批評

2011/1/29 横浜能楽堂企画公演

平成23年1月29日(土)午後2時開演 横濱能樂堂 
◆狂言〈夷毘沙門〉 シテ(夷):山本則孝/アド(毘沙門):山本泰太郎/アド(舅):山本東次郎
/笛:竹市学/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:柿原弘和/太鼓:梶谷英樹/地頭:山本則俊
◆能 〈春日龍神 龍女之舞・町積〉 シテ:淺見眞州/前ツレ(宮守):武田友志/後ツレ(龍女):淺見慈一
/ワキ:森常好/ワキツレ:舘田善博・吉田裕一/アイ(末社の神):山本則重
/笛:竹市学/小鼓:鵜澤洋太郎/大鼓:柿原弘和/太鼓:梶谷英樹/地頭:山本順之

「能・狂言に潜む中世人の精神」 と題する連続公演の第2回で、今回のテーマは神道。上演前に春日大社宮司・花山院弘匡氏の講演があった。

〈夷毘沙門〉の毘沙門天は、亡き山本則直屈指の当たり役である。

泰太郎の第一声は、思わずハッとするほど父に似ていた。
が、楽々と演じていながら全身に「気」が張り詰めていた父の毘沙門を思えば明らかに線が細く、比較するに些か脆弱ですらある。
猪武者の泰太郎でさえこうなのだから、さらに突き詰めたところに不足する則孝の夷は硬い外面ばかりが目立ち、不動の実体そのものに欠ける弊がある。

夷に向かい「西宮のサブ」と呼ばわる荒っぽさ。夷から「主持ち(=隷属階級)」だと当てこすられた(中世では最低の侮蔑に当たることを念頭に置かねばならない)毘沙門が色をなす部分。こうしたところで、何が何だか分からないほど猛り狂う則直。そこから発する不可思議なおかしさは無類だった。

山本家の狂言は、周知のとおり、剛直で融通のきかない藝風をみずから誇っている。その「融通のきかなさ」が、われわれの日常気づかぬ矛盾や非現実性を拡大して示す時、これに対するとまどいから奇妙なおかしさが生ずる。
これが山本家の狂言の真の魅力だと、私は思う。
「格調高い」「古風だ」という「定評」は、しばしば枕詞であるに過ぎない。

要するに、全身全霊を挙げて「融通がきかない」ことに徹する以外、この藝風を活かす道はない。
外形の硬さばかりを残して内部の烈々たる気迫を失う時、山本家の狂言は空虚な型式主義に堕すだろう。

則直死し、東次郎漸く老境に差しかかるいま、泰太郎以下4人の次代を担う後継者たちに、真の覚醒が求められている。

この日の〈春日龍神〉は、当然のことながら難物「町積」のアイに興味が集中する。

2008年3月の観世会で東次郎が観世清和のシテに付き合った時は、立チシャベリすべてにちょうど30分を要した。
現存大藏流の役者を通じ、東次郎以外に初めて手掛けるはずの則重の今回は、それに比べて1~2分短かった。短かったということは、それだけ躊躇なくやってのけたということである。よほど稽古を積み、身に沁ませた結果であり、敬意を表するに値する成果だ。

周知のとおり「町積」は、唐土・長安城から天竺・王舎城までの陸路と海路を積算するカタリが主になっているが、概観するとその内容は全体が数節に分かれる。
すなわち、
1・距離と路程の積算。
2・道中の難所と玄奘三藏の苦難。
3・春日の祭神と神道の説。
これに加えて、常の間狂言の内容が付随する。

ただ路程の積算だけが趣意でないことがわかるだろう。
つまり、「これほどはるかな道を辿った確かな先達として玄奘三藏という聖がいた」ことを強調するのが「町積」の語り出すドラマなのだ。

法相宗の開祖・慈恩大師(632~82年)は玄奘三藏(602~64年)の弟子。同宗は玄奘の天竺求法行がなければ開かれなかった。興福寺は薬師寺と並んで、わが国における法相宗の本拠である。
その意味で、玄奘三藏の事績を顕彰する「町積」は、春日神社=興福寺の霊域たる春日の地の荘厳に結びつく演出なのだ。
ただモノ覚えの良いところをひけらかす珍物ではない、ということである。

