批評

2011/7/8 新橋演舞場 7月大歌舞伎 昼の部

平成23年7月8日(金)午前11開演 新橋演舞場
2・歌舞伎十八番之内〈勧進帳〉  ★★★☆☆
3・大佛次郎作〈楊貴妃〉 ★☆☆☆☆

海老藏の謹慎後復帰公演とて、完売の景気を見せた昼の部。
実際に見ると、気抜けのする内容である。

年に一度か二度、芝居見物に興ずる人、あるいは〈勧進帳〉を初めて見る人は別として、既に食傷の域すら超えたこの頻演演目に感ずる魅力は、何だろうか?

狂言立てや出勤役者を問わず毎月決まって、時には同じ出し物を何度も見るために劇場に足を運び、演目の本質や上演の達成度を見極めることを楽しみ、学ぼうとする(断っておくが、これは古典藝能においては否定されるべきでない娯楽・鑑賞のひとつのありかたである)者にとって、〈勧進帳〉から与えられる感動の命数は、既におおかた尽きてしまっている、と言ったら、それは過言であろうか。
少なくとも、私にとってはそうなのである。どんな熱演に接しても、ある程度以上の感銘を受けることは、もはや殆どと言って良いほど、ない。
この原因は、舞台の側にあるのだろうか。または、客席にいる私の側にあるのだろうか。

昨年(2010年)の10月、新橋演舞場で仁左衞門の〈盛綱〉が出た。
團十郎の和田兵衞をはじめ当代の顔合わせとて期待したものの、結果としてどこかゆるい、見る者をして衿を正さしむる感の不足する上演だった。
幕間、1階の大間に出ると、翌月の歌舞伎チャンネル(惜しくも今年3月終了)の番組を予告するテレビ画面から〈勧進帳〉の長唄が聴こえる。
ふと見ると、義経は亡き歌右衞門である。

私は、と胸を消つばかりに驚き、その場に立ちすくんでしまった。

1985年(昭和60年)5月歌舞伎座、当代團十郎襲名披露第2ヶ月目の〈勧進帳〉を、私はよくよく憶えている。
が、当時NHKでも放映されなかったこの映像が、内部の記録保存用でない、一般の鑑賞に堪える完全なかたちで残されていると、私は知らなかった。
この時の予告番組で断片的に見た歌右衞門の義経は、花道の出、「判官御手を」の件、そのほかすべて、25年前に見た時の鮮明な記憶と、まったく違わなかった。
歌右衞門の義経は、花道七三での腰と背筋のキマリ、扇を持つ手を替えつつ膝立って辨慶に近寄るコナシ、そのすべてに強靱な線の徹った、はなはだしく峻烈なものである。

当時、実際に見る前、私は歌右衞門の義経にまったく期待していなかった。
折角の機会なのだから、もっと女形の大役を勤めてほしい(この月の歌右衞門は口上と義経のみ)と、歌舞伎見物初心者としてまだ見ぬ大成駒の当たり役数々を思い浮かべ、芳村五郎治の美声を聞き流して、花道が良く見える歌舞伎座の三階東側からただ下を見下ろしていたものだ。

揚幕が開き、歌右衞門の義経が出る。七三でキマル。
一瞬、予想もしないものがそこに立っていた。
歌右衞門の義経こそ、「これから死にに行く」義経だった。

この貴人の行く手には、甚だしい困難と受苦の果ての、死しかない。そのことを、七三のキマリだけでハッキリと見せてしまう。それが歌右衞門の義経だった。
この時、歌右衞門が花道を歩むにつれ、満員の場内に激しい青嵐が吹き立ち、吹き落ちた。

芝居がハネ、演舞場から出て歩きながら、私は実際いま見た〈盛綱〉よりも、大間に流れた映像の歌右衞門の義経のほうを考えていた。思わず、落涙していた。
決して懐旧の涙ではない。生前の歌右衞門がそうだったように、単なる昔話ほど私の嫌いなものはない。

映像の中の歌右衞門は、25年前の記憶と寸分違わず、ギリギリの藝を見せている。まったく、心身を責め抜く勤めぶりである。
故人のこの粉骨砕身に引き比べ、25年の間、私はなんと怠惰で、不勉強だったことか。
もはや再び目にするはずもないと思っていた歌右衞門の義経は、突如として記憶の底から生々しく目前に立ち顕れるや否や、私の慙愧の念を激しく掻き立てた。

