったこの企画公演。昨年は三川泉の能〈弱法師〉と今井泰男の舞囃子〈羽衣 盤渉〉を軸に据えていた。長老次第に主演を任せる考えなのだろうが、今回の内容は貧しく、場内の空気もおそろしい停滞ぶりである。

昨年の舞囃子ではまだ生彩を残していた今井。今回の演技は老衰の至りである。前後を通じて、面は死んだきりだった。
2月の〈雲林院〉でもしかり、もはや一番を通して謡いこなすこともできかねる態。

晩年の後藤得三は見所から見ていても痴呆症寸前のようで生気がなく、事実、型もかなり誤っていた。直面だと謡を始終つぶやき通しなのが目につき、集中して見入るのは困難。
あたかも、動くぬけがらに接しているようだった。

現在の今井は、後藤のような「ぬけがら」とまでは見えない。事実、絶句しても、それ以降の今井が委縮しきってしまうわけではない。
だが、そこに泛ぶのは、「絶句しようがしまいが関係ない。万事、自分がすべてだ」という、普段着の素顔の自我である。
つまり、能に、藝に、奉仕しようとする、役者の無私というものが感じられないのだ。

能役者というもの、常に能の下位に身を置く用意がなくてはならない。素の自我を貫く手段として能が用いられるとしたら、素人と玄人の区別はどこに存在するだろう。
これでは、まだしも、自分のしていること自体を理解していたかどうかもおぼつかなかった後藤得三のほうがマシなのではないだろうか。

以上は今井への個人評ではない。極老の役者が能を演ずる時、どの程度までそれを藝として見取ってよいのか、という究極の問題への提議である。
たとえば、〈關寺小町〉のシテが100歳の老女だからといって、舞台上に100歳の老役者を上げ、その一挙手一投足が無条件に演劇的真実だと評し得るだろうか?

三川の舞囃子は珍しい選曲。この人の舞働、いったい何年ぶりに見たことだろう。
かといって、特段の感動は皆無。〈三輪〉の地頭は別に、立方としては短時間の出勤、楽ができてご同慶の至り、という程度。

見所の入りは恐ろしいほど悪い。
もっとも、主催者はこの番組で、どういう観客にどういうものを提供するつもりだったのか。

高橋章世代より高齢の役者たちに宝生流が頼れる時代は、既に終わっている。
これに代わる「何か」を打ち出してこそ、の「企画公演」でなければなるまい。
昨秋別会で若き家元・和英を盛り立てた〈烏帽子折〉の快演。
こうしたところから再出発するのが、宝生流にとって最も大切な覚悟のはずだ。

この日の公演を愧じる良識を、さて、宝生会は持てるか、どうか。

2011年3月 9日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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