批評

2011/2/27 九州山本会

平成23年2月27日(日)正午開演 大濠公園能楽堂
◆仕舞〈胡蝶〉浦泰助/〈屋島〉山田秀子
◆能〈東北〉 シテ:山本順之/ワキ:福王和幸/アイ河邊宏貴
/笛:森田徳和/小鼓:幸正悟/大鼓:原岡一之/地頭:松浦信一郎(山本章弘休演)
◆狂言〈佛師〉 シテ:茂山良暢/アド:澁田昭典
◆仕舞〈道明寺〉今村宮子/〈松風〉森本哲郎/〈藤戸〉山本章弘休演
◆能〈善界〉 シテ:今村一夫/ツレ:山口剛一郎
/ワキ:福王知登/ワキツレ:是川正彦・喜多雅人/アイ:茂山良暢
/笛:森田徳和/小鼓:幸正佳/大鼓:白坂信行/太鼓:田中達/地頭:山本博通

冒頭「能へのいざない」と題する、ちょっと脱力系で親しみやすい山本章弘の解説がある。章弘本人は足を痛めたとか、能の他役には代役を立てた。

山本順之にとって36年ぶり、初演以来3度目という〈東北〉。

初シテを済ませたばかりの若手役者が、まず鬘物の稽古のように試みる能と言えば、大小物で〈東北〉〈半蔀〉、太鼓物で〈杜若〉〈六浦〉〈羽衣〉といったところが常。梅花の能〈東北〉はこの季節のものでもあり、正月以来やはり全国で若手中心によく番組に入っている。

もっとも、老練の名手が改めてこの曲で信を問う、ということはきわめて少ない。
老役者が〈東北〉を演じた成功例として三川泉、亡き金剛巌、奥善助、松本惠雄のそれぞれが印象にあるけれども、この能の内容面についてこれという決定的発見はなかった。

今回のシテは前記4人に比べてよほど強靱な構造性を身上とする藝風だけに、〈東北〉のある側面を示すことに成功したようだ。

面は前後とも増。

順之の能の身体性については、同月銕仙会〈盛久〉の評で詳述したのと同じことが、この〈東北〉にも言える。
この日、ことに良かったのは、後場一声の出で背筋が伸び、重みのあるハコビで橋掛リを出た姿。
後シテは朝顔文様の紫長絹に緋の大口という定式の扮装だったが、カマエ豊かで装束が良く似合う点も優れている。

圧巻は、クセ「池水に映る月影は」でお決まりの型、角でのカザシ扇。

扇を高く、思い切って投げ出すほど遠くに高くカザシ、下をジックリ見込むと、開いてカザシた扇の先端→腕→頸→背→腰まで、一本の強い線が通っているさまがありありと見える。
それでいて、残る全身に余計な力みはまったくない。

順之の舞技を支える身体の秘密が、ここにすべて顕われている。

この線を身内に打ち込み徹すまで、どれほどの修養を重ねたのだろうか。それほどの強い軸であり、気脈だ。
全体的な藝風は異なるが、これは近藤乾之助に通ずる「線」である。カザシた腕の具合など、実によく両者は似通っている。

謡で印象に残ったのは、地声を単純に張り上げず、内に取ったイキのハリで強く謡い切った後場の上ノ詠、「門の外法の車の音聽けばわれも火宅を出でにけるかな」の一首。
ここはクリに類する高音域なので素人カラオケのような放恣に傾きがちだが、これをハラの力で支え、抑制しながら充分ハッて聴かせるのは凡技ではない。
この日、年頭以来の風邪声からまだ完全には恢復していなかっただけに、声に頼らぬ生(き)の技がかえってよく聴き取れたようだ。

地方での、日常あまり顔を合わせぬ配役中での演能ということもあってか、総体を鑑みれば順之として常の出来ばえとはいえ、こうした発見があったのは特筆したい。
一種捉えどころのない能なだけに、〈東北〉を演ずるには曖昧な雰囲気ではなく、確実な技術力が必要なのだ。
もっとも、「ただ技術だけ」に収束して、剣術道場での竹刀試合になっては意味がないのは当然。

〈東北〉は、序ノ舞アトにツヨ吟のロンギが伴う金春・喜多流のほうに、この能の異質な特色や脇能的祝言性が顕著で、面白いと思う。
同時に、本三番目の定式を踏むかに見える観世・宝生・金剛流の〈東北〉も、詞章をよく読めばやはり特異な能であることに変わりはない。

先に挙げた「門の外」は、取材源とおぼしき『沙石集』の話型では、和泉式部の情交相手・道命阿闍梨に応えた歌である。これを能では、あえて「御堂関白」藤原道長の誦経に対する知的行為として置き換えている。
また、前後の場どちらもに式部の仕えた「上東門院」中宮彰子の名を出し、王朝の宮廷生活を印象付ける。
道長といい彰子といい、まさに『源氏物語』の時代。日本文化最高の華開いた文雅の盛時、後世が範と仰いだ理想の御代である。
もっとも、この能の和泉式部には恋愛歌人としての実像の片鱗もない。そればかりか、〈誓願寺〉に比してすら、登場人物としての実体は稀薄。
これはあたかも、「和泉式部」という記号、王朝的知性のみを身に帯びた人形(ひとがた)に過ぎないかのようである。

そもそも能の舞台・東北院は「九重の東北の霊地にて王城の鬼門を守」る寺だった。
この日の間狂言は「賀茂川の川除け」の寺だとも語ったが、いずれにせよ能〈東北〉は、「東北=丑寅=鬼門」という特殊な、かつ聖なる磁場から、宮廷(=九重)を、さらには、哲学的な都市思想を体現して造られた平安京という小宇宙を望観し、描く詩劇なのだ。
クセの詞章を一読すれば、これは決して三番目物の筆致ではない。脇能クセの修辞であることが理解されるだろう。
そうした強固な構造を示す宇宙観を語るという側面が、〈東北〉にはある。

むろん、一種錯綜したこの能にはいろいろなアプローチが可能で、梅の薫る春らしさや、抽象的な意味での三番目物らしさで勝負することが大半であろうし、初めに挙げた三川や巖や善助や松本はその意味で成功していたわけだが、肝腎の「小宇宙性」を感じさせた演者は、これまで見たことがない。

先に挙げたクセで見せた強靱な造形美に端的なように、今回の順之の〈東北〉は、その小宇宙性、脇能性に最も近かった。
その意味で、あたかも初めてこの能に接する思いを新たにした発見があった。

ワキは一人僧でワキツレは伴わなかった。

肩の力の抜けた〈佛師〉に続いて、〈善界〉は中々の力演。
今村一夫の舞台は初めて見たが、口跡にハリがあり、前場でけっこう長い安座姿も落ち着いていて、ここにグッと溜めた力がさらに加われば申し分ない。中入の演技も相応に大きい。
後場では「力も槻弓の八洲の波の」と幕際まで行くところなど、よほど力がないと破綻して見えるものだが、その瑕もない。慾を言えば、前場でも感じた内在的な力感の不足に改善の余地があるものの、若手が身体づくり、藝づくりとしてしばしば手掛ける〈善界〉としては及第点。
人前に出る機会の多いところで叩き上げれば、充分に向上が期待できる役者である。見ていて気持ちが良かった。

見所の入りは正直寂しいものだったが、地方の現実を考慮をすれば単純なことは言えない。
能2番、少なくともシテの出来ばえに関する限り、一門会としては東京で公演しても軽く通用するレベルに達していた。この日、足を運んだ愛好家は、充分満足して家路に就いたことだろう。

2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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