批評

2012年9月アーカイブ

2012/9/18 騒音歌舞伎 〈ボクの四谷怪談〉  橋本治×蜷川幸雄 Bunkamuraシアターコクーン 

2012年9月18日(火)午後6時30分  Bunkamura シアターコクーン 騒音歌舞伎〈ボクの四谷怪談〉
◆脚本・作詞:橋本治/演出:蜷川幸雄/音楽:鈴木慶一
◆民谷伊右衛門:佐藤隆太/佐藤与茂七:小出恵介/直助権兵衛:勝地涼/お袖:栗山千明/次郎吉:三浦涼介/お梅:谷村美月/お岩:尾上松也/お熊:麻美れい/伊藤喜兵衛:勝村政信/四谷左門・男B:瑳川哲朗/仏野孫兵衛:青山達三/小仏小兵衛の母:梅沢昌代/老女A:市川夏江/宅悦:大石継太/第二のお岩:明星真由美/お色:峯村リエ/お花:新谷真弓/法乗院の所化:清家栄一/男A:塚本幸男/男C:新川將人/女子大生B:佐藤あい/奥田庄三郎:隼太/藤八:松田慎也/女子大生A:周本絵梨香/工事人夫:内田健司

「お芝居」というものは、プロットがあり、そこに人物相互が入り乱れ、見終わったときにはなにがしかの手応えが「コトバ」として残るものではなかろうか?

「コトバにならない感動的な演劇」と言うけれども、私はそうしたことを信用しない。

だって、演劇とは戯曲の舞台化であり、戯曲とはコトバによって織りなされたものだ。
これを見て取る私たちも、やはりそれぞれがそれぞれのコトバのかたちで「感動」の本質を確認する。
これが「芝居を見る」ということではないのか?
つまり、机上の戯曲であっても、舞台上の演劇作品であっても、読み取り、見取るわれわれは、コトバによって「それがいかなるものか」を確認しないわけにはゆかない。

芝居のテーマ・演劇の主題というものは、作者によって書き現わされるものであると考える人があろう。入試問題に出る「作者の意図を答えよ」というヤツだ。
だが、テーマ・主題というものは、作者や演出家や役者の側にあるものでは、実はない。
読者によって読まれない戯曲、観客によって見られない演劇、そんなもがないのと一緒だ。
したがって、戯曲や舞台(すなわち作者や演出家や役者たち)と格闘した観客によって自らのうちに刻印される抜き差しならないコトバこそ、真の芝居のテーマ・演劇の主題のはずである。
つまり、芝居とは、演劇とは、常に「解読されることを待っているもの」である。
そうした「内なるコトバ」をけざやかに呼び覚ましてくれるものが、私にとって優れた、感動的な演劇作品だ。

この考え、間違っているだろうか?

今さらこんなことを考えてしまったのは、〈ボクの四谷怪談〉という作品には「劇」が不在。「劇的状況」だけがただただ盛り上がって終わっただけだったから。
主題だのテーマだの、そんな観客のコトバを封ずるところから始まり、終わった舞台だ。

ただもう無意味に盛り上がるだけ盛り上がる、その過剰な虚しさが作者と演出家の「意図」だったとすれば、われわれにとって演劇とは、いったい何であるというのだろうか?

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2012年9月18日 | その他批評 | 記事URL

2012年9月の能・狂言

2012年9月14日(金) 午後6時 銕仙会9月定期公演 宝生能楽堂
◆能〈夕顔 山ノ端之出・法味之傳〉
シテ:野村四郎/ワキ:宝生閑/ワキツレ:宝生欣哉・野口琢弘/アイ:石田幸雄/笛:一噌仙幸/小鼓:大倉源次郎/大鼓:亀井忠雄/地頭:観世銕之丞
◆狂言〈重喜〉
シテ(住持):野村萬斎/アド(重喜)野村裕基/地頭:深田博治
◆能〈龍虎〉
シテ(尉・虎):浅見慈一/ツレ(樵・龍):長山桂三/ワキ:御厨誠吾/ワキツレ:大日方寛・野口能弘/アイ:竹山悠樹/笛:槻宅聡/小鼓:鳥山直也/大鼓:佃良勝/太鼓:小寺佐七/地頭:柴田稔

野村四郎の〈夕顔〉が素敵な出来ばえだ。

初めに触れておくと、前場で夕顔の花蔓がひそやかに絡んだ藁屋の作リ物にシテが入って出、「山の端の心もしらで」と囃子ナシに謡い出す「山ノ端之出」と、後場で序ノ舞が抜けて一クサリの習ノ手(〈道成寺〉のシテの出や〈定家〉〈檜垣〉で舞の前に入る手と同じ)の間にワキの合掌を受けてシテも下に居て合掌する「法味之傳」が併演されると、大幅に時間が短縮されるばかりでなくドラマ性が煮詰められ、結果的に〈夕顔〉という能の格調と内容が格段に高く深くなる。
あらゆる小書の中で最も優れた部類に属するものがこの2つである。

それだけに、役者の存在感が突出しなくては演出に打ち勝てないし、さなきだに仕どころの少ないこの能から舞が抜けることによって「表現」はさらに制限されるわけだから、地謡と囃子の責務が増し、シテは「せぬならでは手立てあるまじ」ということになる。

