批評

2011/3/7 新橋演舞場 3月大歌舞伎 夜の部

1・北條秀司作〈浮舟〉 ★☆☆☆☆
  第一幕:二条院の庭苑/第二幕:宇治の山荘/第三幕・二条院の庭苑/
  第四幕:宇治の山荘・浮舟の寝所/第五幕:宇治の山荘・宇治川のほとり
2・〈水天宮利生深川〉 ★★☆☆☆
3・六世中村歌右衞門十年祭追善狂言〈吉原雀〉 ★★★☆☆

1953年、当時の吉右衞門劇壇の委嘱によって書き下ろされた〈浮舟〉は、タイトルロールが歌右衞門とて、十年祭の故人にゆかりがある。が、歌右衞門の浮舟や、薫を演じた白鸚の幸四郎は適役だったにせよ、戯曲そのものは先代勘三郎の匂宮で持っていたものと思う。
今回、匂宮を演じた吉右衞門が、それをどれだけ受け継いだか。
残念ながら、ほとんど無意味だったのではなかろうか。

このドラマを動かす原動力は、匂宮の特異な性格にある。
無類の好色家というだけではない。彼は自らの情慾を抑えきれない無慙放埓の輩であると同時に、その魂に一点、誰をも寄せ付けぬ純粋さを保つ不思議な男である。
彼の中には、自己克己の高邁な精神など毫末も見られない。それでいながら、自他ともに認める「天下の許され」。
文字どおりの、「人たらし」なのだ。

舞台の進行に従い、この不思議な男によって周囲が攪乱され、人々がある意味で滑稽な悲劇に巻き込まれてゆく中、ひとり匂宮自身は変質もせず、改心もしない。

こうした男は、離れて見ている限りにおいては実に魅力的である。
ただし、決して関わりは持ちたくない。
この種の男はにこやかに笑みをこぼしつつ、確実に自身は得をし、他人を不幸にするよう出来ているからである。

つまり、先代勘三郎なくしてはあり得なかった役柄だ。
明暗。聖俗。善悪。
こうした両極端な心性を示すに、先代勘三郎ほどの役者はいなかった。
新三を演ずれば、人を逸らさぬ愛嬌を示しながら、お熊を見送る目は色慾に満たされる。
泥に塗れて虫けらのように斃れるに義平次の汚濁と、編笠を取ったとたん歌舞伎座の幕見席まで白光が射しわたる伊左衛門の清朗と、一人の役者が完璧に体現して見せた。

第四幕「浮舟の寝所」での匂宮は強姦魔である。また、それに徹しなければならない。
吉右衞門のどこに、そうしたリビドーがあっただろうか?

いったい、この芝居は性慾がテーマである。
開幕早々、浮舟の母・中将は、若い貴族と二条院の庭の植え込みから出てくる。逢引の後と言えば聞こえは良いが、要はスラングに言う「アオカン」だ。
この淫蕩な母の血は、娘・浮舟の身体の奥処に封じ込められている。
浮舟は故地・東国での乗馬を懐かしむ少女だった。当時、馬に乗る女などいない。つまり、浮舟は、「女」ではなかった。
それが匂宮によって、無理矢理に身体を開かれてしまう。その結果、潜在的にはなりたくもなかった「女」になってしまう。思念を裏切るように、肉体的に「女」になってしまったのだ。
当初、性的なものを感ずることなく浮舟が親近感を持っていた薫が、自らの「女」を自覚してしまった時から飽き足らなくなるのは、浮舟の心が感じた不満ではなく、肉体が反応した真実だろう。
そうした女の肉体の真実に思い及ばぬ薫は、結句、女という他者を知らない男に過ぎない(なにせ薫は、亡き恋人・大君の人形を作って故人を偲ぼうとした男である)。
かといって、女の肉体ばかりを知る匂宮が、女という生きもののすべてを知っていたかというと、それは違う。
つまり、望まずして「女」になってしまった浮舟は、誰からも理解されず、うつほ舟になって水に浮き漂い流れ去る以外、ない。

幕切、蹌踉として舞台奥に去る浮舟は、女の悲劇というよりも、「女になった時点で自らが分裂してしまった人間の悲劇」を思わせる。
私の眼には、この終幕は、性同一障害者の悲劇のように思われた。

浮舟をここに追いやったのは、匂宮である。
だが、彼自身、「罪」を自覚する場面もないこの劇に、単純な意味での結末は訪れない。
人間の性の宿業の虚無。それがこの戯曲の意義である。

北條秀司は、戦後最大の歌舞伎劇作家だろう。
生前の宿敵・宇野信夫は、作品数からも作風の幅からも、北條の敵ではない。
だが、この戯曲のように適材適所に「はめ書き」した作品が後世に残るかどうか。
それには、あとから演ずる役者自身がその役を発見できるか否か、に掛かっている。

