批評

2011/4/3 観世会 春の別会

平成23年4月3日(日) 午前11時 観世能楽堂
◆能〈鷺〉 シテ:武田志房/ツレ:観世恭秀/アイ:山本東次郎/ワキ:寶生欣哉
/ワキツレ(従臣):工藤和哉・則久英志・森常太郎・高井松男/(輿舁):梅村昌功・舘田善博
/笛:一噌隆之/小鼓:大倉源次郎/大鼓:龜井廣忠/太鼓:小寺左七/地頭:野村四郎
◆狂言〈棒縛〉 シテ(次郎冠者):山本則孝/アド(主):遠藤博義/アド(太郎冠者):山本泰太郎
◆能〈卒都婆小町〉 シテ:關根知孝/ワキ:福王茂十郎/ワキツレ:福王知登
/笛:一噌仙幸/小鼓:観世新九郎/大鼓:柿原崇志/地頭:観世清和
◆仕舞〈白樂天〉坂井音重/〈笠之段〉観世清和/〈網之段〉關根祥六(谷村一太郎休)/〈善界〉観世芳伸
◆能〈融 思立之出・十三段之舞〉 シテ:津田和忠/ワキ:森常好/アイ:山本泰太郎
/笛:杉市和/小鼓:幸清次郎/大鼓:國川純/太鼓:助川治/地頭:高橋弘

武田の〈鷺〉は挙措進退が叮嚀。着付を気にして袖口を引き素に戻る癖もなくなったのはめでたい。居ずまいの引き締まった美しさは、なんと言ってもこの人の美徳である。

半面、まだこの能にひとつの「かたち」を付与するには至らない。

われわれが能として〈鷺〉に求めるものとは、何か?

この能は、鷺亂なる舞事をただ舞って見せるだけの御祝儀物ではない。
小児や老翁の無垢純一を謳って、演技以前の素の舞台姿を見せる作品、でもない。
もとより、鳥の物まねでは、さらにない。

〈鷺〉が見世物ではなく能として存在するには、無意識にせよ意識的にせよ、役者がひとつの演劇的思想を体現しなくてはならない。
〈鷺〉の難しさは、実にそこにある。

私がこれまでに見た、美事な〈鷺〉の舞台。
描写を超越した圧倒的存在感で有無を言わせなかった松本惠雄の境地。
規矩厳格な動きの端正さに徹して世にも美しい魂を流露させた松本忠宏の境地。
舞アト「まして鳥類畜類も王威の恩德逃れぬ身ぞとて」で天皇と互角の魂の尊厳を示した關根祥六の境地。
中でも、祥六の舞台に端的に現われていたことは印象的だった。
その祥六に限らず、私はこの能でシテとツレの対坐するのを見て、いつも思い起こすことがある。

それは、花園院と大燈国師の有名な問答の逸話だ。
広く知られた伝説であり、知る人も多いだろう。京都・大徳寺開山たる峻厳無比な大燈も、帝王でありながら禅法の蘊奥を極めた花園院も、人品・識見ともに最高の傑物だった。

至尊の前に召されても、悠揚迫らぬ大燈の威風。
これに感じた院曰く、
「仏法不思議、王法と対坐す」。
国師、すかさず勅答し奉るに、
「王法不思議、仏法と対坐す」。

ここでは、仏法を標榜する大燈も、王法の象徴である花園院も、それぞれの立場を踰(こ)えて、互いを認め合っている。ともに「いのち」ある者同士、彼我の差別のありようを見た上で、それを超越した平等観に立とうとする。
まことに美しい問答である。

〈鷺〉という能の演劇的意義は、生きとし生ける者同士の生命の交歓にあるのではなかろうか。
両松本や祥六の〈鷺〉には、役者としての強固な自我の上に、生命体としての鳥が尊厳を保ちつつ、帝王と、人間と、互角に相対する、強烈な存在感が流露していた。
いわば、鷺の姿を借りた能役者の存在そのものが、「かたち」を帯びた思想だったのだ。

願わくは、武田にもそれを望みたいと切に思う。

この日、ツレの輿を腕で持ち上げず、担ぎ棒を用いていたが、毎々指摘するようにこれは最近の悪風。作リ物の意味を失する誤った処置であって、厳に廃止を望みたい。

則直遺子の兄弟が息の合ったところを見せる〈棒縛〉は、安定はしているものの、たとえばカミソリでもよし鉈でもよし、もっと切先の鋭いところを示すことはできないものか。

關根知孝の〈卒都婆小町〉は実に端正。ことに出の姿態
一番を通じ、爪先を上げずにハコビ通す老女足を厳格に守った。謡は些か単調ながら安定感はあり、「極楽の内ならばこそ」の戯歌も強めにハッキリと謡って、意味が良く通じた。

ただ、整ったという限り秀逸な演技にもせよ、役者としての「顔」が見えてこない。今後、それをどう獲得して行くかが、とうぜん問題になるだろう。

仕舞の中では、代役に立った祥六の〈網之段〉がさすがに優れている。透明な哀しみの溢れるノリと姿態。

小書付の〈融〉。 
シテの型に実体を欠く部分が散見されたのは残念。
たとえば前シテ。何心もなく下から上を見て「や。月こそ出でて候へ」とは、いかにもブッキラボウだ。
もっとも、細部に拘らぬこうしたやり方も、確かにひとつの方向ではある。が、見たところ、全体をそのように大づかみに把握しておいて、局所に強烈な焦点を結ぶ方法でもないように思う。
中入前のロンギ「身をばげに。忘れたり」と打チ合セ、「長物語よしなや」と小腰をかがめる型にも、形と内容とを煮詰める余地がまだあるようだ。

後シテは黒垂に小立烏帽子、白地単狩衣に緋指貫、眞ノ太刀を佩く。
早舞のはじめ黄鐘五段は常の型。後の盤渉五段の初段から替ノ型で、その三段目にクツロギが入る。この時、幕際まで行くと黄鐘の調子に下がり(笛は吹流シにせず拍子に合った手)、常座に戻ってクツロギが終わると再び盤渉に上がった。トメに盤渉急之舞三段、都合十三段である。

黄鐘五段から盤渉五段に移る時、シテは静かに扇を畳み、下に居たまま立拝、改めて舞い始めた。申し合わせができているせいもあって、この時、囃子方に対しては特に報せる感じではなかった。
よく聞くことに、「シテが興が乗って舞い継ぎたいと思う時は、五段舞い上げて扇を閉じると、囃子方がそれを合図に早舞を反復する」。
橋岡久馬が〈融〉の十三段を舞った時、黄鐘五段のトメで、囃子方に対しまさにこれ見よかしの態度で横板に向かい、高々と扇を持ち上げて大仰に閉じ済ました姿が目に焼き付いている。

世阿弥『二曲三体人形図』の天女舞、「乘樂心」の図を見るたびに、私はこの時の久馬の早舞を必ず思い出す。

2011年5月 2日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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