批評

2011/2/4 銕仙会2月定期公演

平成23年2月4日(金)午後6時 寶生能樂堂
◆能〈盛久〉 シテ:山本順之/ワキ:寶生欣哉/ワキツレ(太刀取):大日方寛
/ワキツレ(輿舁):則久英志・舘田善博/アイ:山本泰太郎
/笛:杉市和/小鼓:幸清次郎/大鼓:佃良勝/地頭:片山九郎右衞門
◆狂言〈呼聲〉 シテ(太郎冠者):山本則俊/アド(主人):山本則重/同(次郎冠者):山本則秀
◆能〈葛城 大和舞〉 シテ:馬野正基/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:御厨誠吾・森常太郎/アイ:山本則孝
/笛:藤田次郎/小鼓:龜井俊一/大鼓:原岡一之/太鼓:金春國和/地頭:観世銕之丞

近年安定して好調な山本順之の〈盛久〉は果たして名演で、この能を良い意味で「お芝居」として堪能させた先代銕之亟と、手法の点では対極にある佳さ。硬質な様式性に徹し切った美点を随所に具えていた。

作者・十郎元雅達意の創意である、橋掛リから唐突に始まるワキとの問答を経て、清水寺観世音仏前に祈念の心で舞台正中に下居、合掌した順之。以下、護送の場面前半は立ったまま、向きを変え、ちょっとクモリなどするだけで型どおりの演技なのだが、口から発する音すべてに実体が具わる強靱な声の力で、見ていて飽きさせない。

東国下の地謡上歌「勢田の長橋うち渡り」で右にトリ歩み、続くロンギで橋掛リ三ノ松から一ノ松を経て舞台に立ち帰り、地謡前に床几に掛かるまで、並の〈盛久〉だと睡魔を催す長大さを持て余しがちの部分。
だが、順之の挙措進退は引き締まっていて目が離せず、その藝はまったく甘味を感じさせない。
「無味」なのではない。
謡の輪郭が明瞭、しかも、素人が真似ても決してそうはならぬ造形の強靱さに支えられた藝の手応え。
たとえば、虜囚述懐のサシの末尾「鎌倉山の雲霞。げにかゝる身のならひかや」の「ならひかや」で聴かせる、普通にまっすぐ謡って、しかも巧さが沁みわたるクヅシの節の妙味が、そうした「甘味を排した妙味」の源だ。むろん、鋼鉄の芯の徹った身体もこれに応えて揺るぎない。
コトバ、謡、それぞれに狙いあやまたぬ確かな音感と言語感覚が具わっているので、演技は最小限で済むかに見える。

いよいよクライマックスを前に、「種々諸惡趣地獄鬼畜生。生老病死苦以漸悉令滅」のワキとの連吟は劇中最も深々と沈静した部分だが、順之と欣哉と2人の音が良く揃って出色だったため、ここの感動にも並々ならぬものがあった。
それゆえ、続く「命は惜しまず」と正面を決然として見込み、「たゞ後生こそは悲しけれ」と、悲しみながらもどこか心中に期するものが確かにある態、すなわち、(ここは観音夢告直前だが)死を前にして法華経への篤信のみは動じない信仰者の確固たる志を秘めて、スッと目を落とすハラの強さがすばらしい。

それまで鏡板前にクツロイでいた輿舁のワキツレが立ち上がり、ワキとともに一ノ松で隊列を組んで舞台に対する。
盛久に、確実に死が迫り来る。
この時、最期を前にした看経後、「盛久がつひの道よも暗からじ頼もしや」と目を落としまどろむ下居姿の確固たる存在感。
奇蹟を予告する霊夢を見、「や」と覚醒する直前の、一瞬の間の取りようの巧さ。
ここでも甘味皆無の硬質の演技に立ち添う諦観の深さは、尋常ではない。

いよいよ由比ヶ浜の頸の座に直り、危機一髪、正中で安座開経するシテの背後へと回ったワキツレ・太刀取りが、経に目が眩んだ態で角柱前に太刀を投げて放心の件。
「盛久も思ひのほかなれば」と、開いた経巻を持つ手を下ろし、視線も伏せて感慨に浸り、「臨刑欲壽終」とキリリと視線を上げ、「經文あらたに曇りなき」と居立って経巻を見流し、「剣段々に折れに」と角に落ちた太刀を見込み左半身になって、「けり」と体を直し、「あらありがたの御經や」と経を深く頂くまで、順之にはまったく隙がない。

以上、最も切迫する場面ゆえあえて詳しく型扱いを記したが、先代銕之亟はここが劇的に芝居仕立てだった。
型そのものはこのとおりなのだが、銕之亟のひとつひとつのコナシが、体内から湧き出る即興の連続のようであった。
つまり、それは「型」ではなく文字どおりの「演技」であり、さらには「役になりきった心の躍動」であって、その虚実の融合の中、まさに見所を興奮の坩堝に巻き込んだ。

順之は、そうではない。
することは銕之亟とまったく同じだが、順之はひとつひとつの型そのものに身を処してゆくが如く、実に折り目正しく、輪郭が崩れない。
かといって他動的な、形式だけの脱殻の型尽くしとは雲泥の差である。
ひとつの型が次の型を生むようにその流れは自律的で、説明的な感情表現など微塵も見せていないのに、すこぶる劇的、かつ胸迫る頂点を形成するのだ。

