批評

2014/2/4 「柿喰う客」 新作本公演〈世迷言〉

「柿喰う客」 新作本公演〈世迷言〉
作・演出:中屋敷法仁
出演(主なる扮役):七味まゆ味(帝)/玉置玲央(猿使い)/深谷由梨香(帝の妹)/永島敬三(婆)/大村わたる(猿と帝の妹の倅)/葉丸あすか(天)/鉢嶺杏奈(かぐや姫)/橋本淳(猿の皇子)/富岡晃一郎(爺)/篠井英介(かぐや姫の母の鬼)

なかやしき・のりひと。高校演劇の盛んな青森で偉才を顕し、渡辺源四郎商店を主宰する雄渾な劇作家・畑澤聖悟に師事。〈贋作マクベス〉で注目され、上京して平田オリザのいる桜美林大学文学部総合文化学科演劇コースを卒業。2004年に劇団「柿喰う客」を旗揚げし今に到る......とあれば、若手演劇人として望み得る最良の「修養」を経て、実に面白そうな劇作家であり演出家だと思っていた。

私は彼の仕事は今回が初見。
従って、過去の作風や演劇的ポリシーは知らぬまま、簡単な感想を記してみたい。

歌舞伎で言えば「カタリ」に当たる惹句にこう言挙げしている。
なるほど、作品全体のイメージはこれに尽くされているようだ。

末世は近いぞ
女よ踊れ
猿と交わり
鬼を産め
命の獄舎に
繋がれて
月に遠吠え
世迷言
柿喰う客一年半振りの最新作!
当代きっての名怪優10名が挑むのは、
混沌とした現代社会に解き放つ
奇想奇天烈な"御伽草子"!!!

プログラムに中屋敷自身が語るように、この作品には「古典文学」の物語イメージが吹き寄せられている。とは言っても、「奇想奇天烈な"御伽草紙"」と謳うとおり、拠って立つところは寓話に満ちた「おとぎ話」であって、たとえば「かぐや姫」の物語を骨子とはしていても『源氏物語』に先立つ「物語思想」を初めて獲得した『竹取物語』を原拠にはしていない(古典文学としての『竹取』は単なる「おとぎ話」を超えた思想小説である)。その分、人物造形は表象的意味性を湛え、ギリシャ悲劇の人物同様「ある巨大な感情や運命の権化」という体裁を示している。

人間の頂点に立つ「みかど」。猿族を統べる「猿の皇子」。そして「鬼」。
生命の根源であり穢れの最たるものでもある「血」のメタファーのもと、この三者が生命を賭して卍巴となって入り乱れ、憎み合い、愛し合い、つるび合い、殺し合いするさまは1時間半の濃密な劇空間に目を背けるような息苦しさを呼び醒ます。
父を猿に殺された帝は妻に欲したかぐや姫に鬼の首を取ることを求められ、帝は妹を人身御供として猿の皇子に差し出し鬼の首を取ってもらい、帝の妹は猿の子を身ごもり、かぐや姫は実は鬼の子であり、最後に帝はわが子=かぐや姫の生んだ鬼の血を引く息子に消し去られ......と、簡単には書き切れない因果の糸が縦横に張り巡らされた構成は甚だ緊密。劇中、言葉遊びやクスグリの要素もあるが(それを期待する観客も多いようだ)、それらが浮き気味で「客いじり」がさして効かないほど「書き込まれた」脚本であると言える。

問題は、演出のありようと役者の身体様式だろう。
今回は能や歌舞伎に想を得た演技で統一しているようだ。ギリシャ悲劇を引き合いに出すまでもなく、「グロテスクな生命輪廻の相」を描くのに強度に様式的な演出・演技は有効だ。舞台上に高さ1メートルほどの段を巡らせて(「世迷言」の「世」の字を象る由)前舞台を狭く取ったため、これを上がり下がりして激しい動きを事故なく処理するには、盲滅法な所作では危険だから役者の動きを緊密に割り付け、即興的な熱演を封ずる必要すらあったに相違ない。そうした「不自由」を役者に課することによって否が応でも演技の様式性を正すのが中屋敷の今回の意図だったのかもしれない。
ただ、正直な感想を述べるならば、こうした様式性を外枠で強いれば強いるほど、役者個々の身体の脆弱さが印象された感は否めない。これは私がふだん能や狂言、日本舞踊やバレエなど、伝統的な規範に則った堅固な身体表現に馴染んでいるせいでもあろう。プログラムに掲載された能役者・津村禮次郎との対談で能における静止した「型」の強靱さに言及んでいるけれども、古典藝能では、舞台上に立つ、坐る、歩く、それぞれ厳然たる様式とメソッドに支えられての「型」であるから、その内実を踏まえずただ外在的に模倣しても、即、根の生えた「表現」にはならない。

