批評

2011/3/14 新橋演舞場 3月大歌舞伎 昼の部

1・菊池寛原作〈恩讐の彼方に〉 ★★☆☆☆
2・六世中村歌右衞門十年祭追善狂言〈伽羅先代萩〉御殿・床下 ★★☆☆☆
3・〈曾我綉侠御所染〉 ★★☆☆☆

本来ならば興行そのものが追善として打たれるべき、大成駒の十年祭。故人が身に替え思い深かった歌舞伎座は改築閉場中とて、昼夜各一本の追善狂言に絞り、控櫓で遺業を偲ぶ趣向。基本的に旧吉右衞門劇団系の座組である。

子供の頃、はじめて記憶に残るテレビで見た歌右衞門は、緋無垢の政岡だった。

マリア・カラスで〈椿姫〉を見た人が、爾後、他のどんなヴィオレッタにも飽き足らなくなったのと同じで、遠慮会釈なく言う。
私は、歌右衞門以外、誰の政岡にも満足したことがない。

ただ、そうした私的愛着の念は措く。
冷静に考えて、歌右衞門の政岡は一体どこがどう優れていたのか。
簡単に言えば、演技様式と心情表現の完璧な一致。
それがこの役の、この芝居の、抜き差しならぬ一点に触れ、ドラマの正鵠を得ていたことに尽きる。
歌右衞門の政岡は、義太夫狂言の演技とはどうあるべきかを考えさせる規範であると同時に、それまでの〈先代萩〉に対して歌右衞門が身をもって示した新しい見解(けんげ)であり、一種のアンチテーゼですらあった、と思う。

今回は飯炊にわずかな省略があったものの、むろん歌右衞門型である。これは五代目の遺した「歌舞伎型付」たる『歌舞伎の型』に詳記された型を、六世が仔細に踏襲した手順に基づく。
五代目歌右衞門の政岡は1928年10月が最後。無理な演出を加え、不自由な身体を押してまで大役を勤めたのは、この興行が翌11月の昭和天皇即位礼を前にした祝賀公演だったためだ。
これに比べればまだ足腰の立った大正末期、五代目が政岡を重演した際に六世は子役に出て、よくこれを憶えている。『歌舞伎の型』は六世の襲名を前に刊行されたものだから、熟読もしていよう。「まったく父どおりでございます」とは、六世の口癖でもあった。

だが、五代目から六世へ、その演技の内実まで「まったく父どおり」だったかどうか。
私にはちょっと、そうは思われない。
それというのも、五代目の演ずる政岡の抜粋がSPレコードに残されているからである。

竹本巖太夫の語り口が、雛太夫の没後、六世歌右衞門を担当した文春太夫に少しばかり似ている。子役の大谷廣太郎=現雀右衞門は1928年歌舞伎座上演時と同じ。祝賀公演の記念盤の性格を帯びたこのレコードは、五代目歌右衞門の政岡の最終到達型の記録と考えて良いだろう。

初めてこれを聴いた時、驚いた。セリフの運びは同一でも、六世とは別物のように表情の色付けが違う。
むろん、SP盤に特有の1枚当たりの収録時間の制約、さらに実演の感興を伴わない録音という事情を考慮に入れなくてはならない。だが、それらを割り引くとしても、五代目の政岡は良く言えば鷹揚、悪く言えば間延びしているのである。
これに比べて六世の政岡、特にクドキは、1988年12月国立劇場での最終上演に至るまで一貫してノリが良いだけでなく、竹本を叱咤するが如き息の詰んだ間で激しく畳み掛けた。

