批評

2012/12/17 Bunkamuraシアターコクーン 〈祈りと怪物~ウィルヴィルの三姉妹〉KERAバージョン

2012年12月17日(月)午後6時  Bunkamura シアターコクーン 
〈祈りと怪物~ウィルヴィルの三姉妹〉KERAバージョン
◆作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)/音楽:パスカルズ
◆【出演】ドン・ガラス:生瀬勝久/トビーアス:小出恵介/ヤン(流れ者)丸山智己/マチケ(ガラスの三女):安倍なつみ/パキオテ(白痴):大倉孝二/テン(ガラスの次女):緒川たまき/ヤルゲン(執事長):大鷹明良/アリスト:マギー/パブロ:近藤公園/レティーシャ(ローケの娘):夏帆/ローケ(仕立屋):三上市朗/コロス長:久保酎吉/エレミヤ(ガラスの妻):峯村リエ/メメ(メイド長):犬山イヌコ/ダンダブール(錬金術師):山西惇/ペラーヨ:池田成志/バララ(ガラスの長女):久世星佳/ジャムジャムジーラ(ガラスの母)+ドンドンダーラ(トビーアスの祖母):木野花/グンナル(司祭):西岡徳馬/コロス:原金太郎・楠見薫・加藤弓美子・野中隆光・日比大介・皆戸麻衣・猪俣三四郎・水野小論・中林舞 
※以上、出演者全員が香盤によってコロスなど他役も兼ねる。

この公演は「シアターコクーン・オンレパートリー+キューブ2012」と銘打つもの。今月は「KERAバージョン」で、自称「三姉妹モノの名手」(←宣伝惹句である)ケラリーノ・サンドロヴィッチ(=KERA)自身の作・演出。来月は同脚本で蜷川幸雄演出版の競演。Bunkamuraならではの穿った、面白い企画だ。

公演HPにKERAのコトバが掲載されている。参考になるので転載しておこう。

★〈祈りと怪物~ウィルヴィルの三姉妹~〉メモ
いつの時代も、世界中の至るところで「祈り」が捧げられている。
その前には、あたかも試練であるかのように、何か大きな力が立ち塞がる......。
「もしも、ガルシア・マルケスが『カラマーゾフの兄弟』のような物語を、姉妹に置き換えて書いたら?」というのが、発想のきっかけだった。
まあ、どうせ出来上がる台本はてんで違うモノになるに決まっているのだけれど。
ブラック・ファンタジーだ、マジック・リアリズムだ、と色々な言葉で説明してきたが、平たく言えば、大人のお伽噺である。
お伽噺だから、あたりまえに不可思議な出来事が起こる。そこに科学的根拠はなにもない。とは言え、描こうとしているのは、ディズニーランドのような幸福観とはおよそ無縁の世界なので御用心を。我々の現実と、きっとどこかで地続きの世界である。彼ら登場人物が祈らねばおられぬ気持ちで流す涙は、きっと我々と変わらぬ、ときに暖かく、ときに苦い涙だ。
とある架空の町に暮らす三姉妹。市長である彼女達の父親。そこに様々な人々が絡むに絡む、そんなお話。鉱物と話をする青年と彼の友人、空の鳥かごを手にした放浪の若者。
市長の百歳を超える母親と何十番目かの後妻、幼いわが子を失った使用人夫婦、曰くありげな執事長と若いメイド。錬金術を見世物に世界中を旅しているという紳士と白痴の助手、よからぬ企てを胸に日夜集う市民達、そして神の不在を確信した司祭......。
波瀾万丈、奇妙奇天烈な群像劇になるはずだ。拙作には珍しく、体温の高い芝居になるやも知れぬ。
観る人の数だけ答があるような舞台にしたい。背後に蠢く思惑や、直接語られることない事態の推移を、各自の脳内に立ち上げながら御覧頂ければ幸いである。
できるなら、続けて上演される蜷川バージョンと両方ご覧になり、比較して楽しんでもらいたい。演出家の自分が「負けるものか」と力む一方で、劇作家としての自分は「演出家が変わるぐらいで揺らぐような、芯の細いものを書いたら失格だ」と肝に命じている次第。

まさに「大人のお伽噺」。さらに言えば「寓話劇」にさえ見えないことはない。主要人物は15人以上にも及び、誰に焦点を当てても色々な読み込みができる。。
上記とは別に、公演HPに別に記載された「あらすじ」は以下のとおりだ。

北回帰線と南回帰線の狭間にある架空の町に、祖母と二人で暮らす内気な青年。町を牛耳っているのは強欲で好色な町の権力者。彼の三人の娘は、それぞれに複雑な事情を抱え、やがて町を揺さぶる大事件に発展する......。 町の権力者の後妻と百歳を越える母親、子供を亡くした使用人夫婦、テロを企てる市民たち、怪しげな教会の司祭、謎の錬金術師と白痴の助手、そしてよその町からやってきた放浪の若者。幾多の登場人物が壮絶に絡み合う一大クロニクル。

