批評

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2012年9月の能・狂言

2012年9月14日(金) 午後6時 銕仙会9月定期公演 宝生能楽堂
◆能〈夕顔 山ノ端之出・法味之傳〉
シテ:野村四郎/ワキ:宝生閑/ワキツレ:宝生欣哉・野口琢弘/アイ:石田幸雄/笛:一噌仙幸/小鼓:大倉源次郎/大鼓:亀井忠雄/地頭:観世銕之丞
◆狂言〈重喜〉
シテ(住持):野村萬斎/アド(重喜)野村裕基/地頭:深田博治
◆能〈龍虎〉
シテ(尉・虎):浅見慈一/ツレ(樵・龍):長山桂三/ワキ:御厨誠吾/ワキツレ:大日方寛・野口能弘/アイ:竹山悠樹/笛:槻宅聡/小鼓:鳥山直也/大鼓:佃良勝/太鼓:小寺佐七/地頭:柴田稔

野村四郎の〈夕顔〉が素敵な出来ばえだ。

初めに触れておくと、前場で夕顔の花蔓がひそやかに絡んだ藁屋の作リ物にシテが入って出、「山の端の心もしらで」と囃子ナシに謡い出す「山ノ端之出」と、後場で序ノ舞が抜けて一クサリの習ノ手(〈道成寺〉のシテの出や〈定家〉〈檜垣〉で舞の前に入る手と同じ)の間にワキの合掌を受けてシテも下に居て合掌する「法味之傳」が併演されると、大幅に時間が短縮されるばかりでなくドラマ性が煮詰められ、結果的に〈夕顔〉という能の格調と内容が格段に高く深くなる。
あらゆる小書の中で最も優れた部類に属するものがこの2つである。

それだけに、役者の存在感が突出しなくては演出に打ち勝てないし、さなきだに仕どころの少ないこの能から舞が抜けることによって「表現」はさらに制限されるわけだから、地謡と囃子の責務が増し、シテは「せぬならでは手立てあるまじ」ということになる。

四郎の〈夕顔〉が優れているのは、後場でワキと合掌した豊かさや、キリ「明けわたる横雲の」で左袖を返し正先から脇座に寄った上を見た型の美しさもさることながら、謡い込んで無駄が一切なくなった声の質感、舞台の空気と同化するような自然なたたずまい、そうした根源的なところから発する結果である。
こうした舞台を見ていると、能役者は食器。能作品は料理。逆ではない。
どんな料理を盛り付けてもそれを包み込み、おいしさを十全に際立たせながら料理を追い越すことがないのが理想。優れた食器ならば大抵の料理は受け付ける。また、料理を盛り付けた時のほうが何も載せない時よりも生き生きと映えるものだ。

この譬えで言うならば、四郎の声と身体はアンティークの銀器のようだった。
良く見ると細かな瑕があり、時代相応の使用感が伴う。
が、念を入れて磨き込まれ、それが美観となればあえて黒ずみを残したまま、客前に出される貴重な銀器。
扇を持つ手の震えが目立ち、唐織姿で下居する前場はちょっとつらそうだったが、確かに「瑕」でこそあれ、これらを「欠点」として排除する必要はまったくない。
つまり、「瑕」も含めた総体がアンティークの価値なので、食器の宿命が「鑑賞されるものでなく使われるもの」である以上、時を重ねる中で必然的につく「瑕」は歴史の証拠で価値の一部。瑕のない銀器はあり得ない。
もちろんこれは、「罅の入った骨董品」というのとは全然、別の問題だ。

面は前後とも銕仙会名物、大和の相生増。孫次郎風の、〈夕顔〉には最適の名作。
装束は、前シテが薄朱とクリーム色の段に秋草を織った唐織。後シテが薄い古代紫地に地味な色彩で色々の朝顔と金の撫子を織り出した長絹(露は薄朱)、褪色してほとんど白に近い水浅黄の時代大口。理想的な取り合わせである。

この日の地謡は、先日の銕之丞初演〈姨捨〉(地頭:浅井文義)のように細部に巧み過ぎて根本が脆弱な感が後退し、今後に些か期待できた。地頭の銕之丞は抑えた謡い口で周到に全曲を通し、副地頭の浅井文義と共通の世界観を示すことができたようだ。
もっとも、全体に戦戦兢兢といった感は否めない。こうした能には最高度の地謡が求められる以上、全霊を挙げて謡いながらも乱雑に流れず、引き締め、削ぎ落とす理想の追求を今後も続けてほしい。
囃子はやはり仙幸の笛と亀井の大鼓が聴きものである。ことに亀井忠雄。
余談ながら、病気療養の柿原崇志がことによると年内休養らしい。そうなると、大曲の大鼓の最適手となれば亀井忠雄しかいないわけで、これはちょっと恐ろしいことである。

萬斎親子の出演のためか、この日は完売。地謡までも出る割に他愛はない演目だから、大曲めかさずサッパリと終わり、楽しかった。

祐基は嫌味がなく素直だが、ちょっと暗く、覇気に欠けるようだ。
萬斎が演ずる住持は、本編よりも解説のほうが面白い映画を見せられている気にならない訳でもない。

〈龍虎〉の能を説明する際に、決まり文句のように「唐絵の画題から発想された絵解き」だと言われる。 要するに、「絵を見せるように、いかにもそれらしい唐土の物語と龍虎の闘諍を見せる能」ということだが、これは言い換えれば、表現のための表現、演出のための演出、ということに落ち着いて、そこには本質的な意味でのドラマは存在しない。


たとえば、〈鷺〉や〈猩々〉はただ鳥獣・妖精の物真似を見せる能ではない。そうだと思っている人がいたら、それは能というものをまったく分かっていない人である。
〈石橋〉の獅子だってそうである。
想像上の猛獣の「物真似」をただ技術力をもって演ずるだけでは、〈石橋〉ではない。獅子は文殊菩薩の顕現であり、いわば「仏法そのもの」である。
「獅子」を舞い、囃すことは、完璧な気力と技術力で突き抜けたところにある種の精神性を漲らせることにあるので、それが叶わない能役者の〈石橋〉は本当は落第である。

だが、〈龍虎〉にそんな「内容」はない。

前場はただの中国旅行案内(しかもどことも知れぬ架空の場所)。
後場の虎も龍も、精神や思想の象徴とまで書き込まれている訳ではない。

だから私は、〈龍虎〉を見るたびに、実に虚しい気持ちになる。
善く演じられても、ただそれだけのことである。

ともあれ、そんなことを愚痴にしてもしかたがない。
こうした無内容の虚しい能なればこそ技術的には完全にこなす必要がある、とは、一種の逆説だろう。

慈一は前シテの下居姿が良くなった。地藝が上がった証拠だ。
ただし、桂三ともども後場になると面がゆがんだり(頭や虎戴・龍戴の重さの上にカヅキを被くので大変ではある)、身体の軸がズレることがある。
齢を重ねて瑕が欠点にならなくなった四郎の〈夕顔〉とは違い、後場で激しく動く〈龍虎〉ではちょっとの瑕も目立つのである。

これも譬えで言えば、使用して味の深まる銀器ではなく、〈龍虎〉は床の間に据えたり棚に置いたりして鑑賞する精巧な七宝焼の装飾壺のようなものだ。花も活けず手にも触れず、ただ眺めるだけが目的の美術品。
能とはほんとうは、そんなものではないと思う。
だから私は、〈龍虎〉が好きではない。

もしも、技術力だけでこの能をよく演じ納めるものの、他の何ものも感じさせない能役者がいたとしたら、それはそれで「そんな役者に〈井筒〉や〈砧〉が舞えるのか......?」との疑念を抱くに相違ない。
もっとも、〈龍虎〉を完全に演じきる技術力そのものは、他の能にも応用必須ではあるが。

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2012年9月17日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2012年7月の能・狂言

2012年7月22日(日) 午後1時 第6回西村同門会研究能 名古屋能楽堂
◆能〈藍染川 供養留〉
シテ(梅千代の母):本田光洋/子方:金春嘉織/ワキ:飯冨雅介/ワキツレ(左近尉):原大、(太刀持):原陸/アイ:今枝郁雄/笛:大野誠/小鼓:後藤嘉津幸/大鼓:河村眞之介/地頭:金春安明
◆高安流脇仕舞〈春榮〉小林努/〈和布刈〉有松遼一/〈羅生門〉椙元正樹

