2011/1/11 野村万之介逝去 | 好雪録

2011/1/11 野村万之介逝去

先刻、野村万之介逝去の報が公になった。

旧臘25日に世を去っていたものを、歳末年始の言忌みを避け、松が取れて一息置いてからおもむろに公表とは、いかにも藝人の仁義に叶った作法。
まことにゆかしいことだと感服した。

「能・狂言の役者の次男は損」とよく言われるが、ましてや三男においてをや、である。
万之介は五男だが、狂言師としては兄2人に次ぐ3番目。
その立ち位置の模索に、前半生は費やされたのではなかろうか。
同じく三男である山本則俊が大番頭的な手腕を揮い、山本家の雑事調整役を勤めているのに比べて、どうやら万之介はそうしたタイプでもなかったらしい。
25年ほど前、善竹十郎と故人山本則直との三人会「新の会」を何度か見たことがある。
万之介は当時40代後半。自らの藝について、まとまらない思いを巡らせていた最中だっただろう。

万之介の存在がクローズアップされたのは、疑いもなく1994年、萬と万作の兄弟が袂を分かった時である。与太話に類する笑話だが、「戦時中の空襲下、萬は一目散に防空壕に駆けて行ったが、万作はわざわざ手を引いて逃げてくれた。その恩義に感じ、万之介は次兄に就いたのだ」。
その真偽はともあれ、万之介は万作と行動を共にした。

これは万作家にとって、実に大きいことだったと思う。

当時、深田、高野など子飼いの弟子はまだ頼れず、武司改め萬斎のほかに石田幸雄しか有力な手駒のなかった万作家である。弟ながら老成した雰囲気のある万之介は、万作より年長役に据えてピッタリの人材だった。

この、まさに所を得たことによって、万之介に本当の自信がついたように見えた。

それまでどこか偏狭な、自尊心が高そうな割に卑屈な藝風が、いつの間にか変わり、
飄々として拘らず、それでいて蔭でペロリ舌を出していそうな、憎めない役者に大成した。
私は近年、万之介が舞台に出てくるのを内心楽しみにしていたものである。

〈昆布賣〉の大名で、あの塩辛声を張り上げ、しかもどこか嬉しそうに、「昆布売れ!」とガナリ立てる堪らないおかしさ。
〈咲嘩〉の太郎冠者で、主人よりもスッパの咲嘩のほうに親近感があるかの如く、ドウと胡坐をかいて親しげに話し込む人間味。
中でも傑作は、中島敦〈名人傳〉の甘蠅老師である。
萬斎の演出方針を知ってか知らずか、本当の弓の名人なのやら実は喰わせ者やら、何だか訳の分からない存在感で周囲を煙に巻いて恬としていた役者ぶりは、天晴、野村万之介一代の名演技だった。
そのほか、数多くの万之介の舞台姿が、いま私の胸中に去来している。

昨年11月15日、藤田大五郎三回忌の追善会で三兄弟出演の〈棒縛〉があった。
兄弟別れをして以来、萬と万作の共演は何度か見られたものの、3人一緒の舞台は実に16年ぶりだったと思う。

万之介はそのあと、1ヶ月少しで世を去った。

思えば少し早すぎた最期を前に、苦楽を共にした兄弟3人で同じ舞台が踏めた万之介は、どれほど幸福だっただろう。
残った兄2人にしても、それは同じ思いではないだろうか。

2011年1月11日 | 記事URL

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