批評

2014/6/14 青山円劇カウンシルファイナル〈赤鬼〉

青山円劇カウンシルファイナル 〈赤鬼〉
2014年6月4日(水)~15日(日)  こどもの城・青山円形劇場
◆作:野田秀樹/演出:中屋敷法仁
◆出演: 黒木華(あの女)/柄本時生(とんび)/玉置玲央(水銀)/小野寺修二(赤鬼)
◆主催: こどもの城・青山円形劇場/ネルケプランニング

学生演劇の演目になっているので野田戯曲の中で最も上演頻度が高いのではないかと思われる〈赤鬼〉を、中屋敷法仁が演出する好企画。
「ファイナル」と銘打ち、閉場予定の青山円形劇場の空間を活かす舞台は新鮮。やりようによっては手垢の付いた感を免れないこの優れた寓話劇の再生に成功した。

【作品紹介】
1996年初演。富田靖子、段田安則、野田秀樹の3名の日本人俳優と、赤鬼役に、ロンドンよりアンガス・バーネットを迎え、4名の俳優にて上演。人種間における差別という普遍的なテーマを、巧みな言葉と軽快なテンポで痛快に描き出す同作品は、大きな話題を呼ぶ。
その後2004年に、タイ版、ロンドン版、日本版の3バージョンにて上演。現地でのワークショップを経て創作された、タイ、ロンドンバージョンでは"赤鬼"役を野田秀樹自身が演じ、再び大きな注目を集める。
同作品にて、第4回朝日舞台芸術賞、第12回読売演劇大賞演出家賞、作品賞を受賞。
【ストーリー】
ある日、村の砂浜に肌の色も言語も違う異人が打ち上げられる。
村人はそれを「赤鬼」と呼び、村八分にされている「あの女」が呼び寄せたという偽りの噂が広まる。赤鬼は人を喰うと誤解され、村人に迫害されたあげく処刑されることが決定する。あの女は徐々に赤鬼と心を通わせ、赤鬼が人でなく花を食べること、理想の地を求めて浜にやってきたことを知り、白痴の兄「とんび」、嘘つきの「ミズカネ」と共に、赤鬼を救出しようとするが......。

今回公演のHPに記載されている上記のデータに詳細は尽くされている。
段田安則と野田秀樹は言わずと知れた「夢の遊眠社」時代の名コンビであり、初演は藝達者な2人の緊密なコントラストで見せたもの。ただ、そうした「あて書き」性を超えたところにこの作品の普遍性があるので、学生演劇に適するのもその点だろうが、だからこそ、「ただなぞるだけ」で一応の達成感を得てしまいかねないところに〈赤鬼〉上演の難しさがある。
「作者に勝る問い掛け、異議申し立ての力が、演出家に求められる」ということである。

入場すると舞台には円形の装置。外枠に斜めの円環、その中に食い違うような円盤。
ゆったりと衣装をまとった若い俳優が入れ違えに舞台に上っては歩み、去る、繰り返し。
ただ素のまま歩くのではなく、裸足の足づかいが舞台を舐めるような、体幹に芯を持たせながら外面を脱力させたような、その身体がだんだん煮詰まって、いつしか開幕する趣向。
この3人の「アンサンブル」(竹内英明・傳川光留・寺内淳志)がダンス的なパフォーマンスを伴って全体に絡む。
これは優れた着想である。
「振付」としては赤鬼役・小野寺修二の名がクレジットされている。アンサンブルは「演ずるコロス」的に全体にわたって登場するから振付量は膨大であり、手順も精緻。村人たちの群集場面はもとより最後に船出して嵐に巻き込まれるさままでもアンサンブルの身体表現で示すのである。
先日の〈世迷言〉しかり、中屋敷演出は一種の「空間恐怖症」に近い饒舌な文法が特徴。アンサンブルが終始現われて主役4人を取り巻くのもその「文法」に合致している。もっとも、そうした「文法」はそれ自体が目的化しかねない危険を孕む。が、今回は先人の作品に敬意を表したからか自己の方法を対象化した視線が強く出、「空間恐怖症」的な盛り沢山の仕掛けの中から戯曲の構造が明晰に立ち顕われた。