高安流ワキ方の研究公演として無料開放の催し。子供たちや学生など素人の仕舞等をも交えた番組中のメインは、ワキ方の活躍する能の中で〈張良〉〈羅生門〉〈谷行〉〈檀風〉と並ぶ大曲でありながら極度に上演の機会が少ない〈藍染川〉、しかもシテ方金春流を立てたところが更に珍しく、加えて小書「供養留」という実に凝った企画である。

西村同門会代表・飯富雅介が大役のワキ、太宰府の神主・菅原頼澄を勤めた。
これは不躾ながら正直、望外の掘り出しものだった。

先に藝評を加えると、飯富は響きの豊かな謡がなかなかの名調。風采も立派で押し出しが良い上、実に情が厚く、子方に対して冷たい感じは皆無。特に良かったのがクセ。正先の出シ小袖=梅壺侍従の死骸に親しく向かって瞑目、細かな心持ちを示す型に深い哀惜の心が籠っていた点。あたりを払う藝品には不足していたかもしれないが、地方実力者らしい卑近な土の匂いが添うていたのがこの役にふさわしかった。ほかを仔細に見ても、手順や型をよく調べて身に着けたらしく仕事すべてに実(ジツ)があって、持ち味や人柄や功名心だけでごまかした藝ではないことが分かる。

番組には予告されていなかった演能解説があり、担当の村瀬和子さんがおっしゃっていたように、後シテが出ないこの小書はワキのノットも省かれ本来の作意たる死者蘇生の奇跡は起きず、確かに「残念なこと」ではある。
ただ、太鼓方と作り物の必要が省かれる点で経済的という理由もあったかもしれないが、逆にこのような純粋な研究公演でなければこんな小書は一生見られなかったに違いなく、とにかく貴重な機会でありがたかった。
こうしたもろもろの贔屓目で見なくても充分に立派な、今日の飯富の好演は嬉しい。

金春嘉織の子方・梅千代が大出来。
とにかくキチンとしている。出のシテとの連吟も調子が揃い、無駄に動かず居ずまい端正、何より美事なことに視線がブレていない。ちょっと生真面目すぎるほど良く稽古し、心得た子方で、100点満点だ。
今の内にできるだけ多くの大舞台を踏ませてやりたいと、切に思う。

地謡は6人だったが家元の地頭がシッカリ謡いこなして非力な感じはない。原大の勤めた左近尉も大役だが、神主夫人に言われて梅壺侍従を追い払うのも職務ならば、夫人の話と違う神主の命令に唯々諾々と従うのも職務で、その両方に真実味がある上、梅千代への篤い同情心が前面に出て、好サポートだった。
これらの中で沈没の危険があるシテ・本田光洋は、持ち前の謡の力(牛のような金春流の発声でも言葉がちゃんと分かる)で冒頭から飽きさせない。文をハラリと捨てることで示す入水の段でも唐突に型をするのでなく、宿から追放される件から面をクモラせぎみに決意の腹を周到に匂わせ、子方を伴いつつ正先の川面にシカと心を付けて刻一刻と迫る悲劇を予測させるなど、巧い。

以下、演出等について記録・論評を加えたい。

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2012年7月22日 | 能・狂言批評 | 記事URL

八世観世銕之亟靜雪十三回忌追善能

2012年6月30日(土) 午後1時半 銕仙会特別公演・八世観世銕之亟靜雪十三回忌追善能 観世能楽堂
◆連吟〈海士〉シテ:鵜澤久/子方:鵜澤光/地頭:清水寛二
◆能〈姨捨〉
シテ:観世銕之丞/ワキ:寶生欣哉/ワキツレ:大日方寛・御厨誠吾/アイ:山本東次郎/笛:藤田六郎兵衛/小鼓:大倉源次郎/大鼓:亀井廣忠/太鼓:観世元伯/地頭:浅井文義
◆仕舞〈融〉観世喜正/〈船弁慶キリ〉片山九郎右衛門
◆一調〈勧進帳〉大鼓:亀井忠雄/謡:観世清和
◆狂言〈無布施経〉シテ:野村万作/アド:石田幸雄
◆仕舞〈花筐クルイ〉大槻文藏/〈景清〉片山幽雪/〈野宮〉梅若万三郎/〈西行櫻クセ〉梅若玄祥/〈當麻〉観世喜之
◆能〈猩々亂〉
シテ:観世淳夫/ワキ:寶生閑/笛:一噌仙幸/小鼓:観世新九郎/大鼓:柿原弘和/太鼓:金春國和/地頭:観世銕之丞(追加〈東岸居士キリ〉)

舞台の成果は、まず当代銕之丞の〈姨捨〉初演。

爆発的なパワーを持ち味とする銕之丞は、今日は曲が曲だけにその持ち味を隠し、むしろ不器用に徹して訥々淡々と2時間半を費やし丁寧に一曲を辿った。
とはいえ、以前〈野宮〉や〈西行櫻〉のように静謐な曲で見せたすばらしい充実度ともどこか違う、自分を飼い馴らしたような手加減をも感じて、正直、不愉快ではないものの必ずしも理解でき満足できる〈姨捨〉ではなかった。

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2012年7月 1日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2012年2月の能・狂言

この月の能評は、『能楽タイムズ』2012年4月号に批評「己身の〈羽衣〉~2月の能・狂言」として執筆、掲載された(2012年4月1日発行)。
ご興味の向きは、高覧を願い上げる。(出版元:能楽書林 03-3264-0846)

以下、当該能評で扱った公演(この月、私が目にしたすべての能・狂言)について、詳細を記せなかった配役等を追記しておく。

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2012年3月28日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2012年1月の能・狂言(未完)

1月3日(火)午後2時 大槻能楽堂新春公演第1日
◆〈翁  十二月往来之式〉
翁:梅若玄祥・大槻文藏/三番三:茂山千三郎/千歳:浦田保親 /面箱:井口竜也/笛:藤田六郎兵衛/小鼓頭取:大倉源次郎/脇鼓:清水皓祐・吉阪一郎/大鼓:谷口正壽/地頭:斎藤信隆
◆狂言〈鎧〉
シテ:茂山千五郎/アド(太郎冠者):茂山正邦,(すっぱ):松本薫
◆能〈花筐 筐之伝〉
シテ:山本順之/ツレ:山本博通/子方:武富晶太郎/ワキ:福生茂十郎/ワキツ(使者):福生和幸,(輿舁):福生知登・喜多雅人/笛:野口亮/小鼓:久田舜一郎/大鼓:山本孝/地頭:藤井完治

「十二月往来」の翁は珍しい。
観世流の現行詞章は江戸中期の改訂で国学臭が強く、文体が極めて異質。〈梅〉と並んで実に覚えにくいそうだ。同じ〈翁〉の替エでも「舟ノ立合」「弓矢ノ立合」と違って滅多に出ないのはそれが理由だろう。

簡単に言えば、これは二人翁の趣向である。
冒頭「翁渡シ」では面箱に続き玄祥の翁大夫(左翁)が出、文藏(右翁)がこれに続く。玄祥が正先で一礼の間、文藏は向かって左手奥で平伏。翁帰リの正先一礼は文藏が勤め、玄祥は向かってその右手奥で平伏。両人、打ち返しのかたちである。

千歳之舞のうちに両翁とも白式尉面を着け2人が大小前に並び立つと(向かって右に玄祥、同じく左に文藏)、玄祥の右手(笛座前)に千歳、文藏の左手(太鼓座前)に三番三が立ち、4人の並立となる(翁後見が面箱を少し後ろに引いて千歳の立つ場所を作る)。

次に2人の翁が向き合い、玄祥「や。尉殿に申すべきことの候」から囃子は打たず、ここで千歳と三番三は下に居る。文藏「それこそ最もめでたう候へ」で両翁は正面を向き、そこから眼目の十二月の掛け合いとなる。トメの玄祥「みたらはします御調の御寶」から小鼓打ち出し、「参らう」で両翁向き合う。地謡「あれはなじょの」で千歳は立って脇座に、三番三は同じく後見座に退き、以下、常の翁之舞を両翁の相舞にする。
以上、玄祥を「左翁」、文藏を「右翁」と記すのは、雛祭の雛壇に飾る左近の桜、右近の橘と同じく、見る者に対した時の左右。客席正面から舞台を見れば、向かって右に立つのが「左翁」、向かって左に立つのが「右翁」に当たる。むろん、日本の伝統的な考えでは常に「左」が上位である。

