批評

2011/2/17 新国立劇場演劇公演〈焼肉ドラゴン〉

平成23年2月17日(木)午後1時 新国立劇場小劇場 
〈焼肉ドラゴン〉 作・演出:鄭義信/翻訳:川原賢柱/美術:島次郎/照明:柴勝次朗/音楽:久米大作
/金龍吉(「焼肉ドラゴン」店主・56歳):申哲振/高英順(龍吉の妻・42歳):高秀喜
/金静花(長女・35歳):栗田麗/金梨花(次女・33歳):占部房子/金美花(三女・24歳):朱仁英
/金時生(長男・15歳):若松力/清水(李)哲夫(梨花の夫・40歳):千葉哲也
/長谷川豊(クラブ支配人・35歳):笑福亭銀瓶/尹大樹(静花の婚約者・35歳):朴師泳
/呉信吉(常連客・40歳):佐藤誓/呉日白(呉信吉の親戚・38歳):金文植
/高原美根子(長谷川の妻・53歳):水野あや/高原寿美子(美根子の妹・市役所職員・50歳):水野あや/阿部良樹(アコーディオン奏者・37歳):朴勝哲/佐々木健二(太鼓奏者・35歳):山田貴之

2008年の初演が大好評を博し、NHKテレビの舞台中継で一般の認知するところとなって、今回の再演はかなりの人気。当日券を求める人々の列は連日長蛇をなしている。小耳にはさんだら、なんと「今日は朝の5時半からもうお並びだったんですよ」。

期待にたがわぬ最高の舞台である。
同時に、扱うテーマがテーマだけに、私は複雑な思いを抱く。

あらすじや展開は既に多くの人々が紹介しているから、最小限に留めよう。
時は万博開催を挟んだ1969年春の夕暮れから、71年春の朝まで。
場所は関西地方都市・空港そばの朝鮮人集落N地域。

ドラマの外枠は、要するに、高度経済成長下の戦後日本が切り捨ててきた在日韓国・朝鮮人の生活問題であり、差別問題である。

長男・時生が、父親の強い意向で進学校に進んだ結果、血まみれで帰宅するほど過激ないじめに遭い、ついにトタン屋根から身を投じて自殺する場面は衝撃的だ。
この時生は狂言回しの役を兼ね、幕開きと幕切れでは「この街」に寄せる愛憎を籠めた同じセリフを観客に向けて吐露する。が、そのほかは死に至るまで、動物的な咆哮を発するだけなのが実に強烈な印象を残す。
きわめて象徴的なこの役を、モノに憑かれたような若松力が美事に形象化している。

同時にこれは、「娘たちの結婚物語」でもある。もっとも、婚期を過ぎても伴侶の定まらぬ娘たちの男性関係は錯綜を極める。

生活水準最低のこの朝鮮人「集落」は不法占拠地であって、ついに強制執行で立ち退きを迫られる日。
長女は、次女の元夫・李哲夫とともに「北」に渡って行く。
次女は、新夫に従い韓国に「帰国」する。
娘たちの中でただひとり、日本人(年増妻と離婚した長谷川)と結ばれた三女は、臨月近い腹を抱え夫婦でスナックを営む新生活に入る。
父と母は、帰るべき故郷を失ったまま日本に残り(2人とも済州島出身である)、リヤカーを曳いていずくともなく立ち去る。

バラバラに分かれ行く4組の男女を、ことに最後に退場する父と母を、死んだ時生がトタン屋根の上から見送る幕切れに、無限の感動がある。その感動は苦く、重い。

場内に足を踏み入れると、舞台上では鳴り物入りの賑やかな酒盛りが始まっている。「昭和」を実感させるセットが秀逸。その時代を知るわれわれも、当時を知らぬ若者も、テーマパークに入り込んだようにノスタルジックな甘い感傷に満たされる。足掛け3年に亙る月日の推移を季節感豊かに演出、ことに桜の落花を巧みに用いた舞台効果は素晴らしい。

だが、こうした感傷的感動だけでこのドラマに接して、果たして良いのだろうか?