試みに何ヶ所かを例に挙げ両者を比較、仔細に聴いてみよう。

①床にメリヤスを弾かせ、鶴千代に言い聞かせる件。「もし毒(薬の巧みもと)」と言いさし、ハッとなり、演技としては袖を口に当ててキマル。
◆ここで六世は、トントンと言い立ててゆき、「モシど」と勢い込んで口に出し掛けるや否や、息を強くグッと詰め絃にノッてオコツき、キマリ、そのまま息を保ってあたりを窺い、改めて声の下からひそやかに「毒薬(「ど」は呑んで発音)の巧みもと」言い直す。
五代目はそんなに勢い込まない。セリフをちょっと切り、言い直す程度で、態度にはなはだ余裕がある。
②飯炊で子役を相手に雀の歌の件。「鈍な子では、あるわいのう」と千松を叱る。
◆六世は「鈍な子ではァ」とうんと張って、強い苛立ちを示す。五代目は激さず言いなす。
まさに、「たしなめる」五代目に対し、「キレる」六世、という感じ。
③クドキ「手詰めになった毒害を、よう試みて死んでたもった。でかしゃった!」。
◆六世の表情は細かい。「でかしゃッた!」と一度言って、息を詰め、静止。千松の顔を見込み、「でかしゃッた、でかしゃッた、でかしゃッた、でかしゃッた、デデェ、で・か・しゃ・ッ・たよなァ!!!」と小波から大波に盛り上げてゆく緩急は比類がない。
五代目はそんなことはない。クドキの初めから同じように淡々と反復する。

上記のように、五代目は大まかで、六世は細かい。「悪く言えば間延びしている」と書いた五代目の政岡は、それでは退屈なものだろうか?
それは違う。朗々として気張らぬ美声で細部に拘泥せず全体を圧し行くグランドマナーは、制約の多い録音からでもよく窺える。

そう。同時代に君臨した名人・大万三郎の謡とまったく同じ印象である。

五代目歌右衞門の録音は1931年収録〈糒庫〉が名高く、聴いたことのある向きも多かろう。役どころは違っても、「歌舞伎ベル・カント」を劇に活かすアプローチは変わらない。
悪声微音の六世は、この点で先代とは比較にならない。
1990年5月歌舞伎座、六代目尾上松助襲名披露で、グズグズに着付の崩れたぎこちない政岡を見せた七代目梅幸と比べても、玲瓏たる美声の強みだけは、六世歌右衞門は梅幸にとうてい及ぶところではなかった。
が、五代目歌右衞門はただの美声家ではない。七代目梅幸の平坦さとは違う、腹の深い、威あって華のある、卑俗さすら包み込む壮大な世界観を有する点で、まさに19世紀のパリを席捲したグランド・オペラである。
これに対し六世は、徹底してリアリズムを追求するヴェリズモ・オペラの名手であり、厳しく理智的な新古典主義者である。
冒頭、カラスの〈椿姫〉を引き合いに出したことに意図がないわけではない。ヴェルディの諸作品中、〈椿姫〉は主題的に後のヴェリズモ・オペラの嚆矢であり、美声ではなかったカラスのヴィオレッタは、微細に亙りコトバと仕草を活かす点で、リアリスティックな歌唱技巧の粋を極めている。
実に、六世歌右衞門の政岡と似ているのだ。

話を元に戻す。
五代目の政岡と同じことが、同時期に録音された六代目梅幸の政岡でも言える。こちらのクドキはもっと世話でありノリも悪いが、細部に拘らない、詰んだ息ばかりで芝居を進めるのではない鷹揚さという点で、やはり五代目歌右衞門と同じ部類に属する政岡である。

明治後期から昭和初年までの約30年間は、「大正のグランド歌舞伎」の盛時である。私は現在の歌舞伎演技は、根源的にこの時代以前に遡っては考えられないと思っている。
五代目歌右衞門と、六代目梅幸。「大正のグランド歌舞伎」を代表する、二名優の政岡。
六世歌右衞門が政岡で模索し、獲得した藝のありようは、これら戦前の規範とはかなり異なる様相を呈していたはずである。
六世の精神的近代性は夙に云々されるが、それだけではない。六世歌右衞門は、自らの身体条件を考慮、「鷹揚な」演技に憧れながらもあえてこれを追わず、美声で歌い上げた先代の「間延び」を切り詰め、代わりに緩急に富んだ演技を張り巡らせて、先代以来の政岡を換骨奪胎したのだろう。
竹本のノリを最大限に活かす音楽性を基盤として、厳しく息の詰まった義太夫狂言の演技様式を新規に開拓してきた六世歌右衞門は、古典歌舞伎の頂点に位置する丸本歌舞伎の演技においても、単なる保守主義者ではない、「様式の創造者」だったのだ。