ほんらい、〈翁〉で藝評はするものではない。
とはいえ、長年の二人の親密な共働を反映した、他ではちょっと望めない堂々たる二人翁である。記憶力抜群の玄祥も霜月の件でさすがに一瞬、わずかな間が空き掛けたが、事なきを得た。

小鼓は、頭取を勤める力量を有した2人を脇鼓に従えて大倉流らしい重厚さ。関東ではちょっと聴けない、中々の充実ぶりである。最初に出るので否応なく目立つ面箱は、グッと腰を入れて耐える更なる修錬を。

めったに見られない〈鎧〉は、文を披いて読み上げる鎧づくしの美文のカタリが眼目。茂山千五郎家ではこれを新年の謡初にしているはずである。

型どおりの脇狂言というばかりでなく、濃厚な人間味が横溢。「縅(おど)すもの=鎧の小札(こざね)を綴り合わせるもの」を「脅すもの」に置き換え、最後は騙された太郎冠者が武悪の面で主を「脅す」騒動に発展する。
上記のとおり、いささかドタバタ劇なのだが、千五郎も正邦も恥も外聞もなく熱演するので却って不自然さはなく、一種の人間賛歌に昇華する楽しさは無類だ。
ただ、その半面、2人の居所がキリリ引き締まって見えない場面も散見された。

曲柄にも合い期待された山本順之の〈花筐〉は無難な出来ばえ。
後半、足元のグラつく部分もあり、精巧な機械仕掛けを思わせた昔の肉体に比べて老いを思った。

だが、森厳で勁い調子。どこを取っても聴き取れないところのないコトバと謡。前シテの下居姿で周囲の空間が切り取られるような引き締まった造形美など、さすが凡手ではない。

後シテとツレと、どちらも白水衣を着たので、シテの身分が立たなかった。
また、籠には前後とも花を盛ったが、常々述べる如く、本文を読み込む限り間違いである。
「かたみ」とは、「形見」を掛けながら、「堅間=目を堅く編んだ籠」という意味。盛った花に意味はない(ゆえに常は木の葉一枝で済ませる)。道具としての籠に主眼がある。
「何も盛られない」空籠。
この籠は皇子にとって離別の印だったが、シテはこれを逆手に取って、「何でも盛り得る」空籠として呈示、自ら后妃たる地位の復帰を望む強い意志を盛り入れたのである。
(その意味で、長俊改作時に削除された世阿弥原作の末文「安閑天皇の御母、照日の宮と申しゝは、筐の女御の御事なり」には、劇主題的に深い意味があると私は思う。)

1月8日(日)正午 宝生会月並能 宝生能楽堂
◆能〈羽衣 盤渉〉
シテ:三川泉/ワキ:宝生閑/ワキツレ:殿田謙吉・御厨誠吾/笛:一噌仙幸/小鼓:幸清次郎/大鼓:亀井忠雄/太鼓:金春國和/地頭:今井泰男

今年2月で満90歳の三川泉の舞台。

シテの出のコトバに雅味横溢。初段オロシから盤渉に上がる序ノ舞は清浄感に満ち、二段目替のオロシで右袖巻き上げ右ウケ、面を遣ったところで、既に宙空を舞っている浮遊感があった。白地腰巻に桜折枝と楓流水文様の白地長絹が清楚。その印象からも、「霞に紛れて」で幕に入るところは、目の前からスッと白い鳥が飛び去ったようだった。

半面、生命力が稀薄なのは是非もない。「南無帰命月天子」で下居せず立ったまま大鼓前で合掌した姿は肘も落ちて面もクモリがちだが、問題はそうした外形ではなく、それを突き抜けて昇華するものの有無だろう。

老優の個人的人生の足跡と、演目が求める表現性と、われわれ観客にとって「舞台藝術をどう見るか」が問われている。最晩年の友枝喜久夫が、松本惠雄が、中村歌右衞門が、身をもって示してくれた大きな問題である。

亀井忠雄の行き届いた藝。「詮方も」で打ち納めドンと付けて地謡に渡す、その小さな音の深々とした充実と絶妙の間。

1月9日(月)午後1時 至高の華・梅若玄祥舞台生活六十周年記念祝賀能 国立能楽堂
◆能〈松山天狗〉
シテ:梅若玄祥/ツレ:梅若紀彰・鷹尾章弘・鷹尾維教/ワキ:宝生欣哉/アイ:深田博治/笛:竹市学/小鼓・大倉源次郎/大鼓・亀井忠雄/太鼓・助川治/地頭:山崎正道
◆狂言〈末広かり〉
シテ:野村萬斎/アド(太郎冠者):高野和憲/小アド(すっぱ):石田幸雄
◆能〈土蜘 ササガニ〉 
シテ:梅若玄祥/ツレ(頼光):観世喜正,(胡蝶):山崎友正/トモ:小田切亮磨/ワキ:宝生欣哉/ワキツレ:宝生朝哉・則久英志・ 大日方寛 /アイ:石田幸雄・月崎晴夫/笛・竹市学/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:亀井廣忠/太鼓:金春國和/地頭:梅若長左衛門

晴れの記念能だが玄祥の体調が充分ではなく、その倦怠感が、陰鬱な〈松山天狗〉の前場には却って効果的だった。文字どおり怪我の功名。

〈松山天狗〉は大小前の一畳台前に半畳台を出しT字型に組む。一畳台上の塚の作リ物には松を葺いた上、(吉田流の)幣を3枚付けた七分ほどの太さの注連縄を張った。大相撲の横綱に見紛うこれより、〈三輪〉式に白紐に(伊勢流の)幣のほうが能らしかろうと思う。

前シテがワキを廟所へ誘う件の凄み。中入前「さても西行」と言い掛けると位取りがガラリと変わって、身内から溢れ出る堂々たる帝威。こうしたところは当代には誰も敵する者なき玄祥の独擅場である。
が、健康的ではない。藝に一種の病感が付き纏う。
地謡一杯に作リ物に中入。シテの姿が消えているのに、狂言来序に変わるまでひとしきり来序を打ったのは、着替えの時間稼ぎもあろうが、ひどく間が抜けて見えた。

後シテは黒の単直衣に緋長袴。立纓の冠は能道具の初冠ではなく有職の品で、巾子も大きく磯も高い。笏も赤みがかったイチイ=アララギに見えた(飛騨・位山のイチイの木は笏の用材として著名で、新帝が即位礼で手にする笏は現在もこれで製する)。

ちなみに、雛人形の男雛に見る如く、天皇に限って冠の纓を垂らさず立てる「立纓(りゅうえい)」の習いが起こったのは江戸時代以降のことだが、幕末の孝明天皇の御影を見ても立ち方はゆるく後方45度に跳ねる程度。明治天皇の写真に至って垂直に立つようになり、現在に至る。
デフォルメされた立纓は金冠白衣の歌舞伎の公家悪が先行している。むろん平安末期の崇徳院時代に立纓はなく、臣下同様の垂纓だった。〈絃上〉の後シテ・村上天皇が立纓ではなく垂纓で登場するのは、(冠の形態の異同は別にして)史実に合っているのである。
先代銕之亟もそうだったが、能役者の歌舞伎趣味は感心しない。演劇史的に後代の演技様式や演出を、前代のものに無反省に移入するのは禁じ手だと考える。

舞事は替の楽。二段目から盤渉に上がって二ノ松へ出ると思い入れ、位がグッと締まって笛吹き流し、笏を掻い込んで憤怒の心を示し(演技的には抜群に巧い)、笏で膝を打って急ノ舞に転じ、舞い上げる。束の間の遊舞から「逆鱗の御姿」に変ずるには実に効果的な半面、シテも囃子も表現が万事見え透いて、効果のための効果に思える欠点もある。
最後はツレ天狗を先立てて、地謡が切れたあと花道の幕外のようにナガシの手を際立たせた急調の囃子に乗って入る。これまた、まるで歌舞伎である。

作品として決して第一級の作品でないだけに、スポンジに手を抜きデコレーションで飾ったケーキのような安物感が強い。前場の陰翳と位取りが、さらにストイックな表現によって後場で実体化されないと、至極巧い人だけに、玄祥の能は虚藝に見えよう。注意したい。

