批評

平成23年の能・狂言(1)

平成23年に接した能・狂言の舞台の内、特に優れた舞台を上演月日順に選んでみた。

1) 片山幽雪〈高野物狂〉 4月6日・国立能楽堂定例公演 
2) 關根祥六〈隅田川〉 8月5日・国立能楽堂定例公演 
3) 鹽津哲生〈野宮〉 8月21日・横浜能楽堂特別公演 
4) 近藤乾之助〈高野物狂〉 10月9日・宝生会月並能
5) 山本順之〈姨捨〉 10月22日・山本順之の会特別公演
番外) 観世清和〈關寺小町〉 7月1日・古稀記念龜井忠雄の会

他に、梅若玄祥〈江口〉(2月12日・横浜能楽堂企画公演)、大槻文藏〈定家〉(3月5日・東京清韻会別会)、、梅若万三郎〈夕顔 山之端之出・法味之傳〉(12月11日・梅若研能会)など幾つもが思い浮かぶ中の厳選である。

この中で、あえて1位を付けるとすれば、山本順之の〈姨捨〉である。

優れた力量を持つ特定の演者の能に接し続けていると、一定の高水準ではありながら、「ガラスの天井」とでも言うべき、目に見えない枠からどうしても抜け出せないでいるように見えることがある。それが、何かの拍子にストンと脱却し、それまでと全く異なる境涯を示すことがあって、そうなれば能役者として恐いものはない。
ただし、一度脱却しその後も自在な舞台が続く人もあり、一度だけで終わってしまってまたもとの閉ざされた能に戻ってしまう人もあり、終生そのどちらかを繰り返す人もあり、役者はなかなか一つには語れない。

私にとっては、近藤乾之助の〈誓願寺〉(平成16年)、片山幽雪の〈關寺小町〉(平成17年)、關根祥六の〈檜垣〉(平成19年)が、そうした別境涯に脱却した、記念すべき舞台。
今回の〈姨捨〉は山本順之にとっての「抜け出せた」成果。細評は別項をご覧頂きたい。

余談ながら、注意しておきたいことは、われわれの中にともすれば「老女物らしさ」を画一的・教条的に考えがちな傾向がある、ということだ。
山本順之の〈姨捨〉は、老いた女の具体的描写ではない。
「似せぬ位」の老女である。

「似せぬ位」という語を玩味することは、能における「表現」とは何かを考えることに等しい。
少々難しく言えば、山本順之の〈姨捨〉において「老女」という存在は目前の実在ではない、もっと確固たる抽象概念だった。それだけに、われわれ一人ひとりの心に寄り添う「老女」たり得た。
型を演ずること、謡を謡うこと、面・装束を身に着けること、すべて、能役者自身の肉体の抽象化の作業である。
その抽象化の過程は、徹頭徹尾「技(わざ)」の修錬に依る以外、ない。
その意味において、山本順之の〈姨捨〉を見届けることは、「能役者が能を演ずる技巧」の根源を見据えることにほかならなかった。
「おそらく、観世壽夫が七十歳を超える長寿を保ち得たならば、このような〈姨捨〉を舞うに相違ない」と、私は、山本順之の〈姨捨〉を見ながら考え続けていた。

そう。
この日の、三役と地謡と、すべてシテの意を体したかのような一体感・共闘感。
あたかも、遙か観世壽夫の魂に捧げたかのような〈姨捨〉だと、私には思われた。

2012年1月 1日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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