批評

2012/1/2 新橋演舞場初春大歌舞伎昼の部

1・〈相生獅子〉 ★☆☆☆☆
2・〈祇園祭礼信仰記〉金閣寺 ★★★☆☆
3・〈盲長屋梅加賀鳶〉加賀鳶~本郷木戸前勢揃いより赤門捕物まで ★★☆☆☆

「お寒い」初芝居。

各幕の幕開き前に、客席が水を打ったようにシンとしているのはどうしたことか。
開幕すぐを「塵鎮め」と言うが、客席の塵はとうに鎮まっている。
とはいえ、心地よい期待の緊張を孕んだ静寂では決してない。
歌舞伎芝居に慣れない観客が、みな揃って周囲を窺い、息を潜め身構えているような感じである。


魁春と芝雀が姫のナリで踊る〈相生獅子〉には、藝味が感じられない。

二枚扇の手獅子に引かれて花道を引っ込むのも思えば面妖な展開だが(こんな手獅子に精霊など宿らない)、白頭(魁春)と赤頭(芝雀)を頂き、振袖の肌脱ぎからブッ返る後シテは、傾城ならばまだしものこと、いやしくも「姫」のナリである。振袖を身に纏った女形が、両足を外股に踏ん張って頭を振るなど、決してあってはなるまい。
百歩譲り「既成事実」としてこれに目をつぶっても、魁春も芝雀も首を振ってキマル動きの拙い人だから、ただ顔面を左右に揺すり犬が水滴を払うような仕草になるのが見苦しい。
それでも、後シテに替わって出てくる花道に、若手にない「一種の風格」はある。★はそれに対する花向け。

ニンにない三津五郎の大膳に、取り立てて期待もなく幕の開いた〈金閣寺〉。
豈はからんや、この三津五郎が大出来で、昼の部第一等の成績。
これだから、芝居を見るのは止められない。

確かに、團十郎に比べて風采は劣り、吉右衛門にくらべて口跡は劣る。だが、その仕事、特にセリフ回しの確かなこと。
竹本の節尻までもキッチリ活かし、どこを取っても絃の間を正しく測って、これぞ時代物のセリフのお手本である。良く研究した跡が自然と熟して役の腹となり、初日と思われぬほど手に入って安定感が比類ない。

例えば、碁立ての件。
「早い出世のヤッコラサ」を、大抵の大膳は前からの続きコトバとして何気なく言い捨てる。それだと、自分の打ち進める碁の勝負の行方に気付かず、鬼藤太の言葉で初めて負けに気付くことなるから、私は大膳が愚者に見えて仕方がなかった。

本日の三津五郎は、そうではない。
「早い出世の」と言いつつ盤面をシカと見込み、劣勢を悟って早くも顔色が変わる態で怒気を潜めて「ヤッコラサ」と続ける。鬼藤太が「南無三、兄貴が負けた」と言う時、既に大膳は己が負けを知っていて、すかさず碁盤を引っくり返す。
これだと、弟に黒白を数えられなくても自ら勝敗は悟った演技になるから、大膳は短気ではあっても馬鹿者には決して見えない。
私はこうしたところに、三津五郎の研究の正しさを思う。

身のこなしも、小躯ながら思い切って動くので、大きさはないが、せせこましい感もない。
ともかく「藝味」の感ぜられる大膳。
もう一度見たいな、と思わせられる出来ばえである。

菊之助の雪姫。
この役に肝腎の色気を欠くため、三姫の中で現在の菊之助には最も不向きである(花道の引っ込みで、鞘走った刀身に顔を映す型もしなかった)。
ただ、よく勉強している。
瀧龍の件は身体を一杯に使い美事。直信との応対は何もないところで気が抜けず、爪先鼠は気組みが確かである。

一面、初め上手屋台の件で、柱に背を任せ、一度外し、またキマルこなしは地味で、意図的に絃にノルのを避けたとも見えたが、こうしたところは内輪に取ってもシッカリ竹本(特に三味線)を活かさないと、義太夫狂言らしい演技のコクがなくなる。
今回は玉三郎の指導らしい。雪姫は玉三郎の姫役の中で最もニンに合って成功したものだから良いとは思うが、三津五郎がその骨法を学んだように、これから菊之助にはやはり「義太夫狂言らしさ」を大切にしてほしい。