私にとって、真の藝とは、このように自らを反省させてくれるものである。
思いもかけず歌右衞門の義経を目にして、私は心の底から自らの迂愚を恥じた。

思えば、歌右衞門に対して富樫を演じた二代目松緑も、その前月(1980年4月・團十郎襲名1ヶ月目)の義経だった梅幸も、同じく富樫の先代勘三郎も、出来ばえの善し悪しやニンの有無はあっても、それぞれがそれぞれの藝の最終到達点を示していた。また、梅幸を除いて、それぞれがそれぞれのその役の勤め納めだった。勘三郎も松緑も梅幸も、程度の差こそあれ、歌右衞門と同様、近寄りがたい藝劫の厳しさを体現していたことに変わりはない。
そして、私にとって〈勧進帳〉とは、これらの上演を始発点・基準点として考える以外、ないのである。

それから26年。重ねて幾度見たかも分からない團十郎の辨慶。
映像は残酷だ。襲名当時のこの人の辨慶が、ニンと気組みの良さを裏切るかのように如何に拙かったかは、いま一見すれば蔽いがたい。セリフが間延びし、開口が明瞭でないのが、その最大の欠点である。
今はどうだろう。
その悪声はともあれ、口のみならず咽喉の奥まで開けるかのようにコトバを際立たせる発語の工夫が板に着いた現在、口跡の含蓄ということは措くにもせよ、辨慶に限らず何を演じても、言っていることがハッキリ分かる。芝居のテンポも詰まり、こと〈勧進帳〉に限れば、襲名当時に比べて「早送り」していると思わせるほど停滞がない。

開口が明瞭で、テンポに停滞がないというのは、余計な思い入れがない、ということだ。
これは、実は大変なことである。
大抵の役者は、年を取るにつれ、悪い意味で芝居が重くなり、テンポが落ちる。
團十郎はその逆を行っている。これは記憶しておいて良いことだと思う。

加えて、この26年の間、團十郎には余人のふつう味わうことのない苦難の道があった。藝に個人をのみ見ることは本質的にフェアではないが、辨慶のような役には、役者の全人格的な重みというものが、やはり欠くことはできない。
近年、優れた辨慶を見せた吉右衞門や故人富十郎に比べて、藝の巧拙では劣る團十郎の辨慶が、やはり当代では抽んでた本役であり当たり役であることは、今月の舞台を見て、しみじみと胸中に湧いた感慨である。

たとえば、延年ノ舞の前の酒宴の場で、吉右衞門だと「辨慶という役に扮した上で匂わせる役者の味わい」と思わせるところ、團十郎は「ほとんど堀越夏雄の素のまま番卒に興じて見せて、そこに辨慶という役柄を引き寄せてしまう」態である。
これが幸四郎なら、自身のヒロイズムに辨慶のヒロイズムが綯い交ぜとなって、一種、私小説的な自己閉塞を濃厚に漂わせる。辨慶という役に全人格性を通す團十郎には、そうした怪しげな自己陶酔の影もない。
陰翳の深い吉右衞門の辨慶は、死ぬべき時には黙って死んでゆく辨慶。
剛毅木訥の團十郎の辨慶は、甚だ生きがたい時でも黙って生き抜く辨慶。

梅玉の義経は、この人の役の中で最も良いもののひとつだ。
秋霜烈日の歌右衞門風ではなく、さりとて伝授を受けた梅幸の雅風そのままでもなく、理智と抑制の効いた、四相を悟る御大将である。天地人の見得で笠に手をやり、膝に戻すイキ。そのまま舞台下手に居定まった静けさ。整った舞台行儀、即、この役の本質である。

問題は、海老藏の富樫。

肌の荒れが気になるが、この役者の横顔の美しさ。
着痩せした内部に鋼の肉身を思わせる姿態の色気。
こと見た目に限っては、歌舞伎役者たる天与のすべてを具えている。

が、私は天与や天才よりも、もっと複雑で渾沌とした「藝」を畏敬する。
藝とは、人格である。
断っておくが、私は修身斉家のような道徳的人格論には何の興味もない。「やはり藝は、人ですよ」とうそぶく見巧者に限って、その内実は何にも分かっていないことが多い。
役者の藝を支え、その本質ともなる人格とは、「共演者や観客との相互関係あってこそ形成される自己のすがた」のことではなかろうか。

海老藏の富樫は、甚だしく自意識が強い。
今月これは無理からぬことで、一歩間違えば役者生命が断たれたに相違ない、また今後その可能性皆無となった訳でもないかもしれない一大スキャンダルの後である。どんな豪胆な男でも、人目を気にするなと言うほうが無理だろう。
ただ、それを外面に顕わすか、そうでないか。このふたつは別問題である。