ワキが掛絡を掛けていたが、身を飾って見え、西行らしくなかった。

糸沢山に奮発した〈土蜘〉は、まあ、それだけのこと。
ただし、前シテで幕内に立った玄祥の面構えは舞台人として第一級。ここでグッと溜めておいてジックリ一ノ松まで出、ツカツカッと欄干際へ出ざま「いかに頼光」と言い掛ける息は、やはり他人には望めない。
後場の働、初段に派手にナガシの手を入れたが〈松山天狗〉と重複し、散々やりたい放題、という感じである。
間狂言〈ササガニ〉は、石田の飄々たる味が良い。ただしここで「おのおの葛城山に分け入り」と言っているのは能の誤読。原典の『平家物語』に明らかなように、土蜘蛛の塚は都の北野にある。

なお、予定されていた歌舞伎〈土蜘〉から問答の逆輸入は今回試みられなかった。そこでの土蜘蛛塚は、羅生門の鬼よろしく東寺のあたり、ということになっている。

この日の〈末廣かり〉の萬斎はきわめて低調。声の響きも薄く、動きも精彩なく、紙人形の動くような狂言だった。

1月14日(土) 正午 五雲会 宝生能楽堂
◆能〈東北〉
シテ:金井雄資/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:舘田善博・平木豊雄/アイ:山本泰太郎/笛:一噌隆之/小鼓:観世新九郎/大鼓:安福光雄/地頭:小倉敏克

齢の割には老成している金井の能だが、この日はそれが吉と出て、ある意味では取り付く島もない〈東北〉という能に確実な手応えを感じさせた。
亡父や近藤乾之助を通じ、幼少の頃から「深川の九郎の弟子」近藤乾三に近侍する機会が多かったこの人には、理屈で能をつかむ前に「これ」という確たる能のすがたが見えることが多く、それが老成の何割かをなしているのだろうと、私は考えている。

軽くハコビの良い明快な謡。前場ロンギ「この花に住むものを」常座に立ちジックリ正先に向いた身体の重みと、姿および目の付けどころの良さ。
後シテの一声の出もノリよく、車に乗って出る心が充分に窺えた。こうした充実は、普通は老練な能役者の身に添う得分である。

この種の身体の充実、前シテで指摘した「目の付けどころ」の確かさで、舞グセを通じて実に強固に設計された造形美があった。
このクセは、東北という鬼門=聖なる方角から、都という小宇宙を俯瞰する、一種の都市論・空間論であり、それが「東北陰陽」の仏法の哲理に通ずるところに意味がある。色気や雰囲気でダラダラ舞われたら、それだけでこのクセは見当違いのものになろう。〈羽衣〉と並んで初心者の仕舞稽古によく舞われるが、実はこの二番のクセは、三番目物の舞グセの中でも〈芭蕉〉に比肩すると、私は思っている。それに充分応え、梅花の香気(すなわち充実の余得)さえ思わせた金井の藝だ。

あえて注文を付ければ、宝生流の役者の常として、袖の扱いに洗練さを欠く点。キリ「思ひ出づれば我ながら懐かしく」と正中に立ってクモリ、思い入れるところで、背筋でクモルのではなく顎でクモル感があって外面的だった点。完成度が高くなればなるだけ、細部にはより細心でいなければなるまい。
また、後シテが緋大口の上に纏った紫地に破レ業平菱の長絹は、〈井筒〉〈杜若〉の「制服」のようで、あえてこの能で着用しなくとも良いように思われた。

それにしても、金井雄資会心の一番である。

山本泰太郎の間語リは重いというより暗い。位取りを誤り、調子が張らずに滅入ったためだろう。大鼓・安福光雄が雑に聞こえた。先述の三川泉〈羽衣〉における亀井忠雄のような細心さを学ぶと良いはずだ。

1月15日(日) 午後1時半 銕仙会1月定期公演 宝生能楽堂
◆〈翁〉
翁:観世銕之丞/千歳:観世淳夫/三番三:山本東次郎/面箱:山本則秀/笛:藤田六郎兵衛/小鼓頭取:大倉源次郎/脇鼓:田邊恭資・飯冨孔明/大鼓:柿原祟志/地頭:野村四郎
◆狂言〈佐渡狐〉
シテ(佐渡百姓)山本則俊/アド(越後百姓):山本則秀,(奏者):山本則重
◆能〈箙〉
シテ:谷本健吾/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:坂苗融・大日方寛/アイ:山本凜太郎/笛:寺井宏明/小鼓:幸正昭/大鼓:柿原光博/地頭:浅井文義
◆能〈鷺〉
シテ:浅見真州/ツレ:片山九郎右衛門/ワキ:宝生閑/ワキツレ(大臣):宝生欣哉,(従臣)宝生朝哉・坂苗融・大日方寛・高井松男,(輿舁):殿田謙吉・平木豊男/アイ:山本則俊/笛:一噌庸二/小鼓:幸清次郎/大鼓:亀井忠雄/太鼓:助川治/地頭:山本順之

例年吉例の銕之丞の翁大夫。翁之舞に掛かるところ「そよや」で絶叫に近く凶暴になる。少し息を溜め声に発散しないようありたい。今夏〈猩々亂〉を控えた淳夫は稽古のしどころである。

東次郎の三番三、折々咳き込んで気の毒。そのせいか揉ノ段は本来の調子が出なかっただけに、顔や所作など細かな部分の表情が際立った。老練の味がモノを言う鈴ノ段では、同じ動線をジックリと動き重ねるうちに、その線を次第に深く切り裂いてゆくようだ。本当の修業を積んだ力量は、たとえ不調でも、年を取っても、やはり紛れないという例である。

このメンバーでの〈佐渡狐〉は、ちょっと辛い。
ことに若い則重が奏者では型通りのことをこなしているというだけのことで全体に膨らみが生ぜず、よく調いはした稽古狂言を見ているようだった。

勝修羅三番と言うものの、格調の点で優れた〈田村〉〈八島〉に比べ、〈箙〉は軽い能で取りどころがない。中堅以上の主だった役者はまず手掛けない曲だから、若手の谷本は現時点で一応の成果を挙げておかないといけない、ということになる。

素質と意気込みに有望なものを持っている谷本。近年、期待にそぐわぬ粗雑な舞台を見せることもないではなかったが、今回は初会の出番とて、全体に張り切った好演。
前シテの出のハコビの吸い付くような粘り。居グセの間は胸が張れ背筋も伸びてなかなかの姿態。
梅花の香気と言っても、ありきたりな平太(今回は近江の名作)以外に使用面は考えられない能だし、枝葉末節に凝る訳にもゆかず、ただ太い一本の線を引き、そこに総てを託す以外にない。能役者にとってそうは思い入れや深読みのできない作品。最も批評しにくい演目の一つでもある。
とは言うものの、谷本の具える一種の野趣ある個性は、この能で確かに有利に働いた。

高校生の凜太郎が間語リをするようになった。丁寧に憶えて一生懸命に勤めている。

堂本正樹が二世梅若實、十四世喜多六平太、野口兼資、この3名人の〈鷺〉の中で梅若實を最も評価していたのは、ただの動物描写ではない、言語化できない役者の「存在感」に徹するでもない、そこにひとつのドラマを看取したからである。

つまり、われわれにとって〈鷺〉とはいかなる能であるのか。

今回は淺見眞州の初役である。
鷺ノ亂の五段目最後に右膝をついて下に居、扇の要元を逆さに持ち、留メの六段目に移るところでキッと正面を向いたイキが面白かった。単なる無心とか、鳥の心もち(そんなものがあるのか......)とかではない。周到な計算で舞い募る淺見眞州という男の「意志の顔」がそこに見えたからである。

スタイリッシュな淺見だが、私もやはり、前記3人のうち二世實に最も近いように想像した。濃密な三番目物を得意とするこの人が非人間的な能でもある〈鷺〉を舞ってどうなるのか、見る前はおよそ見当がつかなかったのもそれが理由だった。

今回、私は非常に面白かった。

舞が綺麗だとか、動きが安定しているとか、こんな単純な曲にそんなことは何の難しい問題でもない。大切なのは、動物の姿態を描写する〈鷺〉という能であっても淺見眞州は淺見眞州の「能」を演じていた、ということだ。
これが関根祥六のように、帝王と対峙する鳥、双方の生命の対等性の表現まで至れば大したもので、これは、確かに偉大な成果だった松本惠雄の〈鷺〉では考えられないドラマである。そして祥六その人は、何ら劇的な演技もしていなければ、芝居を見せていた訳でもないのだ。