なお、菊之助は初めのうち口跡がささくれて辛そうだった。
菊之助の最大の魅力は、適度な陰翳を含んで凛とした口跡の良さなのだ。
先月の平成中村座で、〈寺子屋〉の源蔵や〈松浦の太鼓〉の大高源吾を演じて、些か声を損じたのではないか。
源蔵など、出から暫くは相当な低音を使わなければ芝居にならない。菊之助にそれは無理というものだった。
「兼ねる役者」などと、無意味なことを考える必要はない。
立役はせいぜい辯天小僧か勘平どまりにして、2月名古屋で予定の直侍など終わり初物に留め、今後は絶滅危惧種となること必定の真女形に徹して欲しいと、私は切に思う。

ちなみに、竹本「悔やみの涙はらはらはら。玉散る露の如くなり」のあと、雪姫のセリフ「自らが祖父雪舟さま云々」の前に、丸本どおりの「三井寺の頼豪法師一念の鼠となり云々」を言うが、浄瑠璃と違い、役者のセリフとしては、「三井寺云々」と「自らが祖父云々」と、同じノリのタテコトバが重なる。そうなると、「三井寺云々」で劇進行が停滞するようで損。
ここは「三井寺の頼豪法師」以下は省き、「玉散る露の如くなり」から爪先鼠の奇蹟に直結させたほうが、舞台の緊迫感は増すはず。

梅玉の東吉は襲名以来の手慣れた役。
碁立てのあとの引っ込みで楼上にシカと心を留めているのが良いが、その前に軍平と楼上に心付け、気味合いになって、ハッと気を替え碁盤側面を碁石で打って誤魔化す得な型では、浮き立ってこないのが損。ほか、もっとお芝居お芝居させたほうが引き立つと思われる部分が散見されたが、総体に、いつもより気を引き立てメリハリの効いた出来ではある。

錦之助の軍平は、縁先に片膝掛けて碁立を見込む形に勢いが欲しい。総体に強さと突っ込みが不足。黒の露芝の着付で出た白塗りの歌六の直信と、役者の軽重は逆になっても、役を取り替えたほうがよくはなかったか。

慶壽院は東藏。
彼がこの役をやると、NHKの大河ドラマ〈八代将軍吉宗〉で藤間紫が演じた桂昌院を思い出したものだが(楼上の緞帳が下りるたび大野治長に対する淀の方をも連想した)、東藏も多少は年を取ってすがれ、亡姉のような過剰な妖艶さを感じさせなくなったのはよかった。

松江の鬼藤太。
記号のように、ただ張り切って、型キッカリと元気にやりさえすれば良い役だが、所どころ自信のなさそうな地が、まだ見える。 

碁立から爪先鼠までを通して、葵太夫が語る。
本日は声の調子も良く、特に冒頭の件は音遣い巧みに、北山殿の絶景を中々良く語り出していた。

〈加賀鳶〉は、菊五郎の道玄が、化粧のせいか、まるで昔のデン助のようだ。
彼の芝居の常として、人生の暗部や負の面に関する掘り下げが足りない。
この役、本来もっと悪の効いた、凄みのある役だろう。それあっての愛嬌のはずだ。

時藏のお兼も持ち役になったが、これとて色気がなく堅い人ゆえ、「おさすり」という嫌らしい役の持つべき陰翳と濁りがない。

われわれは、この演目の寿命というものをそろそろ考えたほうが良いのではないか、とさえ思わされた。

義太夫狂言よりも世話物のほうが、役者にとって研究や勉強が難しい。
世話物は、生活に密着した分、役者自身がやりつけるとあたかも自分の役になったような気になりやすく、役柄や芝居を客観化できにくくなるからである。
義太夫狂言の場合、本貫としての義太夫があるだけに、ただ伝承に拠るだけでなく、自らのしつけていることを客観的に反省し易い、ということもあるだろう。

梅枝のお朝は寂しげなところが嵌まり役。この手の役は、年齢的にできる間がごく短い。
東藏のおせつはふくよかで色艶があるだけに、ソゲたこの役には似合わない。  

吉右衛門の松藏。
前月の国立劇場ほどハラハラさせられることはなかったにせよ、それでもやはりセリフが所々停滞する。
昨年特に顕著だった播磨屋の早老ぶりを、私は心底心配する。

勢揃いで菊五郎の梅吉を迎えるに、春木町巳之助の三津五郎、昼ッ子尾之吉の菊之助、魁勇次の又五郎、虎屋竹五郎の錦之助から御神輿弥太郎の團蔵、雷五郎次の左團次に、松蔵の吉右衛門が殿に就いて、当代それなりの景気付けである。

2012年1月 2日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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