タイトルロールである「ウィルヴィルの三姉妹」長女バララ、次女テン、三女マチケ(久世星佳、緒川たまき、安倍なつみ)と、その父ドン・ガラス(生瀬勝久)とは強固な紐帯で結ばれており、そこにはガラスの後妻エレミヤ(峯村リエ)や老母ジャムジャムジーラ(木野花)すら入り込めそうもない。ドン・ガラスは「強欲で好色な町の権力者」であり、被差別階級「ヒヨリ」を暴力と搾取の対象にしつつ、対外的な略奪・殺戮にも熱心で、その価値観は三人の娘も抵抗なく共有している。この芝居の世界観を画する、反対勢力さえその気力を失う独裁・恐怖政治は、前日の選挙結果と日本の将来を思い合わせるにつけ暗澹たる思念に結び付かざるを得ないのだが、芝居そのものは淡々と、「重さ」をあまり感じさせない手応えである。

一つには、ギリシア悲劇流のコロスを登場させ、随所で語らせるためもあろう。

主な人物はドン・ガラス以外ほとんどが悲惨に息絶える。だが、最も無残(パブロとレティーシャ)あるいは不思議な最期(三姉妹)を遂げる人物の場合、そのさまはコロスの語リで済まされるので、無残さの実感がない。高橋睦郎修辞〈王女メディア〉のクレオンとグラウケ惨死の語リは鬼気迫るものがあるけれど、それと異なり、この芝居では事件や感情がその場その場で明滅し、人物がいったん退場し事済むとドラマの流れも更新されてしまって、前段の重要性が半ば忘れられるためもあるだろう。舞台は教会堂前の小広場を主な場としているが、ギリシア悲劇と異なり、運命あるいは「神」の意思というものはレトリックとして用いられこそすれ、絶対的に意味あるものとして描かれていないし、そう機能もしていない。

途中10分間の休憩を2度挟んで4時間10分に及ぶ長大な作品である。登場人物=役者が適宜、芝居に参加し、適宜、退場してゆく、その反復を見ていると、これはチャットやゲームと同じではないか、というような気がしてきた。

たとえば、普通だと、誰にとっても「死」ほど大きな事件はない。
小出恵介のトビーアスは「祖母と二人で暮らす内気な青年」だが、彼はドン・ガラスに引き立てられてその「身内」(ガラスはマフィア的倫理で生きている)となり、一面では暴力も辞さぬ男に「成長」するものの、姉ジャムジャムジーラに対する80年来の怨みに燃えた粗暴な祖母ドンドンダーラ(木野花の二役)のために主家から装身具を盗み出し、ガラスに射殺されてしまう。その苦悶に満ちた最期の大芝居はひとつのクライマックスを形成しても、ドンドンダーラというのがまったくの異形の鬼女、孫の死後は気味の悪い虫と化して観客の乾いた笑いと共に再登場するのだから、「祖母のために斃れた健気な孫の哀れな死」はたちまち相対化され、トビーアスの一生までがまったく報われない舞台上の一コマとして流れ去ってしまうことになる。
トビーアスだけでなく、ジャムジャムジーラも、叛乱失敗後は哀れな逃亡者になり下がって果てはトビーアスに無言で撃ち殺される小学校教師ペラーヨ(池田成志)も、後ほど触れるヤンも、舞台の上で死体となって転がったが最後これほど軽視される芝居も珍しいのではなかろうか。

今はやりの戦国モノのゲームの中には、群雄割拠の攻防のうち不要になった人物は「仏門に入る」と称して消えてしまう処理があるという。
トビーアスのみならず、さまざまな人物の死はまさにそんな感じ。だからと言って、全体が骨太の無常感に貫かれている、という感じはさらにない。しょせんは商品に過ぎないゲームの作者に似てか、劇作家が劇世界に過剰な思い入れを持っていないためだろう。
終幕、奇病の流行でウィルヴィルの街は半ば廃墟と化したあと、一面で不思議な平穏に満たされてもいる。「身内」は死ぬか去るかして独裁権力も失墜、独り生き残り物乞いに零落したドン・ガラスが、レティーシャの父の仕立屋で司祭になった元「ヒヨリ」ローケ(三上市朗)に恵まれたパンを頬張りカンテラの燈に暖を取りつつ路上に蹲る幕切れも、その夜の彼の凍死を予測させる、いわば「死亡フラグ」の立った場面だが、あくまで淡々とした感触で、因果応報の終結感は皆無だ。
「たまたま充電が切れたから、ここらでゲームも終えようず」という感じである。

