批評

2011/9/2 大阪新歌舞伎座 9月大歌舞伎 夜の部

1・玩辞楼十二曲の内〈雙蝶々曲輪日記~引窓〉 ★★☆☆☆
2・〈申酉〉 ★★☆☆☆
3・〈一本刀土俵入〉 ★★★☆☆

一ヶ月公演としては昨年11月以来、待望の勘三郎初日である。

大病克服の先代以来、舞台復帰の佳例を踏んだ〈申酉〉(古来こうれっきとした通称があるのに、〈お祭り〉とはどうにも趣味を欠いた呼び名ではないか)。感無量の面持ちの橋之助扮する若い者を制するかたちでセリ上がった鳶頭姿の中村屋。

第一印象は、「ああ、これはまだ、本当ではないな」、だった。

復帰の初日とて、当人の緊張の度合いは察するに余りある。
贔屓連中総出総応援の客席を前に、落涙寸前の勘三郎の心中は容易に思い描ける。
この人の双肩にこそ、「これからの歌舞伎」のほとんど大半が担われているのだ。
私は改めて、これまで9ヶ月に亙る勘三郎の不在の意味の重さを考えざるを得なかった。

とはいえ、身体に元どおりの切レはまだ戻っていない。
身内から湧き出る「踊りの感覚」も正直、鈍磨している。
とりわけ難しい振りもなく、立方の内面の張りひとつで成り立つ〈申酉〉の出来ばえとしては、まったく「精彩がない」と称せざるを得ない。

だからこそ今は、本当の意味で、心身ともに勘三郎の今後の加餐を祈るばかりである。
贔屓の引き倒しめく御祝儀相場は、当代一の「踊りの感覚」の持ち主に対して、むしろ非礼であろう。
文字どおり、薄氷を履むが如き初日の舞台だった。

次に出演が予定される11月浅草中村座では満を持する「返り初日」を期待したいものの、正直なところ、本格的な復帰は決して急いで貰いたくない。
勘三郎は、歌舞伎界にとって最も大切な役者に相違ないからだ。

初めの〈引窓〉は鴈治郎型である。

扇雀の十次兵衛には、他の誰とも違う態の個性がある。、前月の〈東雲烏戀真似琴〉関口多膳と同じく、既視感のあるステロタイプではない。
私はそこに、扇雀の知性と、演技者としての天分を感ずる。
同時に、扇雀という役者は、常にステロタイプを守りそこに回帰する性質の強い女形より、自らの「男性性」に拠って立てる立役のほうに適性があるように思う。

ただそうなると、十次兵衛もそうなのだが、この人特有の、熱演の中に必ず見て取れる冷静さ、表出される感情の幅の狭さが気になる。

はしゃぎ倒して演技沢山だったという曾祖父・初代鴈治郎の十次兵衛は語り草だが、吉右衛門系統にもその陽性の感覚は濃厚である。当代播磨屋が花道から出て「ただいま立ち帰った」あたりの飛び立つような心躍りは、この役の大切な部分だろう。
こうした微笑ましい人間味を水面下に湛えつつ、人相書を買い取る件では、複雑な陰翳を加えて精神的に成長した十次兵衛(個人名「與兵衛」から家の名「十次兵衛」への公許改名はそうした内面の変化を伴う)は、既に大きな感情で継母を包み込むだけの余裕を具えている。
〈引窓〉前半は自由人・南與兵衛から郷代官・南方十次兵衛へ、一人の男の成長のドラマなのだ。

花道を出た扇雀の十次兵衛は、既に小官僚の顔をしている。国立大学を出、公務員試験を受け、順当に採用されたような感覚だ。過去を脱し、再生した十次兵衛に、そうした側面心理はあるだろう。これはひとつの解釈の可能性である。
ただし当時の常識として、郷代官就任=家職再興は、疑うところもない慶事である。これを「体制側の人間への転向」として対象化し皮肉に解することは、左翼演劇論全盛の敗戦後の一時期は知らず、やはり正しくない。
扇雀の十次兵衛には、その「体制側の人間への転向」の影がチラつく。これは、無闇矢鱈なうれしさの表現、および継母と妻を包み込む大きな心の表現が、ともに充分でないためだろう。