名ノリのあと、舞台上手で床几に掛かる。普段だと正面の山台や気の早い人は花道へ、観客の視線は方々に分散する。ところが、致し方ないことながら、今月は客席の目の大半が富樫に集中したままである。
真横を向いた海老藏は、これを知ってか知らずか、神経質に両袖を直す。視線があちこちに落ち着かない。上体までが動くことはないにもせよ、身を殺して静坐するすがたにはほど遠い。
富樫は、能ではワキ方の大役である。歌舞伎でも、義経ほどではないが、仕事のないところでジッとしていることに、この役の値打ちがある。海老藏、そのことに心を定めきれているようには見えない。

役としての富樫は、義経とは殆ど接せず、まずは辨慶との一対一に尽きる。ここでも海老藏は、父の辨慶との間に見えない壁があって、双方の勝負や絡み合いという感覚がない。
これは不思議なことである。
藝の上下が原因ではなかろう。襲名時の團十郎の辨慶は、タガが外れるほど情味濃厚で藝風としては接点のなかった先代勘三郎の富樫や、実際の人間関係上の問題すら胚胎した叔父・松緑の富樫に対して、「見えない壁」を感じた記憶はない。そこにはそれなりに激しくぶつかり合う、役者同士の関係性、役と役の関係性が存在した。

熱演の團十郎と熱演の海老藏との間に、なぜ「見えない壁」が生ずるのだろうか。
これは、團十郎の側の問題ではなく、海老藏の側の問題なのではなかろうか。

富樫に限らず、海老藏の芝居は多くの場合「脳内歌舞伎」の様相を帯びる。
自己の演技には実に細かい半面、他者に対する演技、さらには、自分と関係ない部分での他者の存在について、はなはだ無頓着なことが多い。
昨今、「ゲーム脳」ということがよく言われる。
ゲームとは、それがいかに精緻に出来ていようと、徹頭徹尾、誰かによってあらかじめ考えられ、作られた製品でしかない。いわば、究極の「想定内」の世界である。
その「想定内」の無機的な世界の中でのみ巡らされる詳細な思考。それに自閉して、複雑怪奇で有機的な現実の人間関係におのずと背を向ける人々。
歌舞伎の若い観客たちにも、そうした人々が増えているのではあるまいか。
そうした人たちからすれば、海老藏こそ共感できる同時代の旗手、となるのだろうか。
私が海老藏の富樫に抱く気味の悪さは、こうした点にある。

具体的に言えば、セリフの抑揚が自己流で、言葉が言葉として意味をなしていない。
たとえば、「~にて候」という言い回しは、「~です」という意味をもって観客の耳に響かねば意味がない。海老藏にはそうした自覚がなく、ただ勝手に音を上下しているように聴こえる。
ひょっとしたら、録音・録画に残る祖父十一代目あるいは十五代目羽左衛門のセリフ術を参考にしているのかもしれない。が、そうした先人のセリフは先人の身に合った「音遣い」によって成り立ち、何よりも当時の観客を前に成り立っているのであって、性根や意味性を欠いた外面的な音形をただなぞるだけでは、それは声色屋の仕事である。
能のコトバで言えば、ヒラキ(コトバの間と息継ぎ)を考慮し、発語と結語を整えること。これによって、観客にとって意味をなすセリフ術を模索すべきだろう。これは、團十郎の辨慶がこの26年間に辿ってきた藝の道筋にほかならない。
こと、コトバの問題に限らず、海老藏には「観客にどう分かってもらうか」よりも、「観客にどう見られるか」の意識が強いように思われる。

2000年1月新橋演舞場で初役の〈助六〉が、その後の崩れた出来ばえとは違う良いものだったのと、その前年1月浅草公会堂で初役の〈勧進帳〉辨慶が、気一本ではあるがやはり今月の富樫と同じ一人芝居の様相を呈していたことを思い出す。
前者は荒ぶる曾我五郎という孤独な幼な神の役であり、後者は複雑な人間性を特長とする大人(たいじん)の役である。
極度に自閉的、かつ、自ら恃むところ頗る厚いかのように見える海老藏のニンと性情を現時点で最大限に活かす役は、下手をすると、虚空を睨んで空中に浮遊し、客席から賽銭を投げられるだけに終わる〈鳴神不動北山櫻〉の不動明王、ということになりはすまいか。