このことは、五代目歌右衞門が初演し、五代目福助も演じた(「これは兄の役」と六世も推奨)八ツ橋の演技を考えても分かる。
六世歌右衞門のこの役は、父や兄の型を墨守するものではない。初代吉右衞門の指導に始まるとはいえ、細部を積み上げた全体は完全に六世の創作である。役を掘り下げるだけ掘り下げ、一挙手一投足に至るまで心情に裏打ちされた彫心鏤骨の型が新たに作りなされていることは、衿を正して歌右衞門の〈籠釣瓶〉に相対した者ならば理解できるはずだ。
丸本歌舞伎と純世話狂言の違いこそあれ、微細な手順の重層が全体を支え、厳しい息に支えられた型と内面心理とが不即不離の関係にある点では、歌右衞門の政岡と八ツ橋はきわめて近いところにある。

これを最大の当たり役とした六世歌右衞門の政岡に学び、これに伍し、さらには超えようと志す者は、まず、彼人が創造した政岡のありように正しく向き合い、その型と息の厳しさに身を挺することから始めなければならないだろう。

以上のような意味で考えると、魁春の政岡は落第である。

型のゆるさと粗雑さ。
場当たり的とも見える演技の推移。
父から直接教わっていないだけに、不器用な魁春は六世のかたちを写しきれていない。
飯炊では台子点前の手順も怪しく、緊張著しかった初日には、釜口に柄杓を俯けて置いたほどだ(斯道において考えられない間違いである)。
時間の関係か、米洗いは一杯で済ませたが、飯炊を省かないのは歌右衞門追善としては当然とはいえ(六世は初役以来一度だって飯炊を抜いたことはない)、「広大な奥殿のただ中に、子供2人だけ伴って、泣きながら飯を炊く女の孤独と飢餓地獄」を惻々と感じさせた歌右衞門の政岡の真実味は、薬にしたくもない。

これは、先述したような型扱いの厳格さと詰んだ息に支えられる、緩急に富んで隙のない演技が、魁春の中に組み上がっていないためである。
六世は飯炊のカカリで、チャチャーン・チャンと、竹本の絃に合わせて米袋の長緒を引き、キッパリとキマって見せたが、魁春は気が急くためか、それを待たず仕事を進めてしまい、結句、竹本を活かせない。榮御前の入りが知らされ裲襠を着る前、六世は黒棚の懐剣を取り直し厳しい表情で揚幕を見込む刹那、カラ二で繋いでいた床に一撥強く弾かせ、思い入れを見せた。魁春はそれもしない(この2ヶ所、歌右衞門直伝の菊五郎は踏襲し、玉三郎の指南を受けた菊之助は踏襲しない。)
何も魁春に、こうした細部の表層だけを真似ろというのではない。これら随所に置かれた演技上の勘所が流れてしまうことによって全体にメリハリがなくなるだけでなく、後から後からただ型に追われ最後まで突っ走った様相を呈し、役に同化する以前、素の部分ですら余裕がないと見られる点に問題があるのだ。

もっともこれは、歌右衞門流の演技の行き着くところとして、ある意味、必然だったのではないか、とも思う。
六世と似ても似つかぬ魁春の政岡は、案外、六世歌右衞門の思いに寄り添うものだったのかもしれない。

六世歌右衞門は心の芝居を重んずる役者だった。自身が型の人、手順の人だったにも関わらず、その点では九代目團十郎直伝たる五代目歌右衞門の後継者だった。

複数の役者たちの直話に、大成駒の舞台で腰元や仲居に出ていても、それぞれがそれぞれの心に合わせて細かなコナシをすることについてはそれぞれの自由で、一切ダメが出なかった、という。人によっては、周囲のすることすべてに注文を付ける役者もある。その点、歌右衞門は、「本人がその役になりきること」を至上の価値としていた。
役になりきっていたかどうかは別として、魁春の政岡には確かに、嫌味なところ、見せよう、見てもらおう、とするところは皆無だった。むしろ、そこまでの精神的余裕がなかった、と言うべきだろう。
贔屓目に見れば、その懸命さが、政岡という役のひたむきさという点で、偶然にもせよ一致していた、という見方もできるかもしれない。「六世歌右衞門の思いに寄り添うものだったのかもしれない」というのは、そうした意味である。