淺見がもっと年を取って、それこそ良くも悪くも「どうでもいい」境涯に至ったら、どんな〈鷺〉を見せてくれるだろうか。

王=醍醐天皇の九郎右衛門は、萌黄地丁字立枠菊桐文様の単狩衣に緋指貫を穿いたが、指貫が無紋なのは気になった。貴人が無紋を着用することはあり得ないからである。
もっとも、緋の指貫自体〈三輪〉〈葛城〉など能独自の発明品で、有職としては存在しない。

中世の天皇が常用したのは緋長袴に白地で丈長く作った特別の直衣を着る「御引直衣(おひきのうし)姿」。別に、普通の直衣に緋長袴を着用した絵も残されている。長袴はもともと女子の料だから、これは天皇の一種の女装化である。
現在も即位大礼および大嘗祭の期日奉告のため「神宮神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に勅使発遣の儀」においてのみ、天皇は立纓の冠に御引直衣姿で臨まれる(今上陛下の場合は平成2年=1990年1月23日で、テレビ等でも報道されたその光景が忘れ難い)。
だからと言って、この能のツレが緋長袴で出るわけには行かないだろうけれども。

閑のワキ、最初はちょっと老いの影が深かったが、動き始めてからは大したもの。ワキツレに子と孫を従え、初めての三代共演となったのはめでたい。

1月22日(日) 午前10時半 片山定期能1月公演 京都観世会館
◆能〈小塩〉
シテ:味方玄/ワキ:原大/ワキツレ:有松遼一・岡充/アイ:松本薫/笛:光田洋一/小鼓:吉阪一郎/大鼓:谷口正壽/太鼓:前川光範/地頭:梅田邦久
◆狂言〈酢薑〉
シテ(酢売):茂山良暢/アド(薑売):茂山正邦
◆能〈鉢木〉
シテ:片山幽雪/ツレ:分林道治/ワキ:宝生閑/ワキツレ:御厨誠吾/アイ(早打)茂山童司,(下人)茂山正邦/笛:藤田六郎兵衛/小鼓:大倉源次郎/大鼓:河村総一郎/地頭:片山九郎右衛門

1月25日(水)午後6時半 国立能楽堂狂言の会
◆狂言〈松脂〉
シテ:山本則俊/アド(何某):山本東次郎,(太郎冠者):若松隆/立衆:山本泰太郎・山本則孝・水木武郎・山本凛太郎・山本則秀/笛:一噌幸弘/小鼓:森澤勇司/大鼓:柿原弘和/太鼓:徳田宗久/地頭:山本則重
◆狂言〈連歌盗人〉
シテ:三宅右近/アド:石田幸雄/小アド(亭主):野村万作
◆狂言〈茶子味梅〉
シテ:野村萬斎/アド(妻):高野和憲/小アド(教え手):深田博治/笛:一噌幸弘/小鼓:森澤勇司/大鼓:柿原弘和/太鼓:徳田宗久

1月28日(土)午後1時 国立能楽堂企画公演 ~観世文庫創立20周年記念~世阿弥自筆本による能
◆狂言〈清水〉
シテ(太郎冠者):茂山千五郎/アド(主):茂山正邦
◆能〈難波梅〉 ※節付・型付・演出:梅若玄祥・観世清和/監修:松岡心平
シテ(老人・王仁):梅若玄祥/後ツレ(梅の精):梅若紀彰/子方(稚児):観世三郎太/ワキ(臣下):殿田謙吉/ワキツレ(従臣):大日方寛・御厨誠吾/アイ(末社の神):茂山七五三/笛:松田弘之/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:安福光雄/太鼓:小寺真佐人/地頭:観世銕之丞

2012年3月27日 | 能・狂言批評 | 記事URL

平成23年の能・狂言(1)

平成23年に接した能・狂言の舞台の内、特に優れた舞台を上演月日順に選んでみた。

1) 片山幽雪〈高野物狂〉 4月6日・国立能楽堂定例公演 
2) 關根祥六〈隅田川〉 8月5日・国立能楽堂定例公演 
3) 鹽津哲生〈野宮〉 8月21日・横浜能楽堂特別公演 
4) 近藤乾之助〈高野物狂〉 10月9日・宝生会月並能
5) 山本順之〈姨捨〉 10月22日・山本順之の会特別公演
番外) 観世清和〈關寺小町〉 7月1日・古稀記念龜井忠雄の会

他に、梅若玄祥〈江口〉(2月12日・横浜能楽堂企画公演)、大槻文藏〈定家〉(3月5日・東京清韻会別会)、、梅若万三郎〈夕顔 山之端之出・法味之傳〉(12月11日・梅若研能会)など幾つもが思い浮かぶ中の厳選である。

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2012年1月 1日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/10/22 山本順之の會特別公演

平成23年10月22日(土) 午後1時半 宝生能楽堂
◆仕舞〈實盛キリ〉観世銕之丞/〈花筐クルヒ〉観世清和/〈天鼓〉観世淳夫
◆狂言〈萩大名〉 シテ:野村萬齋/アド(太郎冠者):高野和憲/小アド(亭主):石田幸雄
◆能〈姨捨〉 シテ:山本順之/ワキ:寶生閑/ワキツレ:寶生欣哉・大日方寛/アイ:野村万作
/笛:一噌仙幸/小鼓:大倉源次郎/大鼓:柿原崇志/太鼓:小寺左七/地頭:観世銕之丞

紆余曲折を経て自らの能の道を貫いてきた山本順之の、畢生の傑作と言うべき圧倒的な〈姨捨〉だった。
決して、「銘酒に酔う」という感覚ではない。
極上の茶葉を念入りに挽き上げ、卓越した点前で点て澄ました濃茶を喫するような、馥郁として、冴え冴えと醒めわたる舞台だった。

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2011年10月22日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/4/3 観世会 春の別会

平成23年4月3日(日) 午前11時 観世能楽堂
◆能〈鷺〉 シテ:武田志房/ツレ:観世恭秀/アイ:山本東次郎/ワキ:寶生欣哉
/ワキツレ(従臣):工藤和哉・則久英志・森常太郎・高井松男/(輿舁):梅村昌功・舘田善博
/笛:一噌隆之/小鼓:大倉源次郎/大鼓:龜井廣忠/太鼓:小寺左七/地頭:野村四郎
◆狂言〈棒縛〉 シテ(次郎冠者):山本則孝/アド(主):遠藤博義/アド(太郎冠者):山本泰太郎
◆能〈卒都婆小町〉 シテ:關根知孝/ワキ:福王茂十郎/ワキツレ:福王知登
/笛:一噌仙幸/小鼓:観世新九郎/大鼓:柿原崇志/地頭:観世清和
◆仕舞〈白樂天〉坂井音重/〈笠之段〉観世清和/〈網之段〉關根祥六(谷村一太郎休)/〈善界〉観世芳伸
◆能〈融 思立之出・十三段之舞〉 シテ:津田和忠/ワキ:森常好/アイ:山本泰太郎
/笛:杉市和/小鼓:幸清次郎/大鼓:國川純/太鼓:助川治/地頭:高橋弘

武田の〈鷺〉は挙措進退が叮嚀。着付を気にして袖口を引き素に戻る癖もなくなったのはめでたい。居ずまいの引き締まった美しさは、なんと言ってもこの人の美徳である。

半面、まだこの能にひとつの「かたち」を付与するには至らない。

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2011年5月 2日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/4/24 喜多流職分会自主公演能

2011年4月24日(日) 正午 十四世喜多六平太記念能楽堂
◆能〈東岸居士〉 シテ:友枝昭世/ワキ:寶生閑/アイ:三宅近成
/笛:一噌幸弘/小鼓:曾和正博/大鼓:龜井廣忠/地頭:粟谷能夫

整い尽くしたシテの出来ばえ。同時に、無味を極めた一番である。

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2011年4月26日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/4/8 銕仙会定期公演

平成23年4月8日(金)午後6時 宝生能楽堂
◆能〈熊野 村雨留〉 シテ:観世銕之丞/ツレ:谷本健吾/ワキ:寶生閑/ワキツレ:則久英志
/笛:一噌庸二/小鼓:林吉兵衞/大鼓:龜井忠雄/地頭:浅井文義
◆狂言〈歌爭〉 シテ:野村万作/アド:高野和憲
◆能〈鞍馬天狗〉 シテ:長山桂三/子方(牛若丸):田代祐樹
/花見稚児:長山凜三・大倉伶士郎・大倉三奈・馬野桃・谷本悠太朗・泉房之介・北浪瑛次郎・北浪あぐり・馬野訓聡/ワキ:野口敦弘/ワキツレ:野口能弘・野口琢弘/アイ(能力):竹山悠樹・(木葉天狗):岡聡史
/笛:栗林祐輔/小鼓:田邊恭資/大鼓:安福光雄/太鼓:助川治/地頭:山本順之