懐具合の寂しい学生の頃。京都や奈良に遊ぶたび、安宿を求めてあちこちを徘徊した。
路地(この劇でも「ろおじ」と発音している)一本入り込む途端、まったく異なる重い空気を感ずるや否や、通りすがりの来訪者を見とがめる鋭い視線がそこここにある。その中を歩む身も細る心地。一度や二度ではないが、それこそ忘れられるものではない。

戦災で街並みの更新された東京のような大都会に生活する限り、決して知られないこの感覚が〈焼肉ドラゴン〉の劇世界を包んでいることは、否定しようもない事実である。
舞台は新大久保や鶴橋のような、今はやりの「コリアン・タウン」ではない。
下水道が完備せず雨水に大便が浮かび、生活用水は共同水栓ひとつしかなく、定職を持たぬ(と同時に、持てぬ)地元の男たちに払うアテとてないツケを重ねられて「これでは店がつぶれる!」とオモニが叫ぶ言葉も冗談には聞こえない「街」なのだ。

この芝居を見るわれわれはみな、しだらのない、だが愛すべき男たちに心からの親愛の情を感じ、自ら幸福を願いつつも結果として先行きの見えない結婚生活を選んでしまう娘たちの行動に一喜一憂し、喜怒哀楽の振幅の激しいオモニと口数少なく「恨(ハン)」を胸中に納めて諦観したアポジとに限りない同情と敬愛の念を抱くに相違ない。

だが、ほとんどの「われわれ」は、現実の「焼肉ドラゴン」にとって招かれざる客である。

新国立劇場小劇場の客席に座っていた大半の観客は、私を含めて、時生を死に追いやった側の人間、「焼肉ドラゴン」に立ち退きを迫った側の人間であるはずだ。

むろん、演劇は現実とは異なる。現実の主義主張とは別に、舞台に接する純粋な感動というものがあっても良い。
ただ、すべての演劇がそれ「だけ」で良いと、私は思わない。

役者はみなよく訓練されており、ひとりとして拙劣な者はない。
その中でもやはり、オモニ・高英順の高秀喜、アポジ・金龍吉の申哲振、この2人の存在感は群を抜く。

幕切れ。
泣き顔の巨体妻をリヤカーに乗せて勢いよく走りだす龍吉の姿に、「辛いことばかりの昨日まではともあれ、明日はまた良いこともあるだろう」という、「在日」特有の切ない人生観が横溢する。
片手を戦争で失い、残った片手を臓物の仕込みで血に汚したまま引っ下げ初めて舞台に現われた申哲振は、劇中を通じて耐えに耐え、働きに働き続ける男の一生を演じ尽くした。その存在感は、「人というものは、まんざら捨てたものではない」という、崇高な人間愛の境地を幻想させると言っても良い。

だが、このドラマを覆い尽くし、時生を死に追いやり、「集落」を消滅させた「現実」は、今もなお、ちっとも変わらず現実に存在し続けている。
このドラマに感動したわれわれは、たとえば、「ウトロ問題」についてどういう見解を持っているのか。
こうした現実的思考と無縁に、このドラマに情緒的に感動する「だけ」で良いのだろうか?
もし、このドラマが巧みに切り取って見せる「現実」に対して「知らなかった」「興味がない」という態度を保持したまま、昭和懐古の人間賛歌としてノウノウとこの劇に接する時、われわれはこの戯曲中の人々に比べて実に稀薄な、実体を欠いた影のような生きものに堕するはずである。

ちなみに、〈わが友ヒットラー〉で三島由紀夫は、現実のヒットラーを抽象概念の表象として扱っているに過ぎない。つまり、劇中人物は虚辞によって形づくられた思念の器であって、そこにナチスドイツの現実を見ることは、かえって誤解に類する。

〈焼肉ドラゴン〉は、そうではない。
ここに登場する「在日」の人々は、程度の差はあれ、「外部」の人間に対して激しい思いを抱く人々である(その代表が千葉哲也の好演した李哲夫)。その人々の思いは、設定された時代から40年を経た今でも変わらず残っているに相違ない。
こうした社会に対する異議申し立てに演劇的感動が同居、たぐいまれな批評的人間群像をなしている点が、〈焼肉ドラゴン〉を普遍的傑作たらしめている最大の理由だろう。

この劇に感動し、感情移入するあまり、自分も気さくに「焼肉ドラゴン」に足を運び、常連客の喧騒の中、オモニの荒っぽい給仕でビールを呷りながらホルモン焼を頬張れるだろうと幻想した観客は、完全にこの劇を誤解している。

感動的な、感傷的なこの傑作は、新国立劇場の観客の大半を拒絶する諸刃のドラマでもあることを忘れてはなるまい。

2011年2月18日 | その他批評 | 記事URL

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