先代銕之亟が、表情夥多に陥る危険を敢えて辞さず、その場の即興性を信じ、自らを狂熱に委ねたのと対照的に、順之は、表情を様式の枠内に封じ籠めることによって生ずる内的圧力と熱量を、高密度そのまま提示して見せたのだ。

いわば、煮え返る釜の蓋を開け噴出する蒸気を恣にした銕之亟に対し、釜の蓋をキッチリ閉じながら中に轟く湯の滾りを聴かせる順之、という対照だろう。
しかして、そのどちらもが内部に100度の沸点を保ち、かつ、名匠が鋳込みに鋳込んだ名釜に比すべき確固たる型と演技様式とを厳守している。この点は両者相等しい。

表現のありようは異なっても、どちらもしたたかに勁い〈盛久〉なのだ。

物着後の展開は、この流れに易々と乗って行けば成就する。
男舞が五段でなかったのは、秀演だっただけに物足りなかったが、逆に、これだけ演じ尽くしていれば三段で充分ともいえる。
「長居は恐れあり」の帰心箭の如き結末が潔く、一ノ松に流れて舞い止めるまでの77分が瞬く間だった。

何ヶ所か言葉に詰まるところもあったが、気脈まで断たれることなどなく、周到な演技の臨界に障ることもなかった。
謡と型の巧妙な強靱さが表現内容と齟齬を来たしていない点で、当代、ちょっと真似手のない〈盛久〉である。

野村四郎が怪我による休演、地頭は片山九郎右衞門に変わった。
冒頭のロンギあたり、芯のある響きで「状況」を謡い上げる意図が明確。ひとつの行き方を示したものの、後半、ともすると暴走気味。
これを喜ぶ向きもあろうが、この地謡、制禦を失う中にのみ「真実」を見ようとしがちなのではないか?
九郎右衛門だけのことではないが、現在の銕仙会の地謡は、先代銕之亟の晩年の風儀に傾き過ぎている。独吟では確かに一家風を示したとはいえ、自己の主張あまりに強く、また表情をナマに吐露しがちだった先代銕之亟晩年の地頭は、結果としてトンデモナイ高音に吊り上がって、周囲がヒーヒー言いながら従っていたことも少なくない。

観世寿夫の〈井筒〉の映像に聴く、無機質でクロガネのように硬質で透徹した地謡とは似て非なるものが、晩年の先代銕之亟率いる地謡だった。
地頭としての現九郎右衛門は、こうした先代銕之亟晩年流の、一種の自己陶酔、説明主義に近い方向を、是非とも修正する必要があると思う。

ワキツレの舁く牢輿に、担ぎ棒が付いていた。
これは悪い。
この担ぎ棒は、終戦直後ワキ方の手が足りない時代に、背の高いシテ方の頭上に低身長のワキ方が已むなく付き添う便法に考案されたものだとは堂本正樹氏説だが、棒で支えていれば腕はよほど楽であるから、この代案を奇貨として以後広まったのである。

だが、輿とはすぺからく手で担ぎ上げるもの。
棒で突き上げて支える輿などはない。
輿の作リ物を担ぎ棒で差し上げれば、まるで天蓋に見える。ツレが貴人である〈大原御幸〉〈一角仙人〉などでは、実際そう誤解している人もあるらしい。

こんなことでお茶を濁すほどならば、いっそ輿の作リ物などは用いず、ワキツレを護送役人または護衛官のように、送られるシテやツレの左右に立たせて済ませるほうが、どれほど理に叶うか知れない。

もっとも、山本順之は現在のシテ方の中で最も背の低い部類に属する。
若い則久や舘田にとって、この頭上に素手で輿を翳すのが、さほど無理な仕事とは思われない。

繰り返すが、輿の作リ物を担ぎ棒で支えるのは、演劇的に無意味な近来の愚挙である。
ワキ方の良識を代表する牙城たる宝生閑の指導的卓見をもって、今後これをまったく廃することを期待したい。

則俊の美声で楽しくサラリと〈呼聲〉のあと、〈葛城 大和舞〉。

馬野のシテにはワキと対話の心があり、また、初同までの声音に一種の美感が顕著なのが得。ただし、クセアト「なほ三熱の苦しみあり」とワキに向くところは、型にも謡にもまだ生々しい表情があり過ぎて、こなれていない。
小書ゆえ白練引廻シの掛かった雪山の作リ物が大小前に出ている。この向かって左に下がってトメる中入の部分は、身体の殺し方をよく会得している。

ちなみに、この日の大和舞は序付キ替ノ神楽の演式。
カカリノ段が済み、初段オロシで拍子を踏んで、そのまま正先へ出て左右に身体を振ると囃子の位静まり、〈三輪 誓納〉めいた静謐な習ノ手に転じて下に居る。左・右・左と榊を振り、習ノ手二クサリ目で榊を縦にして頂く。三クサリ目で手を下ろし、囃子の位が直ってもとの神楽になると立って榊を肩に作リ物の向かって左側に行き、身体を左右に振って、角あたりまでスルスルと出、すぐ常座へタラタラと下がり左右、一拍子でキリの地謡に繋げる。
後シテは青蔦付天冠(立テ物ナシ)に白地舞衣と紫大口。〈葛城〉でも時々見るように、〈定家〉のように作リ物の柱に蔓草を絡め垂らすことは、今回はしなかった。

2011年3月13日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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