批評

2012/4/11 MEDEA〈王女メディア〉

2012年4月11日(水)午後7時 世田谷パブリックシアター 幹の会+リリック プロデュース公演
妻:平幹二朗/夫:城全能成/乳母・土地の女:石橋正次/守役・土地の女:有馬眞胤/領主・土地の女:三浦浩一/隣国の大守・土地の女:廣田高志/夫の家来・土地の女:斉藤祐一/夫の家来・土地の女:南拓哉/女たちの頭:若松武史
原作:エウリーピデース/修辞:高橋睦郎/演出:髙瀬久男/音楽:金子飛鳥/美術:伊藤雅子/照明:勝柴次朗/音響:高橋巖/衣裳:太田雅公/ヘア・メイク:Eita/振付:田井中智子/演出助手:渡邉さつき/舞台監督:井川学

「平幹のメディア」と言えば、昭和後期にずいぶん売り込みもし、世上にも知られたもので、活力のあり余っていた蜷川幸雄の真骨頂たる過剰かつ壮大な演出は、繰り返された野外上演の舞台面と一体となって、今も多くの人たちに強烈に記憶されていよう。
平がこの役を演じなくなって、既に13年も経っていたのだ。

蜷川演出のメディアは、増上寺大殿や花園神社拝殿の存在感に負けまいとするかのような変幻魁偉の女怪でもあって、濃粧に埋もれた顔の表情は内心を巧みに映し出す一種の仮面であり、母性を象徴するはずの両の乳房はあたかも禍々しい腫物のようだった。
演出が異なる今回、平が演じたメディアは、それとはまったく違う。
念入りに脂粉を凝らした容貌は華々しく、Eitaが手掛けた髪は艶やかに波打って丈をなし、美女と呼ぶに何のためらいもない。

蜷川版のメディアに親しんだ人にとって、あるいはインパクトに欠けるかもしれない。
だが、これは平の老いや退行の所産でないことは、発声・滑舌・抑揚もちろん記憶もすべて完璧なセリフ、所作の活力と溜めた力の充実、これらに接すればすぐに諒解される。

つまり、今回の平は、「等身大のをんな」を演ずることを、あえて選び取ったのだ。

だが、平ほど恵まれた身体を持つ名優の「等身大」となればこれはもう、マリア・カラスの、中村歌右衛門のそれと相等しいだろう。

例えば、毒薬を仕組んだ贈物に斃れた「領主」(コリントス王クレオン)とその娘(グラウケ)の惨死の様態(これをメディアに告げ知らせる若手俳優2人のセリフに力がない)を聴く、薄笑いを泛べたままじっと動かないメディアの表情は恐ろしいほど平穏。これは昨年の〈サド侯爵夫人〉第3幕で、すべてに興味と活力を失ったモントルイユ夫人が、折々口をすぼめて酒盃を舐めながら問わず語りをする表情とまったく同じである。ギラギラと黒光りする復讐歓喜の表情ではない。慌ただしい朝の仕事の手順をキチンと終えてホッとひと息、満足げな主婦の表情、と言うべきか。

そう。この役のように激越なテンションを保ち続け、執拗かつ周到な企みを巡らした結果、まったく思い通りにすべてが運んで、今や万事収まった結果が既によく分かっている女とは、むしろこのように満ち足りた平穏な顔をしているものではないだろうか?
少なくとも、この時ほほえむ平の明鏡止水の表情は、りきみ返って白眼を剥き続ける白石加代子のモントルイユのような作りものの表情ではない。

自然体という意味であれば、平の演技にはほとんど作意がない。

セリフの調子こそ少し高く細めではあれ、特にシナを作りもしないし、女らしい描写に凝りもしない。明確無比な口跡(私は彼が発するセリフを耳で聴くだけで、つまり台本を確かめず、隅から隅まで100%間違いなく筆記できる自信がある)と声のちからは、戯曲そのものに観客を引きつけ、平の演ずる役の論理に同化させて放さない。
その、匠気のない、持ち合わせた声と身体の力量を嫌味なく用いて、平は確実にひとりの「をんな」になって見せる。

例えば、この作品の難しいところは、ともするとメディアのほうが独善的に見え、むしろ「夫」(イアーソン)に観客の同情が集まりかねない点にある。ミニマムな人間性を超えた凄絶な蜷川版でこうしたことはまず問題とはならなかったが、「等身大」の今回版では確かにここにひとつの危険が生ずる。
今回の平はその危険を逆手に取って、そうした反感すら抱かれもしようことを承知で、考えようによっては身勝手で卑小で愚かでもある「をんな」の生身を露呈させて見せた。
「妻」に加担するか、「夫」に同情するか、その選択は観客の心のままに委ねられたのではなかろうか。

最後、龍車に乗って追跡の手の届かない他国へ遁走したはずのメディアが、再び登場し、荒壁に手を伝いながら舞台下手に蹌踉と歩むところで幕になった。
これは復讐が成就したカタルシスではなく、すべてを失って彷徨する「をんな」の孤心を描きたかったからに相違ない。演出には随所に疑問があったものの、この点に限っては平の役づくりの核心を反映した処理といえるだろう。

昨年の美事なモントルイユは、非力な東山紀之のルネが相手にならず実質の主役だったが、その役柄は社会通念の表象であり、ここまでの「をんな」を演じていたわけではない。
自然や歴史や宗教と互角に亙り合う観念性を鎧う異形の女怪だった蜷川版とは異なる今回のメディアは、恐らく、平がその地藝を活かしてさりげなく、しかし渾身のちからを揮った、真の意味で生涯はじめての「真女形」の所産ではなかったか。

憤怒と歓喜の激情の果て、手に掛けたわが子2人の屍骸を膝に据え、高みから「夫」を見下ろす平の表情は、憎しみではなく深い哀しみの表情に閉ざされている。
古代ギリシャの女怪というよりも、いささか日本人的にウェットな女性像と評する向きもあるかもしれない。
だが、これが今回の平が「をんな」として生きて見せた、無常の世を流離する王女メディアのすがたなのである。

それにしても、一気呵成に1時間50分を見せ、聴かせてしまう平の演技力は、高橋睦郎の名修辞に拠るところが大きい。
この高橋脚色は一般に三島戯曲の類型のように思われているが、それは違う。美辞麗句を多用した三島戯曲とは異なり、高橋の修辞に華麗な用語はほとんど見られない。現代人からは繁文縟礼とも思われる丁寧な言い回しが三島的な印象を呼び覚ますだけである。
プログラムに高橋が書いているとおり、蜷川版で秀抜な乳母役を見せた山谷初男がはじめ抵抗を示し、後日は全面的に認めた如く、実生活の用語とちょっとかけ離れてはいていも、真のセリフ術を具えた役者ならば確実に身体化され、おのずと口をついて出てくる言葉で織りなされている点がこの修辞の特長。文学的格調と実用性を兼ね備えたこうした文章力が発揮できる劇作家・脚色家は、現在ほとんど跡を絶っていよう。

共演者の中では、「夫」を演じた城全能成が強靱明確な口跡、恵まれた肢体と風采を活かした演技の華、平が見出だしただけのことはあり、出色である。
1977年生まれ、文学座の正座員となって8年目とまだキャリアが浅いせいか、滑舌は良いけれどもセリフのハコビがところどころコケ、言っているコトバに実体が伴わない弊はあるものの、今後も大きな作品、大きな舞台を踏み続けることができれば、優れた役者に成長するだろう。

2012年4月12日 | その他批評 | 記事URL

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