批評

2011/4/4 新橋演舞場 4月大歌舞伎 夜の部

平成23年4月4日(月)午後4時半開演 新橋演舞場
1・〈繪本大功記〉 尼ヶ崎閑居の場 ★★☆☆☆
2・〈男女道成寺〉 ★★★☆☆

〈尼ヶ崎〉は当代の顔ぶれを揃えた配役。震災後の非常時とあって役者たちの取り組みようも真摯、その点では好感が持てるが、これが〈太十〉であるという必然性を何ら感じない舞台である。
型物が型だけに、いや、型以前に終わってしまう恐さ。
古典がここまで形骸化するとかえって何の不自然さもない恐さを、ひしひしと感ずる。

半二以後の末期浄瑠璃の中では例外的な傑作とされる〈繪本大功記〉だが、それは風(フウ)という厳格な規範の下に藝を競う大夫の語リ藝でのことであり、役者たち個々の仕勝手に左右される歌舞伎の舞台では、配役が多彩である点と、芝居として「おいしい」ところがふんだんにある点と、この2点で持っているのが実情だろう。昔から素人歌舞伎の演目として格段の人気を誇る事実がこれを物語る。

本当に〈太十〉を見せるには、つまり、宗輔や半二の超一級品に比べて調子の低いこうした作品に臨むには、完全な傑作に臨む以上の切実な演技と、豊かな藝力とが必要。そして、それらが何らかの芝居の「読み」に繋がらなければ、意味がない。

年齢的に最も身に合うのは、当然、菊之助の初菊である。その美しさは輝くようで、目が細いために表情が単調な欠点を除けば、むろん売り物になる役者ぶりである。
だが、初菊という女は、こうした女だろうか?
出陣を留めるあまりに、十次郎に「聞き分けない」と叱責(むろん、叱る「ふり」である)されるところ。
時藏がキッとなる。これを、菊之助はハッキリとは受けない。
つまり、叱られた驚きを、ほとんど見せない。

人形で見ると、ここは本当にいじらしい。
初菊のしょげかたが、菊之助に比べて甚だしいからである。

初菊という娘は、恐らく、それまで両親にさえ叱られた経験がないに違いない。「姫」というのは、そうしたものである。
ここでも、たとえ脅し賺しではあっても、愛する人から声を荒らげられた驚愕がまず、ある。生まれてこのかた接したことのない「他人の峻拒」に遭って動物的なショックを受け、それによって自身の悲運の甚だしさを心底実感する惑乱に繋がるのがこの場の初菊だろう。

つまり、初菊には何の人生知もない。あるのはただ純情だけ。

処理能力を超えて狼狽する人間はしばしば愚かに見えるものだが、「いっぱいいっぱい」になったいじらしさが初菊の性根であり、この芝居の悲劇性の添景である。ハラといっては何もない役だが、その「何もなさ」に徹することは、かえって現代人にとって難しい。
姫役とは、そうしたものである。
さもなければ、綺麗盛りの玉三郎の八重垣姫よりも、皺くちゃでヨボヨボの歌右衛門最後の八重垣姫のほうが比較にならぬほどいじらしく見えた不思議は説明できない。

菊之助の初菊は知性的で、物事をよく考え抜いており、現代こうした女性を伴侶に持てばさぞ良い家庭が築けるだろうと思わせられる、立派な女性である。
だが、そうした女性が兜の処理に困って、袂に載せて重がりながら後ろ下がりに引っ込むだろうか?

菊之助の初菊は現代人の現実と真実を生きている。実際に知己になるにはこれほど信用できる常識人はあるまい、と思わせられる。
同時に、過去の古典の時代の虚構の真実に身を投じてはいない。
生まれてから一度も他人に拒絶されたことのない女に、兜を袂に載せて引くしか能のない女に、菊之助はなり得ていない。

むろん、「生まれてから一度も他人に拒絶されたことのない女」など、現在ではまずあり得ない。これに比べれば、たとえば、玉手御前などまだ現実にいそうな女だ。
古典の役に扮するとは、まずそうしたあり得ない特殊な人間の真実に身を沈めるところから始まるのではなかろうか?
歌舞伎役者にとって真の知性は、そうした真実を演技によって具体化するためのものだ。

時藏の十次郎は、良い顔つきになってきた。
こうした役、しかも時藏のような古風な個性では、ただ若くてノッペリ綺麗なだけでは満足できない。法令線と目の下のふくらみが目立つことは女形にとって二大恐怖だろうが、時藏においては必ずしもそうではない。
前髪役とはいっても、古典的均整度の高い〈組討〉小次郎や〈絹川村〉三浦之助よりも、濁りを含んで「近代」を予感させるこの役、さらには〈糒庫〉秀頼に時藏の親和性がある(両者の違いがご納得頂けるだろうか?)。
もっとも、もともと女形ゆえか、芝居に内実が不足し「かたち」に留まるレベルである。花道の戻リも、梅玉に比べてさえ悲愴な内実は感ぜられない。
だが、役者ぶりとしては見伊達が立派である。

魁春初役の操は濃い青色の着付。前月の政岡同様、内容はスカスカである。
ツナギで何もしていないところ、例えば十次郎が帰り着くのを平舞台で迎える部分。手追いの入り込みゆえ芝居の進行がちょっと緩むが、こうしたところでどう控えていれば良いか、身体の処理と受ける演技のツボが自身で固まっていないかのように気が抜ける。
クドキはクドキで、これまた政岡同様、形も悪ければ、そこに盛り込まれるべき感情も不足している。床のポテチンで入れ歯(階)に手を突いて外し、おこついてから突き直してキマルところなど、芝居芝居した陳腐な部分ではあるけれども、どこをどう動いて良いのか身体的な定見を持っていないように見える。
舞台に出れば納まるところに納まる人で、身を殺す部分でも手は抜かず、玉三郎や時藏のように冷たいとか無表情だという点での反感は感じないのだが、魁春ほど「表立って目立つ仕事をしない・できない」立女形もまた珍しい。