ただし、これは危険だ。
なぜならば、この「良さ」は、素人能の「良さ」によく似ているからである。

長年、謡や仕舞を習っていても、ついに技術的には上達しない人は数多い。そうした人はただ謡が好き、能が好きの一念で稽古を続けているわけだが、半年や一年、ひとつの曲だけを習い澄まし、舞台に出すと、技術的には欠陥が多くとも、玄人には出せない雰囲気と風格を示すことがある。
これは、究極のところで声そのもの、身体そのもの、イヤな言葉でいえば「存在感」がモノを言う能の世界では当然あり得ることである。それだからこそ、印象評だけで能を語るのが不毛であり、無意味なのである。

魁春の政岡を素人能と評しては些か穏当さを欠くのを承知で、仮にこう見なした時、極度に人為的な演技の中に、極度に非人為的な境地を模索した六世歌右衞門の演技術の振幅の大きさが、自ずと明らかになるだろう。
魁春の政岡ほどこのことを照らし出した政岡は、これまで存在しなかった。
その意味ではまさに、「偉大な父の追善狂言の政岡」であると思う。

梅玉の八汐は芝居気が薄いが、当代では最も真っ直ぐな、挟雜物のない八汐ではある。
悪達者に活躍する〈竹の間〉がないだけに、福助の沖の井は神妙。一家一門の配役の中では、東藏の松島はちょっと老け過ぎ。松江の澄の江は調子と動きが些か外れている。
子役2人の内、千松の玉太郎はどこか暢気に過ぎる。むしろ、鶴千代を勤めた吉太朗が鷹揚で嫌みなく、セリフも確か。幼なけれども美事な太守の風格である。

老衰著しい芝翫の榮御前は虚しい。一ヶ月休まず勤めたものの舞台には坐せず、セリフは聞こえず、何より不健全。出入りで花道を通る時、葬列のように暗い。
この暗鬱は、芝翫が背負う「あるもの」かもしれない。

〈床下〉の男之助は歌昇。元気さを買うが無理な役だろう。本来ならば岡本町に大恩を受けた吉右衞門が買って出るべきところだが、後の幕で白く塗るのに間に合わないのだろう。
幸四郎の仁木を、初めて良いと思った。老いて重くなったのと、吉右衞門や團十郎にない、ある種の「おつり」、藝味の余白がある。
とはいえ、〈床下〉だけの仁木は、名人の勤める役だと改めて思う。

〈恩讐の彼方に〉には、徹底したリアルさを求めたい。

序幕、菊之助のお弓と間男をして、主人・中川三郎兵衛(出て3分ほどで斬られてしまう團藏お気の毒)を殺し、逐電する松緑の中間・市九郎が、奥で泣く赤子の声を聞き「坊ちゃま!」と叫ぶ。
だが、人に隠れて女連れで逃げる男が、周囲も憚らず絶叫するだろうか?
ここは、自らの内に向けて絞り出すように、声なき声を漏らすところだろう。

ことほどさように、演技が単純なのだ。
これは松緑だけではない。父を殺されて市九郎のちの了海を仇と狙う中川実之助の染五郎。往来の旅人を殺して金品を奪うことに何ら罪悪感を抱かない菊之助、峠に逼塞する「わけあり」の夫婦にタカる馬士権作の龜三郎、程度こそあれ、みな単純である。一般劇団の役者ならば、それぞれの身に合った抜き差しならない真実を、もっとそれぞれが発見するだろう。
梨園の外の芝居の現場を良く知る染五郎が中ではまだマシとはいえ、みな、歌舞伎の文法に頼り過ぎているのである。

〈御所五郎藏〉は菊五郎の五郎藏。吉右衞門の星影。福助の皐月。菊之助の逢州。留女・甲屋女房お京は芝雀。

菊五郎も吉右衞門も還暦を超え重々しくなった。その割に、藝に老功さが加わったとは思われない。
五郎藏は、不器量悪声ながら技藝卓抜だった四代目小團次の創出である。ルサンチマンをバネに不撓不屈の藝魂を持っていたこうした役者こそ、私は最も見てみたい。
残念ながら、現在の歌舞伎界には一人も思い当たらないが。

2011年8月 2日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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