能2番、狂言1番、いずれも春爛漫の曲を揃えた。不穏の世相をひととき忘れさせる好番組。前月の定期公演はあたかも大地震当日。そののち代替日は設けず、公演中止となっている。

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2011年4月26日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/4/6 国立能楽堂定例公演

平成23年4月6日(水)午後1時 国立能楽堂
◆狂言〈八句連歌〉 シテ:野村万作/アド:野村萬斎
◆能〈高野物狂〉(元禄本による) シテ:片山幽雪/子方:伊藤嘉寿
/ワキ:宝生欣哉/アイ:石田幸雄
/笛:藤田六郎兵衞/小鼓:大倉源次郎/大鼓:龜井廣忠/地頭:片山九郎右衞門

幽雪の〈高野物狂〉が美事な傑作である。

今回の〈高野〉は再演。2006年5月、京都観世会館における片山清司後援会で幽雪(当時九郎右衞門)が制作初演した準復古式を、5年を経てさらに洗い直し、世に問うたもの。

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2011年4月 8日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/3/5 東京清韻会別会

平成23年3月5日(土)午後1時開演 観世能楽堂               
◆能〈定家〉 シテ:大槻文藏/ワキ:寶生閑/ワキツレ:大日方寛・御厨誠吾/アイ:小笠原匡
/笛:一噌仙幸/小鼓:大倉源次郎/大鼓:龜井忠雄/地頭:淺見眞州

大槻の藝格が上がったことを示す秀演。「内なる自己」と対話した、静謐な〈定家〉である。

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2011年3月26日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/3/9 東京能楽囃子科協議会定式能

平成23年年3月9日(水)午後1時半 国立能楽堂
◆一調〈船辨慶〉 太鼓:金春惣右衞門/謠:谷村一太郎
◆能〈屋島 大事・那須與一語〉 シテ:野村四郎/ツレ:野村昌司 
/ワキ:宝生欣哉/ワキツレ:大日方寛・梅村昌功/アイ:三宅右近/地頭:武田志房
/笛:藤田朝太郎/小鼓:觀世新九郎/大鼓:龜井忠雄

初めに舞囃子3番があったが、所用にて見られなかった。

一調は惣右衞門の名人藝。これはもう、嘆賞するばかりである。
藝格の高さ。音色の良さ。間の面白さ。悠然としていながら漲る気迫。
すなわち、囃子藝のすべてがここにあり、老衰の兆しは微塵もない。

もっとも、一調の手をすべて諳んじて聴いているわけではないので、たとえどこか誤りがあってもそれを指摘することはできないが、どこをとっても逡巡の気配は皆無。謡に先んじてリードする勢いに満ち、ことに「追つ払ひ」で半間に打ち込んだ水玉の散るような撥捌きには、思わず髪が逆立つような興奮を味わった。

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2011年3月26日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/2/27 九州山本会

平成23年2月27日(日)正午開演 大濠公園能楽堂
◆仕舞〈胡蝶〉浦泰助/〈屋島〉山田秀子
◆能〈東北〉 シテ:山本順之/ワキ:福王和幸/アイ河邊宏貴
/笛:森田徳和/小鼓:幸正悟/大鼓:原岡一之/地頭:松浦信一郎(山本章弘休演)
◆狂言〈佛師〉 シテ:茂山良暢/アド:澁田昭典
◆仕舞〈道明寺〉今村宮子/〈松風〉森本哲郎/〈藤戸〉山本章弘休演
◆能〈善界〉 シテ:今村一夫/ツレ:山口剛一郎
/ワキ:福王知登/ワキツレ:是川正彦・喜多雅人/アイ:茂山良暢
/笛:森田徳和/小鼓:幸正佳/大鼓:白坂信行/太鼓:田中達/地頭:山本博通

冒頭「能へのいざない」と題する、ちょっと脱力系で親しみやすい山本章弘の解説がある。章弘本人は足を痛めたとか、能の他役には代役を立てた。

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2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/2/19 第4回 祐の会

平成23年2月19日(土)午後2時 14世喜多六平太記念能楽堂
◆〈木六駄〉 シテ:髙澤祐介/主人:前田晃一/茶屋:三宅右矩/伯父:吉川秀樹
◆〈骨皮〉 シテ:三宅近成(髙澤龍之助休演)/住持:髙澤祐介
/傘借:大塚出/馬借:金田弘明/斎の者:三宅右近
◆〈鈍太郎〉 シテ:髙澤祐介/下京の妻:河路雅義/上京の女:三宅近成

髙澤の強みは、まず第一に芯の徹ったハリのある明澄な声である。これは現在の若手狂言方すべての中でも、群を抜く声と言っても良い。
加えて、折目正しく俊敏な動き。ジッと座っていても微動だにしない舞台行儀。余徳としての「花」さえ添うている。
つまり、狂言方として理想的な美質を具えている役者である。

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2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/2/13 宝生会月並能

平成23年2月13日(日)午後1時 宝生能楽堂
◆能〈雲林院〉 シテ:今井泰男/ワキ:寶生閑/ワキツレ:工藤和哉・御厨誠吾/アイ:高野和憲
/笛:一噌仙幸/小鼓:幸清次郎/大鼓:安福建雄/太鼓:金春國和/地頭:三川泉

役者がいよいよ衰老の境に至り、心身ともにギリギリの局面に立ち至ると、その舞台をいったいどう評したらよいのか、観客の「見る姿勢」の根源が問われることになる。
名手と言われた後藤得三の、友枝喜久夫の、松本惠雄の、それぞれキャリア最末期の舞台に真摯に接した経験のある人ならば、これは痛いほど分かるはずである。

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2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/2/12 横浜能楽堂企画公演

平成23年2月12日(土)午後2時 横濱能樂堂
◆能〈江口〉 シテ:梅若玄祥/ツレ:梅若紀彰・同(棹差):梅若長左衞門
/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:大日方寛・舘田善博/アイ:石田幸雄
/笛:一噌隆之/小鼓:大倉源次郎/大鼓:龜井廣忠/地頭:觀世喜正

連続公演「能・狂言に潜む中世人の精神」の第3回・仏教。能に先立って相國寺派管長大龍窟猊下の講話と、野村萬齋の狂言〈博奕十王〉があったが、所用で接し得なかった。

マグダラのマリアような玄祥の〈江口〉。むろん、これは褒め言葉である。
若女を用いた〈江口〉を、私は初めて「良い」と思って見た。

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2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/2/6 観世会定期能

平成23年2月6日(日)午前11時 観世能楽堂
◆能〈百萬〉 シテ:梅若萬三郎/子方:武田章志/ワキ:寶生欣哉/アイ:大藏千太郎
/笛:寺井宏明/小鼓:觀世新九郎/大鼓:柿原崇志/太鼓:金春國和/地頭:觀世清和
◆仕舞〈高砂〉寺井榮/同〈清經キリ〉武田尚浩/同〈誓願寺キリ〉關根祥六/同〈須磨源氏〉木月孚行
◆能〈春日龍神〉 シテ:觀世芳伸/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:高井松男・大日方寛/アイ:大藏教義
/笛:藤田次郎/小鼓:幸正昭/大鼓:安福光雄/太鼓:小寺眞佐人/地頭:武田志房

初番の能〈盛久〉(シテ:高橋弘)と続く狂言〈富士松〉(シテ:大藏彌太郎)は所用にて見られず。

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2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/2/4 銕仙会2月定期公演

平成23年2月4日(金)午後6時 寶生能樂堂
◆能〈盛久〉 シテ:山本順之/ワキ:寶生欣哉/ワキツレ(太刀取):大日方寛
/ワキツレ(輿舁):則久英志・舘田善博/アイ:山本泰太郎
/笛:杉市和/小鼓:幸清次郎/大鼓:佃良勝/地頭:片山九郎右衞門
◆狂言〈呼聲〉 シテ(太郎冠者):山本則俊/アド(主人):山本則重/同(次郎冠者):山本則秀
◆能〈葛城 大和舞〉 シテ:馬野正基/ワキ:殿田謙吉/ワキツレ:御厨誠吾・森常太郎/アイ:山本則孝
/笛:藤田次郎/小鼓:龜井俊一/大鼓:原岡一之/太鼓:金春國和/地頭:観世銕之丞