問題は、これまでは「異国人俳優」という配役で表現されてきた「赤鬼」が、オール日本人キャストの中でどう位置づけられていたか、である。
プログラムには、若手20代3人の中に47歳の小野寺を配することにより「世代間の違いと、すぐ線を引いて差別してしまう僕ら(村上注:「僕ら」=中屋敷自身を指す)の残酷さを描きたい」とある。
確かにそうした世代間のギャップというのはあって、これもプログラムの柄本時生の言葉に「20年前の戯曲ですよね。アングラというものですよね?」と云々。いくら「野田さんの作品を拝見したことはありません」といっても「アングラ」じゃねえだろう......と突っ込みたくなったものだが、これも「世代間のギャップ」の一例かもしれない。
ただ、私が見たところ、黒木、柄本、玉置に囲まれた小野寺が必ずしも違和感をもって孤立していたようには見えず、役者として、存在そのものとして、「赤鬼」と他の3人の同質性をむしろ強く感じた。
これは人それぞれ受け取り方だと思うが、今回の「赤鬼」は客観的には他の3人と隔たらず、「『差別』や『異化』は当事者間の閉じられた思念に過ぎない」という内的な表象として寓意されていたように、私には思われる。

海外にいればよくあることに、私が日本人であって中国人でもベトナム人でもないことを、欧米人たちはほとんど認識しない。「黄色人種」とひとからげに思われることが多いのは、われわれも白人を見てアメリカ人かフランス人か見た目で区別できないのと同様である。
だが、日本人としての私は、同じ東洋人でも中国人や韓国人はパッと見た目で直感的に「分かる」。
「差別」や「違和」というものは、それほど閉じられた感覚でもあるのである。

淡々たる小野寺の演技は異形の怪物とはほど遠い。やがては水銀によって食物にされてしまう結末が用意されてはいても、水銀とコトバが通じ合った刹那は「同類の生き物」として障壁は溶解してしまう態の同質性を持っている。
中屋敷演出の面白さは、このように「赤鬼」を突出して排除される役柄とはせず他の3人と均質化させることによって、逆に思念としての「差別」のあいまいさを焙り出す点にあったのではないだろうか。
主役4人の演技の隙間を埋め尽くす優れた身体技をもったアンサンブルの用い方も、そうした均質化を担って効果的だったし、説明的で単純な対立構造的解釈からこの戯曲を救い出す意味もあったように思う。

ただ、それだからこそ、「中屋敷にとって差別とは、異化とは何か?」ということが問われよう。今回その点、観客にゆだねることによって「演出家の眼」が後退した感は残る。これは役者の個性とも絡む問題であるけれども、メッセージ性の強い劇作品に臨む際に細部の芝居作りに砕身すればするだけ演出家の「哲理」が影を潜めてしまう危険はある。様式を志向する演出家にはことにその傾向が強い。まだ2作しか彼の仕事を見ていない私の指摘が当たっているかどうか分からないが、中屋敷にとって一考に値することではなかろうか。

若手3人みな藝の背丈が揃って好ましい。
「あの女」の喪失感を出すには黒木華はまだちょっと若い気もするが、女優の個性と世代によっていろいろな「あの女」像があっても良いだろう。
柄本時生は怪優に成長する可能性大。とぼけて不気味で、どこか残虐味が潜む役者ぶりは大したものだ。
玉置玲央はこれまでの水銀役者の中でもっとも「嘘つきの嫌味」のない水銀かもしれない。この役にはあまり求められない、少年性を秘めた華やぎが大きな魅力だ。それだけに、「あの女」への純愛感覚が出過ぎて芝居が水っぽいものに傾く危険もなくはない。

アンサンブル3人みな好演。中でも傳川光留のしなやかな色気が印象的だった。

それにしても、この劇場の良さを改めて思う。
絶叫芝居にならなかったのは、素でつぶやいても耳に届く客席と舞台の一体感があるからで、なかなかこうした小屋はない。帝国劇場のように建築後そろそろ50年にもなろうというのに建て替えられない劇場がある反面、まだ耐用年数も満ちていないのに「ファイナル」とは、もったいないことをするものである。
所轄官庁の厚生労働省は戦前の内務省だから一筋縄で行かぬ官庁の筆頭だが、廃止・取り壊し反対運動の動向に今後も注目したいと思う。

2014年6月14日 | その他批評 | 記事URL

2014/2/4 「柿喰う客」 新作本公演〈世迷言〉

「柿喰う客」 新作本公演〈世迷言〉
作・演出:中屋敷法仁
出演(主なる扮役):七味まゆ味(帝)/玉置玲央(猿使い)/深谷由梨香(帝の妹)/永島敬三(婆)/大村わたる(猿と帝の妹の倅)/葉丸あすか(天)/鉢嶺杏奈(かぐや姫)/橋本淳(猿の皇子)/富岡晃一郎(爺)/篠井英介(かぐや姫の母の鬼)

