2011/1/18 記録の功罪 | 好雪録

2011/1/18 記録の功罪

昨年12月分の能・狂言月評を、『能楽タイムズ』2月号のために纏めております。
発行され次第、「活動記録」の項でお知らせします。
手控えを確認しながら批評文の再チェックするのが中々大変なのですが、
これは能評の基本であります。

年齢のせいか、今は能・狂言を見ながら手控えの記録を残します。
以前の一ッ時はそうはせず、舞台を見て全部覚えようとしていました。

私よりも若い方で能・狂言を本格的に見ようとお思いの方にお勧めしますが、
本来、舞台とはただそれに集中すべきもので、メモも取らずに見て、型も呼吸も、
その場で頭に焼き付けることが肝要です。

これは私の畏敬するご老人の直話です。

戦前、舞鶴にあった海軍機関学校に見学に行かれたそうです。
授業を参観すると、学生全員、机上にノートも置かず、背筋を正しただ教卓と黒板を凝視するのみ。筆記するということが皆無だったと言います。

これには理由があり、ひとつには、安易にメモを取って軍機が漏れるのを忌むこと。
もうひとつ、船内乗務の折、激浪動揺の際はとうてい筆記困難なため。
この理由によって、「目前のことはすべて記憶する」のが規律だったそうです。

これは大変なことです。

が、これには裏があって、講義が終わると学生たちは一目散にトイレに駆け込む由。
何も用足しにではなく、個室に籠もって、今しがたの講義内容を仔細に思い起こし、書き起こすのです。
ただ、どうしても、そうして起こした記録には、幾分かの不備なり記憶漏れが出ます。
講義中に秘かにメモを取ろうものならば激越な叱責が待っているものの、
講義後の備忘録の補足に後日、教官室に質問に行けば話は別で、
それはそれは懇切丁寧に教えてくれるものだったそうです。

ここには、物事に接し、見覚えることについての、最も肝腎な秘訣があります。
「目前のことはすべて記憶する」。
こうした覚悟で物事に接することが、やはり大切でしょう。

克明に見聞きし記録に残すことは、能・狂言の評論を志す上で不可欠のことだと、私は思います。
ただ、そうした記録以上に、「目前の物事を見失わず見届ける内面」はもっと大切。
機関学校生は、そうした「目前の物事を見失わず見届ける内面」を養うために、講義中の筆記を厳禁されていたのでしょう。

舞台・藝能の批評を試みる者にとって、こうした問題は今も切実なことだと実感します。

2011年1月18日 | 記事URL

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