たとえば、人相書を売って母から受け取った金を、吉右衛門はお早にそっと渡し、「あとでよろしく頼む」という思い入れを見せる。必須の演技とは思わないが、確かにこれによって十次兵衛の立場は母の立場を包み込んでいるように見える。
扇雀は受け取った金を袂に入れたまま何もしない、。公文書である人相書を恣意で売った代価なのだから、密々に処理するこちらのほうがむしろ正しい。
だが、それだけに、よほど腹の深いところを示しておかないと、これがいかにも官僚的酷薄として印象されがちな危険がある。
扇雀はその危険を乗り越えられていない、ということだ。

もっとも、扇雀の十次兵衛も、濡髪に対する男同士の親愛という点では、それほど冷たくは見えなかった。扇雀にとっての課題は、演技によって喚起される役柄の心情について、もっと多くの抽斗を持つことだろう。
これはひとつの逆説だが、個性や自我を抑え、「ステロタイプを守りそこに回帰する性質の強い女形」に改めてアプローチを試みることが扇雀の益になるのではなかろうか。
自己の内部から漁り出せる感情の雛型の種類は、案外多くないものだ。ステロタイプからこそ学び得る感情の多彩さ、というものがあるに違いない。

鴈治郎型に限らず、この役には竹本に就いてキマル型が随所にあるが、扇雀にはその点ほとんど身体的魅力ない。「型に嵌まる」ことの巧い父・藤十郎から、この点まだ学ぶことは多いだろう。

女房お早は七之助。
私が女形としての七之助を買うのは、「ステロタイプを守りそこに回帰する性質の強い女形」としてのありようをある程度、体現しているからである。
お早は良い役だが、遊女としての前半生を終えた女、いわば「後シテ」である。私は易々と演じて見せた宗十郎のお早を懐かしく思い出す。これからの女形に、これはちょっと難しかろう。

月待ちの支度さえ間違えるこの女には、廓の出ということもあって、どこか生活の知恵というものが欠けている。そんな女が、義理と恩愛のバランスを精一杯慮り、夫と義母との間で心すこやかに立ち廻ろうとする。
そうした「浅いながらも精一杯の思考」を象徴するのが、お早が扱う引窓である。浅知恵に生きようとする女の健気さを演ずるには、自分を愚かの地平まで下ろさねばならない。
宗十郎のお早が良かったのは、まさにこの点だった。
遊女としてのニンがあるだけに、演技は浅くとも「それらしく」見える一得が七之助のお早にはある。これを更に進め、宗十郎が巧まずして身に持っていた「むかしの女の愚かの徳」を、七之助は一心に引き受けて立つことはできないだろうか。

橋之助の濡髪は既に手に入った役である。古風な顔つきもこの役に合っている。
ただ、前髪を剃られているあたりの腹の深さ、しゃべるよりも黙っていることで示す存在感が欲しい。関取という役柄には、一種の妖気が必要だ。
その点橋之助は、濡髪よりもまだ放駒の役者である。 

母お幸は主役である。老母が不出来だと〈六段目〉やこの芝居は成り立たない。
今回は歌女之丞を抜擢した。

確かにまだ、この役としては中途半端に若い。
とはいえ歌女之丞、初日からセリフも演技もすっかり身に入って、少しも気が抜けていない。一時ノドの調子を壊していたが、この人の特長である明快で味のある口跡も元に戻り、これが芝居全体を分かりやすくするのに力を貸した。並み居る役者の中で歌女之丞が中心に見える瞬間が幾度もあったのは、その身の入れ方が本物だったためだ。
さすがに先代上村吉彌が見せたほどの陰翳と藝品はないけれども、それは今後の課題として、今月の掘り出し物である。

