批評

2011/2/13 宝生会月並能

平成23年2月13日(日)午後1時 宝生能楽堂
◆能〈雲林院〉 シテ:今井泰男/ワキ:寶生閑/ワキツレ:工藤和哉・御厨誠吾/アイ:高野和憲
/笛:一噌仙幸/小鼓:幸清次郎/大鼓:安福建雄/太鼓:金春國和/地頭:三川泉

役者がいよいよ衰老の境に至り、心身ともにギリギリの局面に立ち至ると、その舞台をいったいどう評したらよいのか、観客の「見る姿勢」の根源が問われることになる。
名手と言われた後藤得三の、友枝喜久夫の、松本惠雄の、それぞれキャリア最末期の舞台に真摯に接した経験のある人ならば、これは痛いほど分かるはずである。

この日の〈雲林院〉、前シテは殆ど操り人形のようだった。

謡やコトバが途切れる今井に対して、後見が付けるのに、素の文句で付けるのではなく、絶句しかけたと察するや、シテに構わず謡ってしまうのには驚いた。
これはおそらく、老来聴力の衰えた今井のためを思ってだろう。
今井が老人役を勤める時、ずいぶん前から、尉髪を付けるにも耳を露出、面の耳と合わせて四ツ耳になるのも構わずにいるのは、ひとえに聴こえを良くする方便に相違ない。それでも、聴き落としや勘違いが限度を超えて頻出したら、どうするか。
シテに構わず後見が謡い、それでシテが心付いて後を続けたほうが(謡の節さえ思い出せば、それに伴ってコトバが浮かぶものだ)、シテが黙ったまま能の流れを止めるよりは良い。こうした判断がなされることは想像できる。

だが、この操り人形状態で、満足な能だと言えるか、どうか。
前月の企画公演〈三輪〉と同じ傾向が、この日はさらに強かった。

能を一種の宗教的見地から見る向きもあるだろう。
禅の世界では、常にありのままのすがたを肯定し、そこに「仏」を見るに違いない。
雨が降れば冷たいし、日が照れば暖かい。
風邪を引けば鼻が垂れる。食中りになれば腹を下す。
〈芭蕉〉ではないが、みな「諸法實相隔てもなし」である。
そこから見れば、年を取って判断力が鈍るのは、何らおかしいことではない。
これもまた、否定せず素直に受け止めるべき真実である。

だが、たとえ能を演ずることに宗教的要素が具わってはいても、能は宗教ではない。
同時に、能は役者個人の側にのみ引き寄せて見るべきではない。
能はあくまでドラマである。
個人がドラマの成就にどのように寄与したか、それこそが問われるべきだ。

役者個人がいくらギリギリの限界に挑戦したとしても、そこになにがしかのドラマの実現がなければ、畢竟それは無意味ではなかろうか。

裏返せば、能におけるドラマとは、いったい何か。
今井のこの日の舞台を見た向きは、それをとくと考えざるを得ない機会に恵まれたのではないかと思う。


〈雲林院〉を挟んで、前に大坪喜美雄〈巴〉と野村萬齋・万作〈八句連歌〉、後に登坂武雄〈國栖〉があったが、所用にて不見。

2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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