批評

2011/2/15 ルテアトル銀座 2月花形歌舞伎

平成23年2月15日(火) ルテアトル銀座
第1部(午後12時半開演) 〈於染久松色讀販〉  ★★☆☆☆
第2部(午後4時半開演)  〈女殺油地獄〉     ★☆☆☆☆
 

歌舞伎界の次代の大きな部分を、文字どおり背負って立つべき染五郎と龜治郎とに、存分に腕を揮わせたかたちの公演。

第1部の〈お染の七役〉は、大大夫・五代目半四郎以来、女形の魅力をふんだんに味わうべく全体が染め上げられるのが第一、結果としてそこにドラマが伴うのが本当だろう。
歌右衛門の、先代國太郎のこれを見ていない身としては、玉三郎を標準とする以外ないが、悪婆に必須のスラリと粋な立姿に女形らしい凛とした口跡を併せ持つ玉三郎は、さすがに土手のお六に水際立ったところを見せていたし、この芝居の竹川や〈小猿七之助〉瀧川でならば御殿女中の役柄もまた似合っていただけに、玉三郎の役の中では最も良いもので、ひとつの時代の標準とするに足るだろう。

龜治郎の七役。
前髪役の久松はともあれ、お染、竹川、小糸、お六、後家貞昌、お光、どれもに批評的な視点が光り、役になりきるのではなく、役という持駒をどう操るかという、醒めた演技意識が立ち去らない。

龜治郎と似ているようでいて、猿之助は必ずしもそうではなかった。
男女の性差をさして(あえて言えば「動物的に」)考慮しなかった猿之助は、女形に扮すると、却ってあられもないほどそこに身を置き、真女形よりも女形女形した演技に没入することは珍しくなかった。私は〈小栗判官〉お駒にその代表を見るが、その加役としての女形の勤めぶりが、たとえば故人梅幸の本役よりもよほど女形らしかったことは、認める向きも多いのではないかと思う。

考えてみれば龜治郎に、女形か否かという問題は存在しないのかもしれない。龜治郎自身、女形だ立役だ以前に、ひとりの演技者として立つ自負があろう。
だが、ニンとして猿之助よりはるかに女形の素質は具えているだけに(これほど方向性が多岐に亙っても一般に龜治郎はやはり「女形」の役者として認識されていよう)、本人の存念はともあれ、その性根の据えどころが、やはりどうしても気になるのだ。

こうなると、この芝居をただ型どおり演ずるのではなく、主演しつつも、外部から演出家として大胆に再生して掛からなければ、龜治郎の本当の魅力を投影することにはならないだろう。つまり、既に出来上がった枠内で演技する今回のかたちであれば、「龜治郎ファンの集い」の余興にしか見えないということである。

龜治郎の七役のうち、どれが良いかをあげつらう意味は、あまりない。
何となれば、龜治郎は「七役という持駒をどう動かすか」の発想で美事な早替わりをこなし、その場その場の役になり変わる。つまり、七役を美事に替わって見せること自体に意味がある。
これが玉三郎だと、そうではない。
玉三郎は女形として生を貫く役者である。したがって、個々の役柄を鮮やかに替わるだけではなく、多少なりとも「それぞれの役を生き分けようとする意志」をもって早替わりをしているように見える。これは、真女形のみの持つ性質だが、不思議なことに、福助の〈お染の七役〉は、むしろ龜治郎に近い性質を持っている。
どちらが良い、という問題ではない。これは早替わりによっていかなるドラマを、世界を、立ち上げるかという、芝居の思想の問題である。
あえて言えば、お六はもっと素敵に綺麗で愛嬌のある役であるべきで、これは猿之助もそうだったけれど、龜治郎の視線がいたずらにキツきつく、巾着切りのような表情でいるのは正しくない。

ただ、龜治郎。それにしても大変な才気である。

染五郎の鬼門の喜兵衛はある種、損な役ではあるが、序幕・小梅莨屋の場の幕切で早桶上に居直ってのキマリに男臭い魅力が横溢しなければ嘘で、その点、何も考えて演じていなかった当代團十郎の色気には敵わない。次の二幕目・油屋見世先の場で、滑稽味の勝ったカカア天下の亭主ぶりに親しみを見出す人もいるだろう。
けれども、商売が商売である。やはり世外に生きる男のアンタッチャブルの感じを際立たせるのが第一だ。

ほかに髪結亀吉の龜三郎、船頭長吉の龜鶴、女猿廻お作の笑也(この人ほど若くしてすがれた女形を他に知らない)、油屋多三郎の宗之助、庵崎久作の門之助、油屋太郎七の秀調、山家屋清兵衛の友右衛門、みな特段の印象はない。

第2部の〈油地獄〉は殺し場で終わらせず、そのあとに原作どおり新町廓の場と、豊嶋屋逮夜の場とが付く。

テレビドラマの感覚でもアプローチできる與兵衛の役は、染五郎にうってつけのように思われ、事実、その軽薄さの中に潜む純情という点で、当代仁左衛門(彼優の最も優れた役のひとつだ)以後の世代で最適と言えるかもしれない。

ただし、染五郎の「サーヴィス精神=観客にすべてを理解してもらわなければいられない甘え」が露呈したのが新町廓の場。
ここで客席を廻りながら観客を「いじり」、役者愛嬌を振り撒き放題なのは、どうか。
前の場で残忍な殺人を犯した男が、ここまで素になって楽しんでよいものだろうか。

ここには、役者が観客に対して持つ、持たねばならぬ、覚悟というものの問題があるだろう。

裏返せば、もしここで染五郎が、客を「いじり」ながら、「いま、にこやかに話し掛けているこの染五郎は、実は狂気しているのではないか」との違和感なり恐れなりを「いじられた」観客に抱かせることができたならば、それは大変な「演出」であり、劇解釈である。

どうせ客席を廻るのならば、にぎやかに装っていながら、観客を言い知れぬ恐怖に陥れることができないものか。
舞台上の豊嶋屋だけでなく、客席をにこやかに歩む染五郎の足跡までもが油と血にまみれているように思わせることができたら、これは天晴の効果であり、手腕であろう。

龜治郎のお吉は〈お染の七役〉と同様に、やはり女形としての性根が据わっていない点に哀れが欠ける。
たとえば、雀右衛門のお吉は、何気ない親切尽くしの中に、ある種の人間にありがちの隙がモロに露呈、無防備な女の業までも感じさせた。
むろん、そこまで至らずとも、龜治郎にはその宿痾たる批評的性格が浮いて見えるため、役を外側から描くことに終始するように映り、惨事の被害者として抱え込む鬱情が不足する。ために結果として、芝居に実(ジツ)がなくなるのだ。

他には、芸者小菊が高麗藏、小栗八弥に龜三郎、兄・太兵衛に龜鶴、妹・おかちに宗之助、叔父・森右衛門に錦吾、豊嶋屋七左衛門に門之助。
父・徳兵衛の彦三郎は、普段にないほどシッカリしていて、この人が病気で倒れる以前に鋭い藝で存在感を示したと聞く昔を偲び、今が惜しい気がしきりにした。
母・おさわの秀太郎は当代の適役のはずだが、最近どうも口跡に明瞭を欠く。そのうえ、「え?」とか「あ!」とか、頻繁に素に戻って不用意なリアクションを挟みがちなので、結果として老耄のように見える欠点がある。そんなに老けこむ歳でもないのだから、貴重な役者、是非とも自重を願いたいところ。

2011年3月11日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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