なかやしき・のりひと。高校演劇の盛んな青森で偉才を顕し、渡辺源四郎商店を主宰する雄渾な劇作家・畑澤聖悟に師事。〈贋作マクベス〉で注目され、上京して平田オリザのいる桜美林大学文学部総合文化学科演劇コースを卒業。2004年に劇団「柿喰う客」を旗揚げし今に到る......とあれば、若手演劇人として望み得る最良の「修養」を経て、実に面白そうな劇作家であり演出家だと思っていた。

私は彼の仕事は今回が初見。
従って、過去の作風や演劇的ポリシーは知らぬまま、簡単な感想を記してみたい。

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2014年2月 4日 | その他批評 | 記事URL

2012/12/17 Bunkamuraシアターコクーン 〈祈りと怪物~ウィルヴィルの三姉妹〉KERAバージョン

2012年12月17日(月)午後6時  Bunkamura シアターコクーン 
〈祈りと怪物~ウィルヴィルの三姉妹〉KERAバージョン
◆作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)/音楽:パスカルズ
◆【出演】ドン・ガラス:生瀬勝久/トビーアス:小出恵介/ヤン(流れ者)丸山智己/マチケ(ガラスの三女):安倍なつみ/パキオテ(白痴):大倉孝二/テン(ガラスの次女):緒川たまき/ヤルゲン(執事長):大鷹明良/アリスト:マギー/パブロ:近藤公園/レティーシャ(ローケの娘):夏帆/ローケ(仕立屋):三上市朗/コロス長:久保酎吉/エレミヤ(ガラスの妻):峯村リエ/メメ(メイド長):犬山イヌコ/ダンダブール(錬金術師):山西惇/ペラーヨ:池田成志/バララ(ガラスの長女):久世星佳/ジャムジャムジーラ(ガラスの母)+ドンドンダーラ(トビーアスの祖母):木野花/グンナル(司祭):西岡徳馬/コロス:原金太郎・楠見薫・加藤弓美子・野中隆光・日比大介・皆戸麻衣・猪俣三四郎・水野小論・中林舞 
※以上、出演者全員が香盤によってコロスなど他役も兼ねる。

この公演は「シアターコクーン・オンレパートリー+キューブ2012」と銘打つもの。今月は「KERAバージョン」で、自称「三姉妹モノの名手」(←宣伝惹句である)ケラリーノ・サンドロヴィッチ(=KERA)自身の作・演出。来月は同脚本で蜷川幸雄演出版の競演。Bunkamuraならではの穿った、面白い企画だ。

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2013年1月 1日 | その他批評 | 記事URL

2012/9/18 騒音歌舞伎 〈ボクの四谷怪談〉  橋本治×蜷川幸雄 Bunkamuraシアターコクーン 

2012年9月18日(火)午後6時30分  Bunkamura シアターコクーン 騒音歌舞伎〈ボクの四谷怪談〉
◆脚本・作詞:橋本治/演出:蜷川幸雄/音楽:鈴木慶一
◆民谷伊右衛門:佐藤隆太/佐藤与茂七:小出恵介/直助権兵衛:勝地涼/お袖:栗山千明/次郎吉:三浦涼介/お梅:谷村美月/お岩:尾上松也/お熊:麻美れい/伊藤喜兵衛:勝村政信/四谷左門・男B:瑳川哲朗/仏野孫兵衛:青山達三/小仏小兵衛の母:梅沢昌代/老女A:市川夏江/宅悦:大石継太/第二のお岩:明星真由美/お色:峯村リエ/お花:新谷真弓/法乗院の所化:清家栄一/男A:塚本幸男/男C:新川將人/女子大生B:佐藤あい/奥田庄三郎:隼太/藤八:松田慎也/女子大生A:周本絵梨香/工事人夫:内田健司

「お芝居」というものは、プロットがあり、そこに人物相互が入り乱れ、見終わったときにはなにがしかの手応えが「コトバ」として残るものではなかろうか?