こうした印象は、役者たちの中でただ独り、篠井英介の身体性が卓抜して見えたことから一層強められた。
彼は藤間流勘右衛門派の舞踊家であり、女形としての長い経歴に支えられて和装をいかに身体にそぐわせるか充分の実績がある。今回はことさら女装はせず男姿のままスーツ状の洋服だが、彼が足を軽く開き顎を引き、ただ立っているだけでも、臍下丹田に気脈が集まっているのが明白。篠井が体現している強固な身体様式は、素のままでも「女」の役柄を表現できるレベルのものであり、それは他の役者には見られない身体性なのだ。
セリフの点でも同様。「柿喰う客」には声の大きなの役者が多いといい、実際、深谷由梨香や玉置玲央の「大音声」は相当のシロモノ(これは正直な褒め言葉)であるのだが、発音・発語の様式を体現できていないので、音として大きくてもコトバとして上滑りし、印象に残らない憾みがある。
その点も、やはり優れているのは篠井。他優と違って呟くような静かな声音でもシッカリと音が徹り、コトバの「意味」を噛み締めている。
オペラでも能でも、発声と発語の様式が調っていないところに「表現」は現出しない。単に「声が大きいこと」と「メッセージ性が強いこと」とは別物である。

ただ、これは「柿喰う客」だけの問題ではなかろう。
現代の演劇界で、セリフや所作の様式を確実に獲得している劇団や役者がどれだけあるだろうか。「確かなメソッドを編み出し、そのとおりやれば誰でも相応のレベルに達する」というのは「劇団四季」的な幻想だとは思うが、演じ手にとって出発点であり到達点でもあるのは、「何を表現するか」ではなく「いかに表現するか」ではなかろうか。
古典演劇・古典舞踊のしたたかさはここにあるので、身体様式の追求が表現そのものと幸福な一致を見ているわけである(もっとも、それだけに「様式」を自明なものとして自覚せず惰性でこなすだけの力量の劣った能・狂言役者、歌舞伎役者、舞踊家が数多いことには注意しなくてはならない)

こうした限界を感じたのは、今回の中屋敷の演出が一種の「空間恐怖症」的な塗り込め方を見せていたからでもある。
芝居の最中ほとんど持続して効果音が流れ、前述のように役者の動きはすべて(一種の)様式性を意識して縫い取られていたから、見た目は舞踊劇のようにさえ見えた(「振付:北尾亘」とある)。「舞踊劇」であれば演者の身体のありようそのものに注意がゆくのは自明のことであり、そこに今後の課題もハッキリ見えたと言えないだろうか。

それにしても、かぐや姫の経血のエピソードから始まり、子なきまま老いた婆が「子」を得て味わう「女」の歓喜、牡猿と人間の女との媾合、猿の子を身ごもった女の母性、人の子として娘を手放す鬼の母の鬱情、など、生殖に直結する煩悩にのたうつ「女」ばかりを描いたこの戯曲は、根源的に女性嫌悪、母性嫌悪のドラマである。「世」の字のセットに上り下りする役者たちを「天=神」の視点で見ようにも、実際に舞台に対する限りそうした「離見」の手応えはほとんどなく、観客は血塗られた因果物語に役者もろとも引き摺りこまれる感がある。最後は「宿命」への諦念によってカタストローフが浄化されるギリシャ悲劇と異なり、この〈世迷言〉には浄化も諦念も影すら射さない。

きわめて整って堅固な、様式への傾倒を見せる中屋敷の演出であり劇作だが、案外、彼の深層には醜悪な「生=性」へ寄せる嫌悪と魅惑、異性への反発が根柢に流れているような気がする。また、そうした「深み」へ振れるのを作者自身が無意識のうちに避けているような、そんなじれったさを感じたのも事実である。

とはいえ、紛れもない力作でオススメである。
本日の東京千穐楽のあと、2月8日(土)には石川公演(1ステージ)。2月14日(金)~2月15日(土)には大阪公演 (3ステージ)
未見の方は是非ご一見の上、演劇における様式性の問題について思いを巡らせる好機として頂きたいと思う。

2014年2月 4日 | その他批評 | 記事URL

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