大佛次郎の〈楊貴妃〉は、現状を見る限り既に賞味期限を過ぎた演目、と言う以外にない。
徹底した脚本改訂、何よりも悪趣味なセリフに香気を施す修辞改訂が必須である。

福助の楊貴妃は、こうした書き物をさせた時の弊害で、限りなく役が浅い。
一幕目・道観の場での女道士・楊玉環には、たとえ結婚に一度失敗しているとはいえ、まだ純粋な美質が残っているはずだ。
長姉のちの韓国夫人の笑三郎、次姉のちの虢国夫人の春猿、三姉のちの秦国夫人の芝のぶ、三人そろって「かしまし娘」を思わせる漫才風なので、福助の滑稽さも際立つ仕儀となる。こうした脇役を演じてハメを外しすぎる女形が、さいきん多くなってきた。
初めに牡丹枝を持って愛嬌たっぷりに現われる歌江の女道士は、裏で妙な商売をしているのでないかと勘ぐらせるものの、やはりむかしの女形だ。
二幕目・宮中牡丹園の場の福助は、衣裳だけでなく内面までもが変わった、凛然たる気品がほしい。高力士に肉慾をもって迫る演技はこうした気品あってのことで、本質的に情痴を感じさせる福助の楊貴妃は醜く、宇野信夫〈柳影澤螢火〉の桂昌院を思わせる。したがって、終幕・馬嵬驛での最期にも哀れがない。

私が思うに、福助は本質的に、新作の似合う役者だと思う。ただ、役柄や脚本を読み込む知性が足りない。
もっとも、現在は一種の読み換えばやりだから、正攻法の「読み」を避けて斜(はす)から迫る新作ばかりである。大佛作品に限らず新作歌舞伎の王道を占めてきた文藝物は、文学としての真面目な対峙と知的読解力が不可欠で、少なくとも本読みの作業に役者自身荷が勝つ場合、どういうブレーンを得るか、によって舞台の成果までもが違ってくるに相違ない。やはり意欲的な新作役者だった中年期の歌右衞門は、そうしたブレーンを見つける名人でもあったのだ。

高力士の海老藏は、表現の方向も定まらず、役の把握もできていない。
富樫がそうだったように、「見られること」を意識し過ぎている点でも、セリフの息が浅く猫撫声に終始する点でも、感情や表現の自閉に終始する。
この戯曲の淵源である『楊太眞外傳』(『長恨歌』ではない)を繙くまでもなく、高力士とは、宦官とは、こうしたものではない。猿翁はともあれ、なにしろ瀧澤修や森雅之の演じた役である。
現在の歌舞伎界には、こうした複雑無比なハラのある、根源的なところで観客の共感を拒む冷智の役を、したたかに勤めおおせる力量を具えた役者は思い当たらない。

ちなみに、史書もそう伝え、原脚本のト書きにも「頸にからみ付いた布に、おのずと扼(しめ)られて苦しむ楊貴妃。高力士は、半殺しの鼠を弄ぶ猫のように悦び狂いながら気を失った躰を固く抱いて、廟内に入る。......すでに、貴妃のもがく力は弱まり、されるどおりに成っている」とあるように、当時の貴人の習いとして、舞台上の楊貴妃も絞殺されるべきである。今回は髪飾りで刺殺したが、テーブルナイフでスカルピアを刺し殺してしまうトスカ以上に、いくらなんでもこれは無理。血で汚すのは賜死の法にも反する。

梅玉の玄宗が良い。
ちょっと若い作りだが、身に着いた、そのぶん変に自覚せずにいられる自然な位取りがある。馬嵬驛で、楊貴妃への愛着断ちがたいと同時に、高力士と陳元禮(市川猿彌)の説得にわれ知らずその命運を任せる優柔不断が、いかにもこの場の玄宗その人らしい。これまでに梅玉の演じた役の中でも、巧まずして最も複雑な部類に属する人物を描き得ている。

少ししか出番がないだけに、権十郎の楊國忠には性格に厚みが欲しい。一幕目のみならず、宰相となった二幕目も三下奴の格。若者言葉で言うところの「パシリ」にしか見えない。 

二幕目だけに出る東藏の李白は、自然で飾らぬ、酒の上ではちょっと軽薄そうに見える人柄が、いかにもその人らしい。半面、不羈奔放の酒徒でありながら左拾遺翰林學士に召されたほどの一代の詩宗たる高風や、詩心によって人の心の底を見抜く透徹した感覚もほしい。この役の軽重や生き死にによって、この幕の意味も異なってくるだろう。

最後に付言するに、この牡丹園の場では、李白に対する海老蔵の高力士の演技が単なる慇懃無礼にとどまり、その性格まことに浅い。
当時、人をして己が履を脱せしむるとは甚だしい侮辱。高力士が酔余の李白から至尊の前でその辱を受けた逸話は『新唐書』以来だが、この場の高力士の李白に対する、幾重にも底知れないハラの中の不気味な冷たさは、本当ならば海老藏が是非とも発見し、表現すべき役の性根だった。
福助のみならず、むしろ海老藏にはなおさら、役の読解に関わるブレーンというものは必要と思われる。

所用にて、猿之助劇団の役者たちによる昼の部はじめの〈鳥居前〉は不見。

2011年7月24日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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