2011/1/4 中村富十郎逝去 | 好雪録

2011/1/4 中村富十郎逝去

大阪から帰りの新幹線は満席の混雑だったが、その車内の電光ニュースで前夜の天王寺屋逝去を知った。

末期の大腸癌から脊髄へ転移の腰痛、昨秋以降どれだけ辛かったことだろう。
が、長く病みつくことなく、最後の出勤となった11月新橋演舞場〈逆艪〉畠山は中途休演だったにもせよ、一興行勤めおおせた実質お名残が9月同所〈うかれ坊主〉だったとは、実に富十郎の勲章である。
病躯を抱え、こんな難物をともかくも踊り抜いて去って行った老優が、歌舞伎史上いただろうか。

既に7月演舞場昼の部〈文屋〉も舞台に膝がつけず、上半身ばかりの振リを工夫していた。
この時、たまたま銀座の裏道で、役を済ませた天王寺屋がひとり、それこそやっとの歩みを運んでいるのと行き遇った。まだしも舞台上であれだけは動ける人がと、その対照に驚いた。
まして、〈文屋〉以上に身体の線が露呈する〈うかれ〉を選び、勤め上げた天王寺屋。
その訃報に接し、私は何よりも潔い男気を感じ、襟を正す思いがある。

富十郎の役々で思い浮かぶのは、まずはどうしても舞踊の数々だ。

元気な頃の〈うかれ坊主〉は身体表現の極致といえる神品。
演目そのものの味という点では、先代勘三郎に濃厚だった闇と卑俗味が本当だと思うが、初夏の青嵐のように一気に踊り澄ます富十郎の〈うかれ〉は立派に別の一家風を確立していた。
これと、雀右衛門との名物〈二人椀久〉。それから〈船辨慶〉。この3つに、舞踊の手だれとしての天王寺屋のすべてが顕われていたと言っても過言ではなかろう。

珍しいところで忘れられないのは2007年1月14日、「至高の華・新春特別公演」と銘打つ国立能楽堂能舞台での清元〈吉野山〉。尾上青楓の忠信を相手に、富十郎は静を踊った。この素踊の美事さ。
袴付で杖と笠を携えた橋掛リの出にほっそり引き締まった姿を見せ、以下、能舞台ゆえに動きを極力抑えた中、構えそのものの規格正しさで一曲を通す。「激しく動き抜く力量のある人なればこそ、ここまで動かずにいて踊れる」という逆説を、手に取るように教えてくれた名品だった。
これは雀右衛門が病み臥す前に立姿ひとつで舞台を圧した〈豊後道成寺〉や〈六歌仙〉小町と同じで、富十郎は終生「踊る身体」の最も模範的な手本であり続けた。これが、2009年5月27日歌舞伎座・傘壽記念第9回矢車会での〈勧進帳〉という名演を生んだのだ。この辨慶のことは、『歌舞伎・研究と批評』44号に触れた。

舞踊の要素を含まない、純粋な演技者としての富十郎の代表作は何だろう。
〈頼朝の死〉畠山重保。〈御濱御殿〉富森助右衛門。〈お江戸みやげ〉おゆう。新歌舞伎の類にいくらでも指を屈するものがある。

では、古典演目で何を挙げるか。

歌舞伎批評「平成22年の歌舞伎をふりかえる」の項で昨年1月〈車引〉時平をそう評したように、私は舞踊以外の富十郎の古典演目に顕著な新歌舞伎風の味わいに、違和感を抱き続けてきた。

しかし、たとえば2008年12月歌舞伎座夜の部で〈名鷹誉石切〉と狂言名題を据えて勤めた梶原。
この時も正座ができず工夫して演じていたが、最近頻演が過ぎてすっかり手垢がつき誰で見ても退屈なこの底浅い演目が、実に目の覚めるような出来ばえだった。

二ツ胴の試し切りのあと、周囲の雑言が耳にも入らず刀に見入る気迫の持続。
凛然たるセリフの力でテンポよく全幕一気に演じ通してしまう藝の張り。
無駄を一切削ぎ落とし、明快な口跡と高い気韻だけが舞台に張り詰めた壮観。
これは古典、非古典の議論を超えた、ひとつの完璧な姿をなしていた。

私は〈石切〉という芝居を、この時はじめて見たかのように思った。同時に、歌舞伎における古典性ということが一体どういうことなのか、改めて考え直さなければいけないように思わされた。
富十郎にとってこの時がこの役の最後となった歌舞伎座の〈石切〉は、疑いもなく、私を反省させてくれたのだ。

私にとってだけではない。
キチンとした五代目中村富十郎論がなされるべきは、むしろこれからのことだろう。

2011年1月 4日 | 記事URL

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