近年安定して好調な山本順之の〈盛久〉は果たして名演で、この能を良い意味で「お芝居」として堪能させた先代銕之亟と、手法の点では対極にある佳さ。硬質な様式性に徹し切った美点を随所に具えていた。

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2011年3月13日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/30 宝生会企画公演

平成23年1月30 日(日)午後2時 宝生能楽堂
◆仕舞〈土車〉高橋章/同〈弱法師〉三川淳雄/同〈葵上〉寶生和英
◆舞囃子〈岩船〉 三川泉
笛:藤田朝太郎/小鼓:幸清次郎/大鼓:龜井忠雄/太鼓:金春國和/地頭:寶生和英
◆狂言〈佐渡狐〉 シテ(奏者):野村萬齋/アド(佐渡):深田博治/アド(越後):竹山悠樹
◆能〈三輪〉 シテ:今井泰男/ワキ:寶生閑/アイ:石田幸雄
/笛:藤田朝太郎/小鼓:幸清次郎/大鼓:龜井忠雄/太鼓:金春國和/地頭:三川泉

宝生会主催で近年始まったこの企画公演。昨年は三川泉の能〈弱法師〉と今井泰男の舞囃子〈羽衣 盤渉〉を軸に据えていた。長老次第に主演を任せる考えなのだろうが、今回の内容は貧しく、場内の空気もおそろしい停滞ぶりである。

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2011年3月 9日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/29 横浜能楽堂企画公演

平成23年1月29日(土)午後2時開演 横濱能樂堂 
◆狂言〈夷毘沙門〉 シテ(夷):山本則孝/アド(毘沙門):山本泰太郎/アド(舅):山本東次郎
/笛:竹市学/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:柿原弘和/太鼓:梶谷英樹/地頭:山本則俊
◆能 〈春日龍神 龍女之舞・町積〉 シテ:淺見眞州/前ツレ(宮守):武田友志/後ツレ(龍女):淺見慈一
/ワキ:森常好/ワキツレ:舘田善博・吉田裕一/アイ(末社の神):山本則重
/笛:竹市学/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:柿原弘和/太鼓:梶谷英樹/地頭:山本順之

「能・狂言に潜む中世人の精神」 と題する連続公演の第2回で、今回のテーマは神道。上演前に春日大社宮司・花山院弘匡氏の講演があった。

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2011年2月21日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/22 大槻能楽堂企画公演

平成23年1月22日(土)午後2時 大槻能楽堂
◆能〈木曾 願書・恐之舞〉 シテ:山本順之/ツレ(木曾):上野朝義/ツレ(池田):生一知哉
/ツレ(郎等):長山耕三・武富康之・山田薫・上田宜照・水田雄晤/地頭:大槻文蔵
/笛:野口亮/小鼓:久田舜一郎/大鼓:上野義雄
◆能〈巴〉 シテ:多久島利之/ワキ:福王知登/ワキツレ:是川正彦・喜多雅人
/アイ:茂山良暢/地頭:阿部信之/笛:貞光義明/小鼓:吉阪一郎/大鼓:守家由訓

「平家物語を観る」と題する連続公演の一環。大槻能楽堂の好企画で評判も良いらしい。能に先立って井沢元彦氏の講演があった。

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2011年1月29日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/21 国立能楽堂 狂言の会

平成23年1月21日(金) 午後6時半 国立能楽堂
◆狂言〈寶の槌〉 シテ:大藏彌太郎/アド(主):大藏基誠/アド(売り手):大藏千太郎(善竹十郎休演)
◆狂言〈栗焼〉 シテ:山本東次郎/アド:茂山良暢
◆素囃子〈大ベシ〉 笛:栗林祐輔/小鼓:田邊恭輔/大鼓:大倉慶乃助/太鼓:德田宗久
◆狂言〈鬼丸〉 シテ:石田幸雄/アド(僧・観音):野村萬齋/小アド(父):野村万作/地頭:深田博治
/笛:栗林祐輔/小鼓:田邊恭輔/大鼓:大倉慶乃助/太鼓:德田宗久

〈寶の槌〉シテの彌太郎は、いつものことながら声が詰まり気味で気の毒。明快さ第一の脇狂言ゆえその欠点はなおさらである。基誠は舞台に座して控えている時に眼を閉じている。それはまだしも、気まで抜けているのは要注意。なにせ、脇狂言である。徹頭徹尾、祝言の「気」が張り詰めていないでどうなるものでもない。

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2011年1月29日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/13 第53回 野村狂言座

平成23年1月13日(木)午後6時45分 寶生能樂堂
◆狂言〈文山賊〉 シテ:石田幸雄/アド:深田博治
◆素囃子〈神舞〉 笛:藤田貴泰/小鼓:森澤勇司/大鼓:大倉慶乃助/太鼓:大川典良
◆狂言〈麻生〉シテ:野村万作/アド:野村萬齋/小アド(源六):深田博治/小アド(烏帽子屋):竹山悠樹
/笛:藤田貴泰/小鼓:森澤勇司/大鼓:大倉慶乃助/太鼓:大川典良

白い花が供えられた亡き万之介の遺影を祀るロビーである。

勤務の都合で後半から観覧。はじめの〈筑紫奥〉と〈伯母ヶ酒〉は見られなっかたが 後者は末尾だけ覗く。シテ・野村遼太が伸び伸びと演じていて好感が持てた。大酒の酔態を勤めるにはいささか年齢不相応なのも、狂言ならではのご愛嬌である。

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2011年1月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/10 銕仙会1月定期公演

平成23年1月10日(月・祝)午後1時半 寶生能樂堂
◆〈翁〉 翁:觀世銕之丞/千歳:片山九郎右衛門/三番叟:野村萬齋/面箱:野村遼太
◆能〈嵐山 白頭〉 シテ:柴田稔/前ツレ:安藤貴康/後ツレ(子守) :馬野正基/ 後ツレ(勝手):浅見慈一
/ワキ:大日方寛 /ワキツレ:梅村昌功・野口琢弘/アイ:竹山悠樹
/笛 :一噌隆之/小鼓頭取:幸正昭/脇鼓:後藤嘉津幸・福井聡介/大鼓:柿原崇志/太鼓:助川治
/地頭:山本順之  
◆狂言〈筑紫奥〉 シテ: 野村万作/アド(筑紫):深田博治/小アド(丹波):石田幸雄
◆能〈小鍛冶〉 シテ:觀世淳夫/ワキ:寶生欣哉/ワキツレ:野口能弘/アイ:高野和憲
/笛:藤田次郎/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:龜井廣忠/太鼓:金春國和/地頭:觀世銕之丞

毎年吉例の銕之丞の翁に、九郎右衛門お披露目の意味も籠めて千歳を付き合う。

萬斎の〈三番叟〉がひときわ熱演である。

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2011年1月13日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/9 京都観世会1月例会

平成23年1月9日(日)午前10時半 京都觀世会館
◆〈翁〉 翁:観世清和/千歳:宮本茂樹/三番三:茂山良暢/面箱:島田洋海
◆能〈老松〉 シテ:片山清司改メ片山九郎右衛門/ツレ:河村博重
/ワキ:福王茂十郎/ワキツレ:廣谷和夫・森本幸治/アイ:茂山千三郎
/笛:森田保美/小鼓頭取:林吉兵衛/脇鼓:林大輝・林大和/大鼓:河村大/太鼓:小寺佐七
/地頭:井上裕久
◆狂言〈佐渡狐〉 シテ(佐渡):茂山七五三/アド(奏者):茂山千五郎/アド(越後):茂山あきら
◆能〈羽衣 彩色之傳〉 シテ:杉浦豐彦/ワキ:福王和幸/ワキツレ:永留浩史・中村宜成
/笛:杉市和/小鼓:曾和博朗/大鼓:石井保彦(石井喜彦休演)/太鼓:前川光長/地頭:林喜右衛門
◆能〈岩船〉 シテ:河村和貴/ワキ:小林努/ワキツレ:有松遼一・岡充
/笛:左鴻泰弘/小鼓:伊吹吉博/大鼓:井林久登/太鼓:井上敬介/地頭:味方玄

最初に強く述べておきたいのは、「翁付脇能の開曲に音取置鼓を奏せず、礼ワキの所作を欠くのは非法である」という大原則である。この日の〈老松〉は、その「非法」に拠った。