「コトバにならない感動的な演劇」と言うけれども、私はそうしたことを信用しない。

だって、演劇とは戯曲の舞台化であり、戯曲とはコトバによって織りなされたものだ。
これを見て取る私たちも、やはりそれぞれがそれぞれのコトバのかたちで「感動」の本質を確認する。
これが「芝居を見る」ということではないのか?
つまり、机上の戯曲であっても、舞台上の演劇作品であっても、読み取り、見取るわれわれは、コトバによって「それがいかなるものか」を確認しないわけにはゆかない。

芝居のテーマ・演劇の主題というものは、作者によって書き現わされるものであると考える人があろう。入試問題に出る「作者の意図を答えよ」というヤツだ。
だが、テーマ・主題というものは、作者や演出家や役者の側にあるものでは、実はない。
読者によって読まれない戯曲、観客によって見られない演劇、そんなもがないのと一緒だ。
したがって、戯曲や舞台(すなわち作者や演出家や役者たち)と格闘した観客によって自らのうちに刻印される抜き差しならないコトバこそ、真の芝居のテーマ・演劇の主題のはずである。
つまり、芝居とは、演劇とは、常に「解読されることを待っているもの」である。
そうした「内なるコトバ」をけざやかに呼び覚ましてくれるものが、私にとって優れた、感動的な演劇作品だ。

この考え、間違っているだろうか?

今さらこんなことを考えてしまったのは、〈ボクの四谷怪談〉という作品には「劇」が不在。「劇的状況」だけがただただ盛り上がって終わっただけだったから。
主題だのテーマだの、そんな観客のコトバを封ずるところから始まり、終わった舞台だ。

ただもう無意味に盛り上がるだけ盛り上がる、その過剰な虚しさが作者と演出家の「意図」だったとすれば、われわれにとって演劇とは、いったい何であるというのだろうか?

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2012年9月18日 | その他批評 | 記事URL

2012年9月の能・狂言

2012年9月14日(金) 午後6時 銕仙会9月定期公演 宝生能楽堂
◆能〈夕顔 山ノ端之出・法味之傳〉
シテ:野村四郎/ワキ:宝生閑/ワキツレ:宝生欣哉・野口琢弘/アイ:石田幸雄/笛:一噌仙幸/小鼓:大倉源次郎/大鼓:亀井忠雄/地頭:観世銕之丞
◆狂言〈重喜〉
シテ(住持):野村萬斎/アド(重喜)野村裕基/地頭:深田博治
◆能〈龍虎〉
シテ(尉・虎):浅見慈一/ツレ(樵・龍):長山桂三/ワキ:御厨誠吾/ワキツレ:大日方寛・野口能弘/アイ:竹山悠樹/笛:槻宅聡/小鼓:鳥山直也/大鼓:佃良勝/太鼓:小寺佐七/地頭:柴田稔

野村四郎の〈夕顔〉が素敵な出来ばえだ。

初めに触れておくと、前場で夕顔の花蔓がひそやかに絡んだ藁屋の作リ物にシテが入って出、「山の端の心もしらで」と囃子ナシに謡い出す「山ノ端之出」と、後場で序ノ舞が抜けて一クサリの習ノ手(〈道成寺〉のシテの出や〈定家〉〈檜垣〉で舞の前に入る手と同じ)の間にワキの合掌を受けてシテも下に居て合掌する「法味之傳」が併演されると、大幅に時間が短縮されるばかりでなくドラマ性が煮詰められ、結果的に〈夕顔〉という能の格調と内容が格段に高く深くなる。
あらゆる小書の中で最も優れた部類に属するものがこの2つである。

それだけに、役者の存在感が突出しなくては演出に打ち勝てないし、さなきだに仕どころの少ないこの能から舞が抜けることによって「表現」はさらに制限されるわけだから、地謡と囃子の責務が増し、シテは「せぬならでは手立てあるまじ」ということになる。

四郎の〈夕顔〉が優れているのは、後場でワキと合掌した豊かさや、キリ「明けわたる横雲の」で左袖を返し正先から脇座に寄った上を見た型の美しさもさることながら、謡い込んで無駄が一切なくなった声の質感、舞台の空気と同化するような自然なたたずまい、そうした根源的なところから発する結果である。
こうした舞台を見ていると、能役者は食器。能作品は料理。逆ではない。
どんな料理を盛り付けてもそれを包み込み、おいしさを十全に際立たせながら料理を追い越すことがないのが理想。優れた食器ならば大抵の料理は受け付ける。また、料理を盛り付けた時のほうが何も載せない時よりも生き生きと映えるものだ。

この譬えで言うならば、四郎の声と身体はアンティークの銀器のようだった。
良く見ると細かな瑕があり、時代相応の使用感が伴う。
が、念を入れて磨き込まれ、それが美観となればあえて黒ずみを残したまま、客前に出される貴重な銀器。
扇を持つ手の震えが目立ち、唐織姿で下居する前場はちょっとつらそうだったが、確かに「瑕」でこそあれ、これらを「欠点」として排除する必要はまったくない。
つまり、「瑕」も含めた総体がアンティークの価値なので、食器の宿命が「鑑賞されるものでなく使われるもの」である以上、時を重ねる中で必然的につく「瑕」は歴史の証拠で価値の一部。瑕のない銀器はあり得ない。
もちろんこれは、「罅の入った骨董品」というのとは全然、別の問題だ。

