批評

2012/1/8 平成中村座 壽初春大歌舞伎夜の部

1・〈壽曾我對面〉 ★★★☆☆
2・〈於染久松色讀販〉 ★★★★☆
  序幕:柳島妙見の場・橋本座敷の場・小梅莨屋の場/二幕目:瓦町油屋の場・同座敷の場・裏手土蔵
  の場/大詰:向島道行の場

どちらも中々の見応え。
未見の方は足を運んで決して損はない、オススメである。

〈對面〉の十郎、勘三郎は初役だが、どうしてどうして、まことに安定した出来ばえ。
六代目菊五郎の藝談『藝』を熟読し、今回に臨んだ由。

最初に花道に出た姿の、内から光るような美しさが無類。

先代は、たとえば、〈廓文章〉の伊左衛門で編笠を取った瞬間、〈五段目〉の勘平で花道を駆け出た瞬間、そうした時に決まって、「パッ」と光る印象を観客に与えた。
当代は少し小型なれど、やはり先代と同じ資質が、こうしたところに発露している。
私が当代勘三郎に、将来大成する「本物の藝」を期待するのが、こうした瞬間である。

舞台での居ずまいも実に正しく、所作に和らぎと張りがあって、どこを取っても」「お手本」であり、文句が付けどころがない。
あとは、心身ともに復調し、年功を積んで、藝が肥えるのを待つばかり、というところ。

橋之助の五郎はすっかり手に入った役。
口跡が詰まり気味なのは如何ともし難いが、見伊達の立派さ、気組みの潔さで、同世代の五郎の中では突出している。

この2人に比べて、周囲の配役は些か寂しい。

彌十郎の工藤は大柄な体格の割に役者としての貫目がほとんどないので、本息の五郎・十郎の前ではお人好しに見える。
七之助の虎は美しいが薄倖感が濃厚で、こうした役に必要な、おっとりとした華やぎに不足している。新悟の少将は未だ勉強芝居。
獅童の朝比奈は無用の滑稽味をセリフにまぶしているのが良くない。こうした役は飽くまで様式に則り、役者の個性を消して掛からねばならない。
萬太郎の近江に、澤村國也が抜擢で八幡を勤めている。
最後に出る亀藏の鬼王は、謹んで勤める容貌が古風で立派。

先々代仁左衛門の工藤は洵に立派だったが、「思ひ出だせば、オォそれよ」で二重の襖を開かせて富士を見せ、いかにも胸が晴れるようで良かった。誰も受け継がないが、停滞しやすいこの芝居の気が変わる、良い型だと思う。

〈於染の七役〉は七之助の快挙。昨年正月・浅草公会堂の龜治郎より本役である。
今回は玉三郎の指導だが、彼の役の中でも屈指の財産を、七之助もよく写している。
※龜治郎の所演は「2011年2月・ルテアトル銀座」の誤りでした(2012年1月17日追記)

七役どれも取りこぼしはない。

難しい奥女中竹川も相応の格調があり、尾上のできる女形であることを証明。
芸者小糸はちょっと荒っぽく、今後の注意が必要だが、若いながらも錆の効いてリンとした口跡が小気味良い。
今の齢では無理に納める以外ない後家貞昌も中々立派な若後家に見え、将来〈野崎村〉お常を付き合っても似合うだろうと予期させる。
油屋娘お染や許嫁お光は本役、丁稚久松もしかり。

肝腎の土手のお六はどうかと思われたが、これがまた、思い切った演技で見せる。
お嬢吉三のできる人で、女形の裏に「男」が見える性質だから(これは一長一短)、こうした悪婆をやっても若いに似合わぬ胆力が具わっている。

私は、悪婆は痩せ形で声の良い女形でなければいけないと思っている。その意味で、亡き宗十郎が色々と見せてくれたそれらは、身体の肉付きの良さという点で本当ではないなと感じさせたし、歌右衛門の(櫻姫はともあれ)風鈴お姫だって役違いだっただろう。
やはりその意味で、痩せて口跡の良かった先代國太郎から玉三郎の線で「再発見」された役柄が悪婆だったと思う。

先述の思い切りの良さが七之助の身上で、油屋の強請でも憚ることなく芝居をしているが、それが堂に入り過ぎて(かつ「男」が露呈して)、観客の反感を誘わないよう注意したい。
女形としての屈折感が漂う玉三郎に、そうした危惧はほとんどなかった(もっとも、いま演じたら、今月のお三輪同様ちょっと乱雑に傾くかもしれない)。

序幕の三場面に、腰元お勝として、今年92歳の小山三が元気に出ている。
口跡も徹って美事なものだが、小梅莨店の場で上手の縁先に腰掛けて、謹んだ武家言葉でお六と話している光景は、これぞ南北と言うベき味わい。
七之助には、この印象をよくよく心に留め、今後の藝に役立ててもらいたい。
ともすると「男」に傾く癖を矯正し、女形に徹することとはいかなることか、よく研究することである。

橋之助の鬼門の喜兵衛は危惧されたマイホーム臭もさほど漂わず、年下の七之助に胸を貸すかたちで伸び伸びと演じている。得体の知れぬ怪しさでは團十郎には及ばないものの、少なくとも仁左衛門よりは本役である。
油屋の強請では、ともするとお六のほうが女性上位に見えがちなところ、今月の橋之助にその気づかいはない。七之助がこの芝居を出すには、海老藏に良き変化が生じない限り、今後も唯一格好の相手役だろう。
ほか、庵崎久作に龜藏、山家屋清左衛門に彌十郎。

無人の一座とて、ほかには若手を嵌めている。
大詰の道行で、梅枝の女猿廻お作はまだしも、萬太郎の船頭長吉は遠見の敦盛のようでまだまだ無理。
その他、番頭善六に中村橋吾、丁稚久太に中村いてうなど、門弟連を起用。それら多くは現時点では間尺に合わないものの、現在すでに払底のこうした脇役、こうした場で経験と勉強を積んでもらうには、まことに良いきっかけである。
小山三しかり、こうした周囲が調わないと、この種の芝居は存在意義を失うものである。

2012年1月17日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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