吉右衞門には、先述したように、男の性慾の噴出がない。これは致命的欠陥である。
加えて、最近の吉右衞門の宿痾たるセリフ憶えの悪さが、演技の随所に空隙をもたらす。
この役こそ、現在の歌舞伎界で最も男性のセックスを感じさせる海老藏の役だろう。他者との相互関係を発見した暁に、彼こそ持ち役にすべきものだ。
ただし、精神的に社会との繋がりを断って自閉する現在の海老藏だと、単なる異常性慾者の犯罪劇に見えるはずだ。

菊之助の浮舟。
少年性すら漂わせる第一幕の浮舟は適役。それだけに、第四幕の寝所から第五幕にかけては、突如として女になった者の驕慢と業(ゴウ)の表出が不足、というより皆無である。
この天分豊かな女形が大成するには、色気が欠けているとはよく指摘されるところ。
色気とは、あからさまに言えばセックスの生々しさであって、この芝居は実に、それを主題にしているのである。
劇中でかたちばかり披露する箏の腕前が拙い。普段からもっと稽古を積みたい。

時方の菊五郎はご馳走。当たり役〈十二夜〉の捨助を、ちょっと分別臭くしたようなものだ。
中将の魁春に、この人が新作に出た時にいつも感ずる、奇妙な親和性がある。新作役者なのだろう。ただし、身も蓋もない淫奔女としてのニンではない。
ほか、あらぬ詮索をしたくなるような不要の複雑さを漂わせる萬次郎の右近。 〈井伊大老〉昌子の方のような芝雀の中の君。
弁の尼の東藏はようやく枯れてきたが、まだ色比丘尼に見える瞬間がある。これは良い役で、〈井伊大老〉で言えば仙英禅師の格である。人生のすべてを見通す老女。本当ならば、脇役腹のある芝翫や田之助が枯れた腕前を示すべきだろうが、現状では望みがたい。

染五郎の薫大将は適役だと思うが、これは、海老藏や龜治郎のような同年輩の匂宮から出し抜かれてこそ、「男になれなかった男」の滑稽な悲哀が身に沁みるのだ。セリフ憶えのたどたどしい枯れた叔父さん相手では、年齢相応の染五郎は恋敵に見えず、したがって彼のニンも演技も対象化され、観客は白けてしまう。
この芝居は個々の役者のニンと配合が大切。腕や技巧で見せる芝居ではない。

ちなみに、この作品で『源氏物語』の考証は無茶苦茶である。そもそも、原典の忠実な戯曲化ではないから、その点は「北條源氏」の枠内で考えれば良い。作者が原典を咀嚼し別物に仕立てた、『源氏物語』に題材を取った新作戯曲、なのだ。
原作の中将(中将の君)はアオカンを愉しむ淫乱女ではないし、浮舟は田舎育ちだが馬には乗らない。
当時、貴族の女性が男と連れ立って庭を歩くなど考えられず、切袴は雜仕の穿くもので、身分ある女は必ず長袴である。

幸四郎の〈筆幸〉は先代勘三郎以降の適役とは思うが、現代、なぜこの演目が生き残っているのか、その意義がわからない。
「船幽霊だ!」でそぞろ恐ろしくなるほど目の据わった先代勘三郎の狂乱藝の美事さ、故志壽太夫の芝居気満点の浄瑠璃、この二つあってこその出し物である。現代のわれわれは、幸四郎の小器用な演技を至藝と讃える訳ではなく、延壽太夫の咽喉に酔うこともなく、ただ出された定食を黙々と口にするような感じで、この演目が幕になるのを待っている。

簡単に言えば、「貧乏の実感」がないのだ。
実生活、即、演技だとは言わないが、現代の歌舞伎役者はあまりにスターに、人によってはセレブになり過ぎた。
まだしも、幸四郎には先代勘三郎にあった「貧乏の実感」の幾分かは残っている。
が、その後の世代となると、絶望的だろう。

梅丸のお雪、吉太朗のお霜の姉妹が上出来。
梅丸は少々達者すぎるほどで、今後注意して導かないと大成が危ぶまれるほど。
吉太朗は昼の部の〈先代萩〉鶴千代と並んで、覚えも覚え、習いも習ったもの。邪気のない素直な性質が何とも素敵。
萩原妻おむらの魁春、車夫三五郎の松緑、代言人茂栗安蔵の権十郎、巡査民尾保守の友右衛門、金貸因業金兵衛の彦三郎らが脇を固める。
先代勘三郎最後の〈筆幸〉の時は故人梅幸が付き合ったおむら。魁春は昼の部の政岡より本役のように見えた。よくよく反省する必要があろう。

歌右衞門十年祭追善狂言と銘打った〈吉原雀〉は見つけもの。これがこの月、最も歌舞伎らしかった。
梅玉も福助も、取り立てて踊りが巧みな役者ではないけれども、役者らしい性根がある。ことに冒頭、放生会由緒の件の格調が高い。
そのあと砕けても、また、打ち出し演目だからといってぞんざいではなく、いかにも大成駒を偲びつつという感じで丁寧に、硬いほどキチンと踊っているのがかえって心地よい。
こうしたところは、舞踊家には決して出せない役者の踊りの強みである。

2011年8月 3日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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