批評

2011/1/10 銕仙会1月定期公演

平成23年1月10日(月・祝)午後1時半 寶生能樂堂
◆〈翁〉 翁:觀世銕之丞/千歳:片山九郎右衛門/三番叟:野村萬齋/面箱:野村遼太
◆能〈嵐山 白頭〉 シテ:柴田稔/前ツレ:安藤貴康/後ツレ(子守) :馬野正基/ 後ツレ(勝手):浅見慈一
/ワキ:大日方寛 /ワキツレ:梅村昌功・野口琢弘/アイ:竹山悠樹
/笛 :一噌隆之/小鼓頭取:幸正昭/脇鼓:後藤嘉津幸・福井聡介/大鼓:柿原崇志/太鼓:助川治
/地頭:山本順之  
◆狂言〈筑紫奥〉 シテ: 野村万作/アド(筑紫):深田博治/小アド(丹波):石田幸雄
◆能〈小鍛冶〉 シテ:觀世淳夫/ワキ:寶生欣哉/ワキツレ:野口能弘/アイ:高野和憲
/笛:藤田次郎/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:龜井廣忠/太鼓:金春國和/地頭:觀世銕之丞

毎年吉例の銕之丞の翁に、九郎右衛門お披露目の意味も籠めて千歳を付き合う。

萬斎の〈三番叟〉がひときわ熱演である。

揉ノ段初めに角のほうへ踏み重ねてゆく決然たる一足一足。
烏飛ビの前に脇座から正先へ正面向いたまま交互に踏み進めるしたたかな足取り。
こうしたところに、この日の萬斎の意気込みが唸りを上げるようだった。その分、殺気立っている感も強く受けた。これは、萬斎の素地がありありと透けて見えたということでもある。
前日に京都で見た茂山良暢の〈三番三〉とは大きく異なるが、単純に比較はできない。両者いろいろな意味で、まったく別物であると言ったほうが良い。

私が〈三番三〉を初めて見たのは、1983年9月16日の国立能楽堂開場初日。亡き大藏彌太郎(のちの彌右衛門)のそれだった。続いて開場2日目、今の野村萬が勤めた〈三番叟〉が忘れられない。

当時万之丞だった萬の〈三番叟〉は、オーソドックスの見本。まさに「標準」であり「教科書」だった。ということはある意味で無個性、少なくとも万之丞の自我とか個性とかを超えたところにある技術主義の産物である。
「標準」であり「教科書」として「規範性」を漂わせて、他の批判を拒むかのようなこれに、当時の私は反感をすら抱いたことをありありと記憶している。

この万之丞の「無個性性」と「規範性」は、万作の藝と比較するとより顕著だ。万作の狂言を初めて見た時(〈萩大名〉だった)感じたのは、万之丞のような「無個性性」「規範性」ではなく、いくぶんおずおずと控えめながらも、まぎれもなく野村万作という固有な自我の発露だった。これは、〈三番叟〉と〈萩大名〉という演目の差によるブレではない。

萬と万作の演技者としての相違は、今後もっと考えるに値するだろう。

国立能楽堂開場の年、野村萬は53歳。萬斎がその年齢に至るまで、まだ8年ほどはあろうか。だがその年齢差以上に、〈三番叟〉で萬斎が希求するものと、萬が希求してきたものと、両者ほとんど相交わらないように思われる。
萬が自己をゼロ化してでも教科書的なオーソドックスを希求したのに対し、萬斎は自己に向き合うことによって、自己に忠実な表現を希求しているかのようだ。

噺家に譬えれば、これは常々私の持論だが、萬は圓生である。自己を教科書化しつつ技藝を磨き、それが手段ではなく目的に昇華し徹底している点がそうである。

萬斎は志の輔であろうか。
圓生的な名人主義が現代では有効たり得ないことを知り尽くした談志の弟子として、落語という構造体そのものに疑念を持ち、時として観客すら信用できないのが、藝人としての志の輔のありようである。
この、「時として観客すら信用できない」というのは、志の輔にとって自己韜晦でもなければ、尊大な思い上がりでもない。それが志の輔の看破した現実の荒涼なのであり、これは現代を生きる私たちがともに共有できる、共有しなければならない、現実の荒涼なのだ。

萬斎の〈三番叟〉こそ、私が共有できる〈三番叟〉である。これは決して皮肉ではない。萬斎の〈三番叟〉を考えることによって、現代人が古典藝能に関わって行く有効性と無効性とが、私にも同時に突き付けられる、ということである。

萬斎の〈三番叟〉が私の眼にどう映ったか、私はこれからまた考え深め続けてゆかねばならない。

この日はキチンとした翁付の演式。一噌隆之と幸正昭の音取置鼓は尋常一方の演奏だが、やはり所を得て気持ちが良い。

大日方寛が礼ワキを勤めるのを見て、実に感無量である。
昨年の銕仙会初会での翁付〈淡路〉のワキは則久英志だった。どちらも国立能楽堂研修生から成長したワキ方が、晴れの脇能で礼ワキを勤めるまでになったのだ。

則久にしても大日方にしても、まだまだ藝の恰幅は未熟だが、そんなことは問題ではない。法に叶った作法で懸命着実に礼ワキをこなすことによって、脇能らしい清々しい空気が舞台に満ちる。それが何よりの効果である。これこそ、ワキ方の価値である。

素人出身者を礼ワキが勤まるまでに叩き上げた宝生閑の指導力と、彼らを翁付脇能のワキに抜擢した銕仙会の見識に、それぞれ敬意を表したい。

〈嵐山 白頭〉後場は早笛が抜け(これを忘れてヒシギを吹いたのは失錯)、ひたすら重くなって、老神の存在感をただ示すだけに、若手中堅の手に余るものがある。柴田稔もその意味ではだいぶん空隙があった。が、強みは明朗な謡。練り上げれば相当の力になるだろう。この能の短い前場は、謡の力で持つ場である。

〈筑紫奥〉の万作の佳さ。淡々とこなす中に底光りする祝言性とでも言おうか。深田も石田も笑い顔が良い。

万作家の装束の好趣味はしばしば感ずるところ。この日も万作の奏者が素敵な出で立ち。着付は薄紅と薄辛子色と薄青の段熨斗目。素袍は薄辛子色に焦茶の細かい霰小紋、白の雲形の段を取った中に木の葉吹き寄せを染め出した。イメージできる方はご想像頂きたい。

トメは観世淳夫の〈小鍛冶〉。18歳の青年役者とて修業はこれから。
これまでは「舞台に出されていた」に相違ないが、これからどういうきっかけで能に慾が湧き、「舞台に出たい」と思うようになるか、とくと見守りたい。
身体まだまだ未熟な割に思い切ってハコビ、飛ぶあたり、〈合甫〉の昔から変わっていない個性が微笑ましいが、この日の父・銕之丞の〈翁〉も「千秋萬歳の」の直前、かづいていた袖をかなり乱暴にバッと払って直したのでちょっと驚いた。こうした突発的な力感に父子相通ずる気味合いがあるのは面白かった。

2011年1月13日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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