2008年の東次郎の「町積」が立派だったのは、意識してこのことを試みようとしていた点にある。
コトバが紡ぎ出す自律的な心地よさを積み上げることによって、「声による、コトバによる荘厳」が現出することを、東次郎は身をもって知っていたはずだ。

何によらず、長いカタリとなれば部分部分が均等に並列されがちである。
が、東次郎はそうはしなかった。次第に渦を巻いて核心に迫る螺旋状の勢いにブレーキを掛けず、一気に聴かせた。路程の積算から発して、玄奘三藏苦難の求法を軸にさまざまな話柄が止揚される果て、釋尊御一代記の大パノラマが、五天竺出現の奇瑞となって金色燦然とせり上がってくる予兆を強調する「町積」。その圧倒的な頂点が、30分の立チシャベリの中に立ち顕れた。

若く単純な則重の「町積」には、これをどうカタリこなそうかという東次郎ほどの意図や意思は感ぜられない。
が、東次郎には既になく、則重には具わっている「若さの力量」は絶大だ。
流暢な東次郎でさえ、耳を澄ませば何ヶ所かは1秒にも足らぬ言い淀みがあって、老練な態度でそれと知られぬよう勤めおおせていたものだが、則重は体当たりの勢いで毫末の欠点すら見せなかった。

釋迦の一生が過ぎ去ったあと、現在の天竺には何の痕跡もない。「悉く終はり」を迎えたその地に、苦難を凌いで辿り着いたとしても、いったい何になろう。
これに対して、法相宗の聖地・仏法の息づく春日野は、宗教的な価値において「天竺そのもの」にほかならない。
その主題を、間狂言の声の力ひとつで劇的に補強するのがこの替間の存在意義であるとすれば、躊躇なく一息に若さに任せた則重の態度は、「町積」を演ずる心がけとして当を得ている。

ちなみに前回の東次郎と同年、2008年10月の宝生宗家継承披露能で今井泰男のシテに対して野村萬齋が勤めた「町積」は、大藏流に比べてほぼ半分に近い寸法だった。位取りは異なるものの、〈芭蕉〉の「蕉鹿」と同じ程度のヴォリュウム。それもあって、これほどまでのコトバの奔流とはならなかった。

能の前場の一声は越ノ段を入れた正格。出の謡も省かない。
シテの面は小尉だろうか。白地指貫に薄茶の単狩衣を肩上げずに着る。ツレは直面で、白大口に白のヨレ狩衣の肩を上げる。どちらも萩箒を持つ。
シテと謡い分ける前ツレのコトバに息が抜けないのが良く、前シテはクセの下居姿に位がある。
地謡一杯にシテが幕に入り、ツレが来序を踏んで中入。
アイは着面で、洞烏帽子に白垂、白ヨレ水衣の老神姿。常座に立って「町積」となる。

後場は龍女姿のツレが出端で出、そのまま太鼓入三段中ノ舞を舞う。
続く地謡「拂ふは白玉」で幕を上げると、幕内でシテは正先を見込み、ジックリと三ノ松へ出る。シテ謡「八大龍王」のあと、常は舞働のあるところに重い早笛が入り、後シテが橋掛リを出る。白頭に翁狩衣を衣紋に着、緋色半切の姿。

以下、位はことさら重いというよりも、「ノラぬよう、ノラぬよう」に努めている感触。淺見らしいダンディズムが、ディズニーランド的な豪華なページェント性を際立たせて、特有の効果を挙げた。存在感の巨大さよりも、所作の大きさで見せた後シテである。
最後は常座で袖かづき膝をつき、立って留拍子。結果として、舞働は省かれる。

鵜澤洋太郎の打つ鼓の音色が、祖父・鵜澤壽とよく似てきたようだ。
父・速雄は、いささか腱鞘炎気味でもあったか、後年は手が硬く音色も詰まっていた。
祖父・壽は、間の厳しさや面白さよりも、伊達ともいえる華やかな打音と、鼓を構える姿勢がヘタらなかったことが最大の美点だった。
優秀な人材の枯渇が今でも深刻に危惧される小鼓方。並の打ち手はともあれ、ひとりでも良いから名手・妙手が出てほしい。

2011年2月21日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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