田之助や吉之丞にもはや多くは望めない今、歌女之丞や芝喜松、さらには京藏などに、腕と真実味で勝負する老母役のかたちをそれぞれ作り上げる場が与えられれば、10年後の歌舞伎も相応に層の厚いものになるはずだ。

先代勘三郎と歌右衛門が共演した〈一本刀土俵入〉を見た者は、六代目菊五郎と六代目梅幸あるいは五代目福助が共演したそれを見ていなくても、恐らく不満には思わなかっただろう。
さらに時移り、駒形茂兵衛は先代勘三郎から勘太郎へ。
お蔦は歌右衛門から七之助へ。
その創り出す劇のありようは、祖父世代と孫世代という以上に、あまりにも大きく異なる。

だが、我孫子屋の場で七之助が小伝法に小原節を口ずさむ刹那、私は思わず落涙した。
歌右衛門のお蔦の持っていた最も大切な「あるもの」が、ごく一部でこそあれ、七之助のお蔦にも確かに脈々と流れている。
それは、世代を超えてこの芝居の持つ普遍的人間性の発露でもある。
こうしたことを考えさせるのが、〈一本刀土俵入〉が名作と呼ばれる所以であろう。
大切な「あるもの」を役者に感得させるだけの力がこの作品に潜んでいるということが、現在どれほど重い意味を持つだろうか。

白首の達磨女や、食うや食わずで放り出される取的などという人種は、もはや存在しない。素人がやくざ者を蛇蝎の如く嫌いながら、両者が巧く馴れ合って治まる閉鎖的な地方社会も、やはり現代の空想だろう。
〈一本刀土俵入〉は、現代のユートピアドラマである。
その中で、切実な実感をもってこの芝居を演ずることの難しさは想像を絶する。
しかし、この作品の内在する戯曲としての力が、単なる風俗描写や実感主義ではない、演劇の根源に潜む「あるもの」に役者と観客をおのずから導く。
〈一本刀土俵入〉の生命力は、そこに根ざすのではあるまいか。

七之助のお早で感じた不満は、お蔦ではさほどではなかった。それは七之助がこの役に、ある種の自己の真実を発見できたためだろう。
後半、母になっての母性愛の表現も中々のものである。
父の茂兵衛を精一杯写している勘太郎ともども、あとは人間としての成熟を俟つ以外ない。2人ながら青くとも、気持ちの良い出来ばえだ。

ただし、先代勘三郎や歌右衛門が濃厚に持っていた、陰翳というよりもっと直截な「暗さ」を、彼らが発見し、自覚し、意識的に身につけることはできるだろうか。
先代勘三郎や歌右衛門が抱き続けた「業(ゴウ)」の深さを、勘太郎や七之助が身をもって悟り知る日が来るだろうか。
それは、名作〈一本刀土俵入〉が宿命として背負っているはずの闇でもあるのだ。

波一里儀十を演じた龜藏は顔付きが立派になった。
辰三郎の松也は今月ちょっと不遇だが、女形を勤める人だけあって、この役らしい拗ねた感じが出ている。

大抜擢は橘太郎。〈引窓〉でも三原伝造で出て、すっかり時代でキチンと整った気持ち良い勤めっぷりに感心したが、ここでは掘下根吉。これは先代勘三郎晩年の茂兵衛に当代が相手をさせられた良い役である。
おめず臆せず演じて見せ、いかにも過去のありそうな腹と陰翳もある。
ことに大詰第二場。
お蔦の家に皆で押し入ったあと、辰三郎の罪科を明かした果てに「イカサマ師だ!」と言いざま、木戸をたて切って踵を返す演技のイキの良いことといったらない。
もっとも、こうしたところがダメで根吉を勤める資格はないのだけれども、橘太郎は初役と思われないほど万事小取り回しが利き、その役になっている。
こうしたものに出会えるからこそ、芝居を見るのは止められない。

2011年9月 6日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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