面は前後とも銕仙会名物、大和の相生増。孫次郎風の、〈夕顔〉には最適の名作。
装束は、前シテが薄朱とクリーム色の段に秋草を織った唐織。後シテが薄い古代紫地に地味な色彩で色々の朝顔と金の撫子を織り出した長絹(露は薄朱)、褪色してほとんど白に近い水浅黄の時代大口。理想的な取り合わせである。

この日の地謡は、先日の銕之丞初演〈姨捨〉(地頭:浅井文義)のように細部に巧み過ぎて根本が脆弱な感が後退し、今後に些か期待できた。地頭の銕之丞は抑えた謡い口で周到に全曲を通し、副地頭の浅井文義と共通の世界観を示すことができたようだ。
もっとも、全体に戦戦兢兢といった感は否めない。こうした能には最高度の地謡が求められる以上、全霊を挙げて謡いながらも乱雑に流れず、引き締め、削ぎ落とす理想の追求を今後も続けてほしい。
囃子はやはり仙幸の笛と亀井の大鼓が聴きものである。ことに亀井忠雄。
余談ながら、病気療養の柿原崇志がことによると年内休養らしい。そうなると、大曲の大鼓の最適手となれば亀井忠雄しかいないわけで、これはちょっと恐ろしいことである。

萬斎親子の出演のためか、この日は完売。地謡までも出る割に他愛はない演目だから、大曲めかさずサッパリと終わり、楽しかった。

祐基は嫌味がなく素直だが、ちょっと暗く、覇気に欠けるようだ。
萬斎が演ずる住持は、本編よりも解説のほうが面白い映画を見せられている気にならない訳でもない。

〈龍虎〉の能を説明する際に、決まり文句のように「唐絵の画題から発想された絵解き」だと言われる。 要するに、「絵を見せるように、いかにもそれらしい唐土の物語と龍虎の闘諍を見せる能」ということだが、これは言い換えれば、表現のための表現、演出のための演出、ということに落ち着いて、そこには本質的な意味でのドラマは存在しない。


たとえば、〈鷺〉や〈猩々〉はただ鳥獣・妖精の物真似を見せる能ではない。そうだと思っている人がいたら、それは能というものをまったく分かっていない人である。
〈石橋〉の獅子だってそうである。
想像上の猛獣の「物真似」をただ技術力をもって演ずるだけでは、〈石橋〉ではない。獅子は文殊菩薩の顕現であり、いわば「仏法そのもの」である。
「獅子」を舞い、囃すことは、完璧な気力と技術力で突き抜けたところにある種の精神性を漲らせることにあるので、それが叶わない能役者の〈石橋〉は本当は落第である。

だが、〈龍虎〉にそんな「内容」はない。

前場はただの中国旅行案内(しかもどことも知れぬ架空の場所)。
後場の虎も龍も、精神や思想の象徴とまで書き込まれている訳ではない。

だから私は、〈龍虎〉を見るたびに、実に虚しい気持ちになる。
善く演じられても、ただそれだけのことである。

ともあれ、そんなことを愚痴にしてもしかたがない。
こうした無内容の虚しい能なればこそ技術的には完全にこなす必要がある、とは、一種の逆説だろう。

慈一は前シテの下居姿が良くなった。地藝が上がった証拠だ。
ただし、桂三ともども後場になると面がゆがんだり(頭や虎戴・龍戴の重さの上にカヅキを被くので大変ではある)、身体の軸がズレることがある。
齢を重ねて瑕が欠点にならなくなった四郎の〈夕顔〉とは違い、後場で激しく動く〈龍虎〉ではちょっとの瑕も目立つのである。

これも譬えで言えば、使用して味の深まる銀器ではなく、〈龍虎〉は床の間に据えたり棚に置いたりして鑑賞する精巧な七宝焼の装飾壺のようなものだ。花も活けず手にも触れず、ただ眺めるだけが目的の美術品。
能とはほんとうは、そんなものではないと思う。
だから私は、〈龍虎〉が好きではない。

もしも、技術力だけでこの能をよく演じ納めるものの、他の何ものも感じさせない能役者がいたとしたら、それはそれで「そんな役者に〈井筒〉や〈砧〉が舞えるのか......?」との疑念を抱くに相違ない。
もっとも、〈龍虎〉を完全に演じきる技術力そのものは、他の能にも応用必須ではあるが。

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2012年9月17日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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