批評

2011/2/12 横浜能楽堂企画公演

平成23年2月12日(土)午後2時 横濱能樂堂
◆能〈江口〉 シテ:梅若玄祥/ツレ:梅若紀彰・同(棹差):梅若長左衞門
/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:大日方寛・舘田善博/アイ:石田幸雄
/笛:一噌隆之/小鼓:大倉源次郎/大鼓:龜井廣忠/地頭:觀世喜正

連続公演「能・狂言に潜む中世人の精神」の第3回・仏教。能に先立って相國寺派管長大龍窟猊下の講話と、野村萬齋の狂言〈博奕十王〉があったが、所用で接し得なかった。

マグダラのマリアような玄祥の〈江口〉。むろん、これは褒め言葉である。
若女を用いた〈江口〉を、私は初めて「良い」と思って見た。

これは観世流の専用面・若女が、用いるに難しい面であるにほかならない。
江戸初期の新作面である若女は、増はもとより小面に比しても抽象度が低く、否応なくナマの女身を感じさせる。したがって、これを用いる時、〈江口〉に求められる俗性の面にしか光を当てられなくなりがちな制約がある。

玄祥はこれを逆手に取った。

陰翳の深い前シテ。
内なる表情を極めて細心に、突っ込んで、それでいて自然に謡いなしている。むしろ、意識せずして心持ちがおのずから謡に変換されているようだ。
「さのみは惜しみ參らせざりし。その理をも申さん爲に。これまで現はれ出でたるなり」の、いささか色をなすほどのイキはどうだろう。それによって、ここでグイとツメル一足が実に強靱な一足となる。
ワキに対してこのように抗弁する〈江口〉の前シテを、私は初めて見た。
風雅と裏腹の苦悩に生きた、いにしえの遊女の境涯を、あたかもわがものとして受け止めるが如きこの態度は、歌舞伎で言えば時代物よりも世話物の感触なのだが、他人事のように取り澄まさないぶん、前場の対話が虚辞ではなく、時空を超えたひとりの女の魂の叫びとして聴こえる効果は大きい。
若女とは、実に、このようなシテに用いるべき面である。

中入地で一ノ松に流れ、地謡一杯に幕に入って送リ笛を吹かせなかった。
送リ笛に伴う甘やかな抒情性(効果音楽的に「いかにも霊体でござい」と見える)を切り捨て、苦界の生活感さえ漂う生身の女のまま前場を終わったわけで、これは今回のシテの人物造形と相応する正しい処置。こうしたところに玄祥の知性がある。

後シテはふんだんに黄金で満たされた摺箔、緋の模様大口、梅若家秘蔵江戸初期の黒紅地唐織縫箔という、この上もない豪奢な出で立ち。海都アレクサンドリアの大娼館に一代濃艶の全盛を謳う名妓タイースの風情だ。つまり、「どれだけ贅を尽くした装いに身を包んでも、所詮は虚名の華やぎである」という感覚が色濃いのだ。

それは、後シテに漂う愁色の濃さでもある。

一ノ松の舟の中で玄祥は立たず、床几に掛かった。「よしや吉野の。花も雪も雲も波も。あはれ世に逢はゞや」のトメで深くクモル。
この時、シテが床几に掛かっているのが効いた。
つまり、舟の胴ノ間の屋根までの空間がシテの頭上に広く取られ、両脇にはツレが立っていることもあって、シテがいかにも狭いところに沈み込んでいる。その、谷底にいるような床几姿で効果的にクモルと、シテの表情が常にないほど愁い深く翳るのだ。
この、強い印象を残す悲哀のあとだけに、「謠へや謠へ」とツレ2人が膝をつき、シテが親密に左右にアシラウ型に、同じ境遇の女同士の一体感がある。これも新鮮な発見。

続いてシテは舞台に移り、正中で床几に掛かる間の姿勢の正しさも申し分ない。サシのトメでは手を高めに上げてシオル。先の舟中の憂愁が効いているため、このシオリもまた愁い深い。正直、見ていて同情せずにはいられないシオリである。
とはいえシオリの手が高く、ということは過剰にクモルことなく背筋が凛と伸びているので、その悲哀はベタな低次元の怨言ではない。〈羽衣〉の天女にさえ通ずる、凄艶の落涙だ。
さよう、聖の極み、俗の極みを併せ持つのが、本日の玄祥の〈江口〉なのだ。

クセはほぼ常の型だが、トメに右ウケて面を遣ったのが珍しい。これは演技の焦点をワキだけに結ばず、クセの物語を見所全体に拡げた処置である。
序ノ舞は短く二段(上ガカリ正式五段のうちカカリ+初段+四段)。全体の手ごたえからこれで充分の密度。もっとも、囃子方からすれば二段で物足りないと思わせるのも藝のうちだろう。
「すなはち普賢菩薩」で一ノ松に流れ、タップリとヨセイ。巧妙に下を見て白象顕現を示し、歓喜の両ユウケンからツマミ扇でノリコミつつ進み、地一杯に幕に入った。ワキは脇座から少し出て下に居、合掌留。
クセから序ノ舞にかけて少しテンションが落ちた。動きにささくれが立ち、回り込む足取りに流麗さを欠いた嫌いがあって残念に思ったが、再びキリで持ち直した感。

遊女で始まり遊女で終わった玄祥の〈江口〉。
だが、その遊女の人生には聖俗、清濁、喜怒哀楽、もろもろが具わり、いわば「人間なるもの」のすべてを受容する哀しみが横溢している。
女面の中で最も人間的な若女を用いて〈江口〉を演ずるには、繰り返すが、こうなくてはならない。ただしこれは、増を用いて気品専一に、小面を用いて可憐専一に、それぞれ舞い済ますより、余程むつかしい。

前シテ、および後シテのクリ・サシまでに限って言えば、私がこれまで見たあまたの役者の数々の〈江口〉の中で、今回が最高の成果である。

殿田のワキが最近また一段と良くなった。静かに座っている風姿が大々として、また清潔。いわば「硬派の抒情派」だ。このまま熟して枯れてゆけば、どれほど立派な僧ワキになることだろう。
石田のアイは開口明晰、万作ほどの格調はなくとも、万作にない柔らかみがあって、一家風をなしている。
地謡は江戸音曲風の軽さで終始。女の業を見据えた玄祥の役作りを、もっと強固に支えてありたい。

2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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