四郎の〈夕顔〉が優れているのは、後場でワキと合掌した豊かさや、キリ「明けわたる横雲の」で左袖を返し正先から脇座に寄った上を見た型の美しさもさることながら、謡い込んで無駄が一切なくなった声の質感、舞台の空気と同化するような自然なたたずまい、そうした根源的なところから発する結果である。
こうした舞台を見ていると、能役者は食器。能作品は料理。逆ではない。
どんな料理を盛り付けてもそれを包み込み、おいしさを十全に際立たせながら料理を追い越すことがないのが理想。優れた食器ならば大抵の料理は受け付ける。また、料理を盛り付けた時のほうが何も載せない時よりも生き生きと映えるものだ。

この譬えで言うならば、四郎の声と身体はアンティークの銀器のようだった。
良く見ると細かな瑕があり、時代相応の使用感が伴う。
が、念を入れて磨き込まれ、それが美観となればあえて黒ずみを残したまま、客前に出される貴重な銀器。
扇を持つ手の震えが目立ち、唐織姿で下居する前場はちょっとつらそうだったが、確かに「瑕」でこそあれ、これらを「欠点」として排除する必要はまったくない。
つまり、「瑕」も含めた総体がアンティークの価値なので、食器の宿命が「鑑賞されるものでなく使われるもの」である以上、時を重ねる中で必然的につく「瑕」は歴史の証拠で価値の一部。瑕のない銀器はあり得ない。
もちろんこれは、「罅の入った骨董品」というのとは全然、別の問題だ。

面は前後とも銕仙会名物、大和の相生増。孫次郎風の、〈夕顔〉には最適の名作。
装束は、前シテが薄朱とクリーム色の段に秋草を織った唐織。後シテが薄い古代紫地に地味な色彩で色々の朝顔と金の撫子を織り出した長絹(露は薄朱)、褪色してほとんど白に近い水浅黄の時代大口。理想的な取り合わせである。

この日の地謡は、先日の銕之丞初演〈姨捨〉(地頭:浅井文義)のように細部に巧み過ぎて根本が脆弱な感が後退し、今後に些か期待できた。地頭の銕之丞は抑えた謡い口で周到に全曲を通し、副地頭の浅井文義と共通の世界観を示すことができたようだ。
もっとも、全体に戦戦兢兢といった感は否めない。こうした能には最高度の地謡が求められる以上、全霊を挙げて謡いながらも乱雑に流れず、引き締め、削ぎ落とす理想の追求を今後も続けてほしい。
囃子はやはり仙幸の笛と亀井の大鼓が聴きものである。ことに亀井忠雄。
余談ながら、病気療養の柿原崇志がことによると年内休養らしい。そうなると、大曲の大鼓の最適手となれば亀井忠雄しかいないわけで、これはちょっと恐ろしいことである。

萬斎親子の出演のためか、この日は完売。地謡までも出る割に他愛はない演目だから、大曲めかさずサッパリと終わり、楽しかった。

祐基は嫌味がなく素直だが、ちょっと暗く、覇気に欠けるようだ。
萬斎が演ずる住持は、本編よりも解説のほうが面白い映画を見せられている気にならない訳でもない。

〈龍虎〉の能を説明する際に、決まり文句のように「唐絵の画題から発想された絵解き」だと言われる。 要するに、「絵を見せるように、いかにもそれらしい唐土の物語と龍虎の闘諍を見せる能」ということだが、これは言い換えれば、表現のための表現、演出のための演出、ということに落ち着いて、そこには本質的な意味でのドラマは存在しない。


たとえば、〈鷺〉や〈猩々〉はただ鳥獣・妖精の物真似を見せる能ではない。そうだと思っている人がいたら、それは能というものをまったく分かっていない人である。
〈石橋〉の獅子だってそうである。
想像上の猛獣の「物真似」をただ技術力をもって演ずるだけでは、〈石橋〉ではない。獅子は文殊菩薩の顕現であり、いわば「仏法そのもの」である。
「獅子」を舞い、囃すことは、完璧な気力と技術力で突き抜けたところにある種の精神性を漲らせることにあるので、それが叶わない能役者の〈石橋〉は本当は落第である。

だが、〈龍虎〉にそんな「内容」はない。

前場はただの中国旅行案内(しかもどことも知れぬ架空の場所)。
後場の虎も龍も、精神や思想の象徴とまで書き込まれている訳ではない。

だから私は、〈龍虎〉を見るたびに、実に虚しい気持ちになる。
善く演じられても、ただそれだけのことである。

ともあれ、そんなことを愚痴にしてもしかたがない。
こうした無内容の虚しい能なればこそ技術的には完全にこなす必要がある、とは、一種の逆説だろう。

慈一は前シテの下居姿が良くなった。地藝が上がった証拠だ。
ただし、桂三ともども後場になると面がゆがんだり(頭や虎戴・龍戴の重さの上にカヅキを被くので大変ではある)、身体の軸がズレることがある。
齢を重ねて瑕が欠点にならなくなった四郎の〈夕顔〉とは違い、後場で激しく動く〈龍虎〉ではちょっとの瑕も目立つのである。

これも譬えで言えば、使用して味の深まる銀器ではなく、〈龍虎〉は床の間に据えたり棚に置いたりして鑑賞する精巧な七宝焼の装飾壺のようなものだ。花も活けず手にも触れず、ただ眺めるだけが目的の美術品。
能とはほんとうは、そんなものではないと思う。
だから私は、〈龍虎〉が好きではない。

もしも、技術力だけでこの能をよく演じ納めるものの、他の何ものも感じさせない能役者がいたとしたら、それはそれで「そんな役者に〈井筒〉や〈砧〉が舞えるのか......?」との疑念を抱くに相違ない。
もっとも、〈龍虎〉を完全に演じきる技術力そのものは、他の能にも応用必須ではあるが。

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2012年9月17日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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