いささか事情を察しもするが、やはり、舞台に接するに理想をもってしなければ、批評者としては藝能の真価に対して申し訳が立たない。

これについては専門的な知識が前提となるので、翁付脇能とその意義について、ひとこと述べることにしたい。以下の記述の多くは、能をよく知る人にとって不要の贅言であろうから、適宜、お読み飛ばしを願う。

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2011年1月12日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/8 梅若会定式能

平成23年1月8日(土)午後1時 梅若能樂學院會館
◆〈翁 弓矢立合〉 翁:梅若玄祥・梅若長左衛門・梅若紀彰
/千歳:山崎友正/三番三:山本則孝/面箱:山本凛太郎
◆能〈鶴龜〉 シテ:梅若玄祥/ツレ(鶴) :梅若紀彰/ツレ(龜): 梅若長左衛門
/ワキ:森常好/ワキツレ:舘田善博・森常太郎/アイ:山本則秀
笛:一噌隆之/小鼓頭取:曾和正博/脇鼓:曾和伊喜夫・曾和尚靖/大鼓:龜井廣忠/太鼓:小寺眞佐人/地頭:松山隆雄
◆狂言〈舟船〉 太郎冠者:山本則秀/主:山本則孝
◆能〈野守〉 シテ:川口晃平/ワキ:高井松男/アイ:山本凛太郎
/笛:槻宅聡/小鼓:觀世新九郎/大鼓:安福光雄/太鼓:梶谷英樹/地頭:山崎正道

旧臘に追善を兼ねた舞囃子の会で披露目があった梅若紀彰と梅若長左衛門の襲名を、三人翁と脇能(脇狂言は省略)で本格的に公示という趣向である。

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2011年1月 9日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/4 大槻能楽堂自主公演能 新春能2日目

平成23年1月4日(火)午後2時 大槻能楽堂
◆〈翁〉 翁:友枝昭世/三番三:山本東次郎/千歳:山本則秀
/笛:藤田六郎兵衛/小鼓頭取:大倉源次郎/脇鼓:清水晧祐・荒木健作/大鼓:山本哲也
/地頭:粟谷能夫
◆狂言〈鐘の音〉 太郎冠者:山本則俊/主:山本則重/仲裁人:山本則秀
◆能〈羽衣 彩色之傳〉 シテ:片山幽雪/ワキ:福王茂十郎/ワキツレ:福王知登・喜多雅人
/笛:杉市和/小鼓:曾和博朗/大鼓:山本孝/太鼓:三島元太郎/地頭:大槻文藏

民俗を感じさせる喜之の〈翁〉に比べ、技藝を見せる友枝の〈翁〉(大夫は喜多通例の熨斗目小格子厚板ではなく白練の着付)。これは山本家の謹直な好助演の印象によるところ大で、鈴ノ段に掛かるところで小鼓頭取の打ち出しをキチンと聞き納めておいて、三番三と千歳とがクルリ左右に分かれる緊密な呼吸は、茂山家には薬にしたくもない。もっとも、東次郎は鈴ノ段でフラつき老いの影が差した。
※2011/1/9訂正。

〈三井寺〉能力アイを演じさせては当代一の則俊。この美声あっての名鐘である。もっとも、山本家の台本では最初に主が正しく「附け金の値を聞いて来い」と命じているのに、太郎冠者が勝手に「撞き鐘の音を聞く」と誤解してしまう。したがって、最後の反論「附け金なら附け金と、初めから言えば良い」が太郎冠者の言い掛かりに聞こえる欠点がある。改訂できないものだろうか。

幽雪の〈羽衣〉は昨年の〈定家〉に続く好演。序ノ舞の最初で高めに左右する型の美しさなど、基本的な所作に晴れやかな張りがあって、しかも余計な芝居をしない生一本の舞台である。天冠に櫻を立てたのは、泣増を着けても温かみのあるこの人らしい。もっとも、この曲の仏教的寓意からすれば、やはり白蓮が至当だろう。流水に花々を縫い取った華麗な紅地腰巻、薄色で枝垂櫻をあしらった白地長絹が美しい。大槻文藏が地頭を勤めた明朗な地謡共々、万事に麗かな晴天を仰ぐようなめでたい〈羽衣〉である。

2011年1月 6日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2011/1/3 大槻能楽堂自主公演能 新春能1日目

平成23年1月3日(月)午後2時 大槻能楽堂
◆〈翁〉 翁:観世喜之/千歳:井内政徳/三番三:茂山七五三/面箱:茂山逸平
/笛:赤井啓三/小鼓頭取:荒木賀光/脇鼓:荒木健作・吉阪一郎/大鼓:河村大/地頭:長山禮三郎
◆狂言〈宝の槌〉 果報者:茂山あきら/太郎冠者:茂山童司/すっぱ:丸石やすし
◆能〈唐船 干之掛應答〉 シテ:大槻文藏/ワキ:福王和幸
/子方(唐子):赤松裕一・浦田親良/子方(日本子):寺澤拓海・武富晶太郎
/アイ(太刀持):松本薫/アイ(船頭):茂山千三郎
/笛:藤田六郎兵衛/小鼓:清水晧祐/大鼓:辻芳昭/太鼓:上田悟/地頭:多久島利之

喜之は昨年4月、〈關寺小町〉を勤めた。凡庸な藝風の喜之だが、百歳の小町は良いものだった。この人の歩いてきた道が見える能になっていたし、そうでなければ〈關寺〉など何の意味もない。
藝で評価できない〈翁〉も、そういう目で見なければならない。もっとも、常に温厚平静に思える喜之とはいえ、挙措進退に思いがけぬ果断なキレを示し、無表情の奥処に燃え残る焔を見た気がしたのは面白かった。

休憩を挟んで〈宝の槌〉。表情の味付けと声の大きさを除けば、内実は何もないようなものだが、関西ではこれが常なのだろう。あきらは仕事のない時に身体と表情がすっかり素である。華やぎのある童司、この程度の表現意慾で納まっているのは勿体ない。

〈唐船〉は何よりも文藏の謡の巧さ。もっとも、説明的な表情は付けていない。「牛馬をあつかひ草刈笛の」で内心の屈託を、「九牛が一毛よ」と謡い捨てて秘かな誇りを、それぞれサラリと思いがけず示すのは、よほど謡の力のある証左である。動きの随所に細心の注意があり、儀理能の本道を行く情味に溢れた好演。合掌の手を下に構えて大陸風に拱く(たんだく=胸前で手を合わせ拝む)のも面白い。
日本子(寺澤拓海・武富晶太郎)と掛け合いのロンギは引キなどを教え込むのが難しいが、子方はよく覚えて感心。樂の前の地謡の間に物着。尉髪につけた頭巾状の飾布を取り、髪を後ろに放って小型の透冠を頂き、水衣の上に布縁の裲襠を着、間狂言の船頭から唐団扇を渡されて船中の盤渉樂を舞う。
小書「干之掛應答」は樂のカカリ冒頭1クサリに干ノ手を吹くだけのことである(笛:藤田六郎兵衛)。キリは緩急が付き、グッと締まってから「船には舞の袖の羽風も追風とやならん」で小鼓と太鼓がナガシを打ったのが効果的。

2011年1月 6日 | 能・狂言批評 | 記事URL

2010/12/27 平成22年の能・狂言をふりかえる

多くの人がそうだと思うが、ひとたび見聞きした舞台であれば、たとえどれだけ年月が経っても、その内容は何かしら覚えているものである。が、単に記憶としてではなく、いつまでも「心に残る」となれば並たいていではない。したがって、一年の終わりに当たって、そうした舞台の一つひとつを選り出してみることは、自らをも省みる意味でまことに興味ある作業。能・狂言を愛するみなさんに、この際ぜひお勧めしたいと思う。
さて、私にとって今年は、何だろう?

①能〈胡蝶〉三川泉/1月10日/宝生会月並能(宝生能楽堂)
②素狂言〈武悪〉茂山千作・千之丞・山本東次郎/2月24日/第5回千作・千之丞の会(国立能楽堂)
③能〈松風 見留〉山本順之/10月8日/銕仙会定期公演(宝生能楽堂)
④狂言〈川上〉野村万作/10月17日/能を知る会東京公演(国立能楽堂)
⑤能〈定家〉片山幽雪/11月21日/豊田市能楽堂特別公演

まず、これらが私にとって今年の「五傑」ということになる。番号は日時順であり、等級ではない。勢い70代以上、長老連の舞台が並んだ。これまた、この世界の現状と問題を照射した結果になってもいる。

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2010年12月27日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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