秀太郎の皐月。2月の〈油地獄〉で触れたのと同じ欠点。
芝居に息切れがして、役柄に半分しか扮していない。半分は秀太郎自身の素顔だ。
「槍の穂先に手を掛けて」で自ら疵口を抉り返し、苦悶に顔を歪める大芝居の件。
グッと抉ると初菊がハァッと嘆く。そこで秀太郎は突如、苦しみを忘れた素顔になり、「あ、べつに、いいから」というようなコナシをする。
再び、芝居に戻って抉る。操が案ずる。また素になって、「うん、べつに、いいから」。

これではまるでドリフターズのコントである。私は思わず噴き出してしまった。

声の力が弱いので、セリフの点でも素に戻ることが多く、「引っ削ぎ竹の肉付鑓」のような肝腎のセリフを聞いていても、胸に応えることがない。
父譲りで義太夫の素養があり、尾上やお石やお軽で優れた成績を見せたこの人が、役相応に人間的にも老け込んでしまうのには、ちょっと早すぎるのではないだろうか。私は秀太郎の腕と個性を買うだけに、実に惜しいと思う。

久吉の菊五郎は、ファンに対する人気者としての存在感がある。ただし、上手の湯殿から登場してもパッとその場の空気が変わるわけではないし、久吉という役柄に見えるわけでもない。もっとも、後者は端場を付けずに出番の少ない通行演出の問題でもあろう。
正清の三津五郎は、荒事に準じたセリフと身体造形に筋が通っている。

光秀の團十郎は熱演である。
手負いの十次郎の復命に「逆賊」と言及されて「なにーッ!」と色をなすところ。怒り狂う芝居に真面目に徹するのは正しい。
が、腹の底からの憤怒、激情、すなわち逆臣としか他人は見てくれないことへ対する屈曲に屈曲した鬱情の発酵がないのだ。

團十郎が「なにーッ!」と怒るのを見ていて、私は、かわいい動物の着ぐるみを着たアトラクションを思い出した。
「なんだー、ひどいやー!」
「ええい、許さないぞー、プンスカ!」
こんなふうに、くまさんやぶたさんが地団太を踏み派手なアクションで腹を立てる場面である。
誇張された團十郎の演技は、内実としての感情の重さを伴わないために、行為だけが突出し、きわめてマンガ的なのである。

正月に演じた鱶七も荒唐無稽な役ではあるが、お三輪に対する人間的同情というハラは現代人にも素直に理解できるし、前半の陽気な件はむしろ「着ぐるみ」を着たつもりでマンガ的に処理しても活きる。つまり、鱶七は團十郎の個性にピタリと合致した役である。
鱶七に比べれば、光秀は実は単純である。単純なだけに、役に必須の鬱積した感情の重さを欠く時、行為そのものが浮遊して見える。
時代物、型物の恐さは、ここにある。
型ができなければダメだし、型という限界に封じ込めても圧力を増す感情を伴わなければなお悪い。
團十郎の顔の立派さ。菱皮の鬘の月代から顔にかけての相貌の偉大さ。身の丈も恰幅も鎧武者として理想的な体躯であり、今後これほど見伊達の立派な光秀は見られまい。
出の一瞬の巨怪さという点では「気」を欠くものの、キマリキマリを派手にキッパリ見せる。「小田の蛙」の前後で、時に目をギョロリと遣いながら忍ぶところなど、当代これほど「お芝居」を見せてくれる光秀はない。
だが、「行為だけが突出しマンガ的」という欠点は否めない。

つまり、みな良いところがあるのだ。
他の役者たちに比べても、菊之助ほど美しい女形はいないし、時藏ほど円熟した顔をもつ役者はいないし、秀太郎ほど潜在的に腕のある役者はいないし、魁春ほど嫌なことをしない女形はいないし、菊五郎ほど安定したスター性のある役者はいないし、三津五郎ほど規格に合った役者はいないし、團十郎ほど立派な役者ぶりを示す役者はいない。

こうした顔ぶれが揃っても、芝居に感動がない。
これはいったいどうしたことだろう。

このレベルの〈太十〉を良しとして見ているうちに、われわれの歌舞伎鑑賞力そのものが、知らず知らずのうちに低下してしまうのではなかろうか?
〈太十〉とは、義太夫狂言とは、このような甘くゆるいものではないはずである。

〈男女道成寺〉は松緑の白拍子桜子実は狂言師左近に菊之助の白拍子花子。玉三郎と数を重ねただけあって、菊之助に一日の長がある。同じ振リを踊っていても、身体が先にあって後から視線が伴うのが菊之助。先に目をやって後から身体がついてゆくのが松緑。

この演目で〈娘道成寺〉レベルを期待するのも何だが、まだ大元気な頃の雀右衛門など、「姿優しや」で手から肩まで鈴太鼓を流しながら四方に向く振リで、腰をうんと落として手先から肩上ギリギリまで一杯に動き、しかも速く、形が乱れなかった。
〈男女道成寺〉にしても、芝翫と富十郎の組み合わせではモノが違った。
菊之助も〈娘道成寺〉の第一人者とされる日は遠からず来るだろうし、松緑にしても〈男女〉は売り物にしなければならない演目である。
この日の若手の精一杯は気持ちよく見たが、本当の目標とするならば、いま挙げた3人のレベルだろう。
常磐津は精彩がない。長唄の立三味線は巳吉で、売り出し盛りの撥捌きが潔い。

※夜の部第三〈権三と助十〉は急用にてこの日は不見。

2011年4月 6日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.