才人・KERAは映像分野の活動も多く、今回の舞台もCGを多用。冒頭の舞台面に配役名を映し出した。映画やテレビの感覚に通ずる場面場面の「切り貼り」の感覚も、解読容易な劇的主題をあえて際立たせない作・演出の意図の顕われだろう。人物の死すら舞台情報の更新感覚で処理するのもその一環だと思う。

だが、見る側は、批評のコトバでこれらをどう定位するか。
作・演出の意を汲めば汲むほど、演劇批評としては実態を欠いた評語の羅列になりはしないだろうか。

偶然の出会いで成り立つチャット・ルームや、その時の都合で随意に進められ打ち切られるゲームを、ひとつのまとまったシステムや成果として評することが不毛なのと、これはよく似ている。見ている間は面白くはあり、はなはだ陰惨な場面もありはしても、不快感や抵抗感も含めた手応えや澱が見終わって何も残らないのは、その時その場の共時性に拠って立つチャット性、ゲーム性に理由があるように思う。
はじめに「寓話劇」と言ったものの、正しくは、「寓話性を欠いた寓話劇」である。

小出恵介を目当てに来場したファンも多いだろう。「跛で内気な動物園飼育員」は最近の彼の一種の典型的なイメージ。友との友情に生き、哀れな最期を迎える点でも〈あゝ、荒野〉の吃りのボクサーを思い出させるが、先ほども述べたように人物の一貫した生死に価値を置く台本ではないので、トビーアスの人間性や思念といったものはいささか単純化されたかたちでしか表出されないし、その死も無感動に演じ捨てられる。欲求不満を感じたファンも多かろう。聖職を棄て積極的にガラスの手下になる友人パブロは純粋だがイヤなヤツ。近藤公園は小出以上の好演を見せたが、これまた目を潰される件、凄惨な最期、ともにコロスによって語られるので添景人物の域を出ない。
錬金術師・ダンダブール(山西惇)に伴われた白痴・パキオテは霊能者。その力量だけはこの芝居でも相対化されない。彼の霊力で死者が幻想の肉体を得、麦の粉が秘薬となって、それを一度でも服用したものはすべて死んでゆくのだから、この芝居で唯一、劇世界に本質的影響を与える重要な役と言えるかもしれない。気味の悪さと愛嬌を兼ね具えた大倉孝二の適役である。ただ、彼が思いを寄せるメイド長・メメ(犬山イヌコ)は、亡児の幻影に幻滅するとパキオテに対しても冷淡になり、いわばメメに命を捧げたパキオテの死も無化されてしまう。霊能力は否定されずとも、彼の死そのものはやはり相対化されてしまうのだ。
親捜し+父殺しのギリシア悲劇的テーマを背負う流れ者・ヤンの丸山智己が、ボクサーのように骨格の際立つ痩身で暴力性と色気(彼は次女テンに惚れられ胎内に子を宿させるばかりでなく、108歳のジャムジャムジーラをさえ策に落してその手で籠絡する)で良い味を出していたが、幾多の人を騙し、手に掛け、ようやく成就した彼の「呪い」も結局は効力を発揮しない」(「呪い」が成就した時には自らを棄てた「父」は判明し目前で悶死を遂げるはずのところ、「父」ドン・ガラスは悶死寸前で助かり、逆にヤンのほうがテンに射殺される)。
というわけで、西岡徳馬の司祭グンナル、大鷹明良の執事長ヤルゲン、マギーのアリスト(元コックでメメの夫)も大事な役で、カッサンドラめいた長女バララを頂く三姉妹の性格も色々あるのだが、個別評をしてゆくとキリがない。

ともあれ、いま述べただけでも、人物の情動や生死がまったく「クライマックス」になっていないことはお分かり頂けよう。そう脚本が書かれており、そう演出されているのだから、作者の意図はその意味では充分達せられているわけだが。

しかし、冒頭引用した作者のコトバ「彼ら登場人物が祈らねばおられぬ気持ちで流す涙は、きっと我々と変わらぬ、ときに暖かく、ときに苦い涙」のようには、どうにも思われない。彼らの流す涙は、温度感覚もなければ、味覚も欠いている。
チャットのようにハンドルネームで呼ばれる人物たちの、ゲームのように中断・継続自由自在の切り貼り感覚のドラマ。
役者の熱演に寄せる観客の「感動」や題材に対する違和感すら、瞬時に相対化される舞台。

作者の世界観の実現としてよく作り込まれた舞台であると同時に、見る者にとって本質的に得るもののない「無意味な舞台」でもある。
4時間にわたる壮大な徒労、とでも言うべきか。

2013年1月 1日 | その他批評 | 記事URL

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