批評

2011/2/6 観世会定期能

平成23年2月6日(日)午前11時 観世能楽堂
◆能〈百萬〉 シテ:梅若萬三郎/子方:武田章志/ワキ:寶生欣哉/アイ:大藏千太郎
/笛:寺井宏明/小鼓:觀世新九郎/大鼓:柿原崇志/太鼓:金春國和/地頭:觀世清和
◆仕舞〈高砂〉寺井榮/同〈清經キリ〉武田尚浩/同〈誓願寺キリ〉關根祥六/同〈須磨源氏〉木月孚行
◆能〈春日龍神〉 シテ:觀世芳伸/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:高井松男・大日方寛/アイ:大藏教義
/笛:藤田次郎/小鼓:幸正昭/大鼓:安福光雄/太鼓:小寺眞佐人/地頭:武田志房

初番の能〈盛久〉(シテ:高橋弘)と続く狂言〈富士松〉(シテ:大藏彌太郎)は所用にて見られず。

〈百萬〉は僧ワキ。
万三郎のスラリとした風姿が、若い母親を思わせるのが良い。
この能のシテは、扮装の関係で、オバサンさらにはオバアサンのように見えがちだが、昔は派手に彩色した水衣を着た役。人気絶頂の女藝人の華を帯びるのが大切だと思う(この日は白・茶・紺の段腰巻に萌黄の長絹)。

出て常座に立つ姿に「何ものかを待つ雰囲気」がある。こうしたプラスアルファを感じさせるのが万三郎の能の特色だ。
同時に、クセ「羊の歩み隙の駒」で舞台に戻って(その前に橋掛リに流れ、二ノ松で「かへり三笠山」と右上を見、一ノ松に行き「影映す面影」と水鏡の型)、正中で「嵯峨野の寺に參りつゝ」と正面へ改めて一足出るツメ足に、万三郎は何の表情もつけない。普通はツメ足ひとつにも容易に濃厚な表情が出ること、たとえば梅若玄祥の舞台を見る者は知るだろう。
そのあと一ノ上端アトの大左右も無機質な動きにとどめる。これも、上端で謡ったあとは何らかの昂揚の表現になることが普通だ。

是非は別として、「これ」というところで劇性を消去してしまう方法に、万三郎の藝風の端的な姿が出ている。

つまり、先述の「何ものかを待つ雰囲気」が、すぐさま劇的表現や心理表現に結びつかず、劇性(らしきもの)を暗示しながら、結局は一種の抽象に流れる。
したがって、見る者はこれに接して一種の理解不能に陥り、結果的に万三郎の能をきわめて感覚的な言葉で語ることが多くなる。
感覚的な評語に傾くということは、それだけ演者と観客との間に越えがたい溝が横たわっているということだ。

われわれは万三郎の作り出す精緻な幻覚世界に一時の愉悦を感ずるのだが、その幻覚世界は細心の注意なくしては破れやすい。
熱演の類に至り役者の「素」の姿が幾分なりとも加わると、普通ならばそれはそれで少なからぬ薬味を添える劇的効果をも挙げ得るところだけれども、万三郎の場合はそうではなく、精緻な幻想世界に風穴を空ける逆効果にもなりやすい。
事実、この日のクセ後半で荒々しくノッた「天竺震旦」以降の動きは、外面的に上滑りして内容がなかった。

このような昂揚を見せながらも、一番の中で最も劇的たるべきクセアト、「かやうに恥をば曝さじものを」と常座で安座のまま左右の袖を見て狂笹を捨てる件は(先代銕之亟は狂おしく長絹すら脱ぎ捨てたほどだ)、すっかり狂熱が落ち着いて激情には至らず、まことに静謐な型扱いだった。

観客の予測をある時は叶え、ある時は逸らし、自己のデッサンに任せて能を描き出す万三郎のありようは、私の目には実に特異に映り、面白い。
と同時に、どれだけ舞台に見入り、見届けようと思っても、同床異夢の感を深くすることも多い。

役者と観客との距離感ということを、万三郎の能を見るたびに最近いろいろと考える。
この日の〈百萬〉をどう評するかで、見る人の能楽観が知れるかもしれない。
少なくとも、詞章に綴られる表面的な意味をそのまま感情表現として再生する(これは見た目に分かりやすい)ような低次元に堕してはいないことは、先述した演技内容で明白だろう。「何ものかを待つ雰囲気」が〈百萬〉というドラマの実現にどう寄与していたか、ということだが、今回、必ずしも明確な成果には結びついていなかったと思う。

ただ、こうした方向を突き詰めてゆけば、抽象を尽くした大抽象の域に達する可能性は、ある。

先代万三郎が、そうだった。
晩年あれほど非情なまでに「美」と、それを支える「様式」のみを追求し、ブレずにいた役者はいなかった。
袴能〈櫻川〉で見せた、至純の艶麗。当代の〈仲光〉に付き合った滿仲で見せた、眉ひとつ動かさぬ完全な無表情の冷酷。
この結びつきがたい両者を結ぶものは、至り尽くしたダンディズムのみが具え得る、「美という思想のかたち」だったのではなかったか。

〈春日龍神〉の芳伸。前シテの背筋が伸びて整った姿が良かったが、動きにキレが不足する(つまりは弱い)ので、こうした能では危殆に見える箇所がある。
送リ笛でシテが中入したあと、アイの役名は番組に「社人」とあったがその扮装ではなく、長上下の里人姿。

この大藏教義のアイが望外の秀演である。
難声だが頓着なく一気に立チシャベリを貫き、カマエは動ぜず視線も据わっている。大事な名詞をハッキリ区切って聞かせ、カタリのテンポも引き締まっている点、間狂言に取り組む見識と、取り組み方への知性が確かに窺える。立派なものだ。
この教義のアイのお蔭で、後場がグッと引き締まって見えた効果は大きい。

仕舞の中では、やはり祥六の〈誓願寺〉が出色。最後「禮し給ふは」で、立ったまま正面に合掌した姿の正しさは並々ではない。

2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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