批評

2012/1/6 平成中村座 壽初春大歌舞伎昼の部

2・新古演劇十種の内〈身替座禅〉 ★★★★☆
3・〈雪暮夜入谷畦道〉 ★★☆☆☆

序幕、獅童の忠信、梅枝の静による〈鳥居前〉は所用で不見。
残りの2本、こうした小屋で見るには恰好の出し物で、ことに勘三郎に見どころがある。

〈身替座禅〉は狂言〈花子〉の翻案、と言われるが、それは一面では不充分。

大藏流・和泉流で現行の〈花子〉は初演時(1910年・市村座)には相当の稀曲であり鑑賞の機会は限定され、その台本は秘書であって伝授を受けた者以外に他見を許さなかった。
実用・準実用台本の公開は『狂言集成(』和泉流三宅派・1931年)、岩波文庫『能狂言(大蔵虎寛本・1944年)』、岩波大系『狂言集』(大蔵流山本家・1961年)等の発刊を見る昭和以降のことである。
従って、作者・岡村柿紅は正統の狂言〈花子〉の概略は写せても、細部までを承知して翻案できたかどうか、それは怪しい。

たとえば、ちょっとした語尾は、家元が絶え当時すでに絶滅に瀕していた鷺流狂言(梨園の好事家に素人稽古としてある程度流布)の言い回しに倣ったところがあり、太郎冠者に「紅梅」なる馴染女があるというのは江戸時代の雑書というべき鑑賞用台本『狂言記』独自の設定を採ったものである。
いわば、正伝・訛伝とりまぜて狂言〈花子〉をめぐる種々雑多な「伝承」を参考に作り上げた鵺的舞踊劇がこの〈身替座禅〉だ、とも言えるかもしれない。

勘三郎の山蔭右京は、ことに前段、安易に客席に目をやらず、ほとんど謹直に勤め通す。
その規格の正しさ、行儀の良さ。
近年ここまでキチンと整った右京は見たことがない。
花道の入りで愛嬌がこぼれるのは役者サーヴィスの範囲。
この前シテ、舞踊技術として困難な点は皆無だから、ただ役になっていさえすればよい。
それだけに、余計な媚を売りやすく、天地会のような崩れた舞台になりがちである。

勘三郎、欲を言えば、もっとキッとしたところが出ないだろうか。
たとえば、太郎冠者を手討にしようと、凄むところ。
狂言だと重習物の格式で本息の敵討のようになってやり過ぎるのだが、歌舞伎では逆にやらな過ぎる。
総体、これは台本の書きぶりが甘いせいもあり、〈身替座禅〉は「山蔭右京なる男のドラマ」というよりも、「山蔭右京なる男のドラマを真似て見せる隠し藝」のようになりがちである。
この、役と役者との隔絶感は、松羽目物に対する歌舞伎役者の距離感でもあるが、そこに役者の「地」なり「素」が露呈し、客席と馴れ合う結果に繋がるのだろう。
難易度の低い舞踊だからこそ、役者自身が台本の虚構の中で身を慎み、カッキリ真面目にしこなしてみせる必要がある。
それでこそ松羽目物舞踊〈身替座禅〉であり、そこに(目的でなく)結果としてほのぼのと匂い立つユーモアこそこの作品の真の味わいであろう。
勘三郎は今も今後も、それを期待させる。

後シテもその感じは持続。
後半になると少し踊りらしくなるので所作の面白みに傾く傾向はあるものの、晩年の先代のともすると崩れきったしだらのなさはなく、当代勘三郎は真面目に整然と運ぶ。

それにしても〈身替座禅〉は振りの魅力に富んだ作品ではなく、ちょっとした所作やこなしの味わいに役らしさを見るものだから、役者の藝が熟していないと正直、持たない。
勘三郎のアプローチは正しいのだが、経験不足と体調の問題と、その両方が原因となって、勘三郎の身体の周囲にまだまだ隙間があるように見えた。

これは今後の月日を待つ以外ない。

とはいえ、整然として適度の愛嬌があり、平易な舞踊にも関わらず芯からの正しい技術に支えられた、客席と馴れ合わず一線を画し続けた正しい舞台、という意味で、私は今回の勘三郎の〈身替座禅〉は(未完成ながら)当代を代表する〈身替座禅〉であると考えている。

彌十郎の奥方玉の井は勘違いのない素直な「悪妻」ぶりではあるが、それ以上のものではない。 
狂言〈花子〉に比べて〈身替座禅〉台本の書き込みは悲しいほど弱いものの、この奥方を笑い者でなく、同情を呼ぶ役に見せられたら本物である。

獅童の太郎冠者はセリフの末端で観客に笑ってもらおう=理解してもらおう、としている。
これは要らぬことである。

〈入谷〉は土地柄、また寒い時期とてぴったりの演目。
帰りに並木の藪に立ち寄った人も多かろう。

橋之助の直侍はニンは格好だが、こうした役をさせると温かな家庭臭が透けて見える。
ということは、見た目とは別に、実態としてのニンがないのだろう。蕎麦屋外での丑松(澤村國矢)とのやり取りが堅気のように暢気に見える。
手負いの獣のように削げた、甘美な中に殺伐たる悲哀がなくてはこの役ではあるまい。
大口の寮での芝居は、身体に踊りがある人だから七之助を相手にコナシにそれなりの味があるのは年功。ただ、こうした点で評価すべき役ではなかろう。
見た目充分、ニン不十分、仕事はその中途、という直侍である。

七之助初役の三千歳は初役と思われぬ落ち着きがある。
それだけに、どこか抜け目のなさが見えて、ただぼんじゃりとした三千歳というよりも、裏の顔のある辯天お照のように見えた。
それと、寂しく蔭があると同時にどこか男々した大胆な性質が七之助のニンなので、三千歳という役が必要以上に(体形ではなく内実が)痩せて見えた。
今後はフックラとした時代物の役を重ねて、ニンと手腕に膨らみを持たせないと、早く老け過ぎるような危険を感ずる。

亀藏の丈賀は裏のない善人。
このごろ田之助が演じもするが、私にとっての丈賀はずいぶん前に死んだ子團次である。
人の言うことをヘェヘェと聴いていながら、どこかすっかりとは気の許せない皮肉味があり、いかにもその人らしかった。
根っから善人の盲人按摩というものは考えられない。
確かに愛嬌を売る商売ではあるが、味より盛りを採ってこの蕎麦屋に通い、さまざまな人の内情に通じ、傍らではひょっとして金貸しでもしていようもの、というような世故に長けた愛嬌がこの役の味だろう。

何によらず、現代の歌舞伎には不必要に「善い人」ばかりが出ている気がする。

2012年1月26日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.