批評

2011/2/19 第4回 祐の会

平成23年2月19日(土)午後2時 14世喜多六平太記念能楽堂
◆〈木六駄〉 シテ:髙澤祐介/主人:前田晃一/茶屋:三宅右矩/伯父:吉川秀樹
◆〈骨皮〉 シテ:三宅近成(髙澤龍之助休演)/住持:髙澤祐介
/傘借:大塚出/馬借:金田弘明/斎の者:三宅右近
◆〈鈍太郎〉 シテ:髙澤祐介/下京の妻:河路雅義/上京の女:三宅近成

髙澤の強みは、まず第一に芯の徹ったハリのある明澄な声である。これは現在の若手狂言方すべての中でも、群を抜く声と言っても良い。
加えて、折目正しく俊敏な動き。ジッと座っていても微動だにしない舞台行儀。余徳としての「花」さえ添うている。
つまり、狂言方として理想的な美質を具えている役者である。

ただし、母方の祖母が初代野村萬齋(1862~1938年)の娘であるとはいえ、髙澤自身は親の後を継いだ狂言師ではない。「外部から入った弟子」である。

狂言の世界での弟子は、シテ方や囃子方のそれに比して分が悪い。往々にして、荷物持ちと脇役ばかり、主家の膝下に使い回され、地味な生涯を終えることが多い。

そんな中、自己の藝の真価を問う意味で、定期的に個人の催会を継続する努力は並々ではなかろう。これを援ける周囲の厚意、それを是とする主家の理解、いずれも偉とするに足る。
批評とは別次元の問題だが、毎回入りの多くはない見所を見渡すにつけ、こうした隠れた辛苦があるだろうことは、やはり心に置くべきかと思う。

初番だがメインディッシュに当たるはずの〈木六駄〉は満を持して臨んだに相違なく、助演を含めて息の合ったアンサンブルである。

だが、構成が平坦だ。

冒頭の主人との対話。雪中行と酒宴の中盤。都に着く末尾。この三段がただ並列して見える。と同時に、最も長い中盤がダレる。特に、雪中行の件に切実感が不足、続く茶屋亭主との酒盛(小謡は和泉流原型の〈柳の下〉ではなく、改作通行の〈鶉舞〉だった)に繋げる計算が必ずしも巧く成り立っていない。

よく「雪道に牛が何頭見えたか」などと、その表面的な描写力を云々するが、これは〈葵上〉枕ノ段で「螢が何匹見えたか」と同じく、どうでもよい些細なことである。
雪中の行列、文字どおり一歩間違えば命を落とす。白雪散る厳寒の中に、牛と人との「命と命」が向き合っているさまを描くのが肝要なのだ。
それが成ればこそ、「泳ぐように」辿り着いた峠の茶屋の火の気の尊さが実感され、さらに酒が加わって気炎万丈の大酔態に至る、非日常的な盛り上がりが現出する。
そうでなく、雪道を淡々とやり過ごし、隣家へ味噌醤油を借りに行く(←今はなくなった風俗)ような気分のまま茶屋に着けば、酔態そのものも寒中の非常飲酒ではなく、平生手酌の一献と見えかねない。
こうなると、木を六駄を売り払ってしまう酔余の暴挙が、酒の力を借りたかに装う計算高い慾得づくに見えて、太郎冠者の人物が卑しくなる。

この狂言が大曲と言われるのは、こうした全体の知的デッサンが不可欠である点にあるのだろう。ニンとしても技量としても、髙澤は〈木六駄〉に充分の適性を持っているのだから、この点をどう工夫するかが今後の課題である。

もちろん、知的デッサンとはいえ、舞台は生きもの。数こなした者が有利なのは当然だ。千作、千之丞、忠三郎、又三郎、現在の萬、万作、東次郎、これら錚々たる「木六駄役者」は、〈木六駄〉を主演する機会も相応にあって、意識的にせよ無意識にせよ、みなそうした計算が行き届いていた。
また、石田幸雄、あるいは故人善竹圭五郎など、ニンも腕も申し分ないにも関わらず、前記の歴々に比べればどこか不安定な点を残したのは、そう頻繁にこの狂言のシテをこなしていない(圭五郎は茶屋の名手だった)ところからくる、余儀ない計算力不足だったものと思う。
これを敷衍すれば、「〈木六駄〉をモノにできるか、否か」は、「シテ役者になりおおせるか、アド役者に納まるか」の分かれ目にもなるだろう。
その意味でも、現在の髙澤のため、今回は格好の反省の機会だった。

〈骨皮〉は新発意に子息・髙澤龍之助を出すための番組だったはずだが、当日不調らしく、急遽代演となった。本人も父・会主も残念だっただろうが、上演の機会の多くはないこの作品で敢然と代役に立った役者気質はすばらしい。絶句などの欠点はなかった。
髙澤の住持は年齢的にもまだ無理なのは当然で、これはもともと父子共演の趣向だから致し方がない。

〈骨皮〉はかなりキワドイ艶笑譚。落語で言えば、バレ噺である(当日のパンフレットに簡潔明瞭な語釈も載っていたので、言っている意味がよく分かり、客席は大いに沸いていた)。オウム返しにセリフを言うだけが取り柄の子方が決まって新発意を演ずるのは、その卑猥さを薄めるためだろう。
だが、むしろ卑猥さに徹し、皮肉な批評性をモロに出すのが、この狂言の本意ではなかろうか?

つまり、「目から鼻へ抜けるような新発意に対する、老獪で底知れない住持」、という構図である。
これは、今回のように大人の若手役者が新発意を演ずるのを見て、ふと思ったことだ。

たとえば、亡き千之丞の新発意に、千作の住持とならば、実に想像できるではないか。
今ならばさしづめ、萬齋の新発意に萬の住持(誰か配役できないだろうか......)。

こうした攻撃性、露骨な批評性を、現在の狂言が失いかけているのは、時代の趨勢でもあろうが、作品の真価を問う意味でちょっともったいないと思う。
逆に言えば、露骨に演じても負けない藝格さえあれば、役者にとって何でもないことなのではなかろうか?

トメは〈鈍太郎〉。
何の「遊び」も知らなそうな、生真面目一方の髙澤がこの狂言のシテを演ずると、たとえば現千五郎のような蕩児のわがままと、独善の反動たる落胆の面白さが出ず、一番を通じてやんちゃな大きな男の子のように見えるのはご愛嬌。明るい藝風がその単純さを救って、好感のもてる舞台ではあった。

髙澤に皮肉な藝を目指せとは言わない。
〈鈍太郎〉のような振幅の大きい狂言を一気に演じ得る。晴れ渡った青空のような大きな藝を目指すべきだろう。
人間的には褒貶があったものの、髙澤の旧師・和泉元秀の藝風がそれ。
これは圧倒的だったものだ。
そして、現在の和泉流に、こうした藝はまったくあとを断ってしまっている。

この会には、髙澤の相弟子が総出演の趣。
特に、河路雅義のとぼけた雰囲気、前田晃一の小味だが役者気質を思わせる勤めぶり、吉川秀樹の鷹揚でちょっと苦みのある個性などは光るもので、大塚出や金田弘明も決して悪くはない。
そして、彼らみな舞台人としての覚悟を感じさせ、また、等しなみに良い口跡の持ち主なのである。

おそらく、素質と個性の点でこれほど有望な弟子たちを有している狂言集団は、ほかにはない。名古屋の狂言共同社以上ではないかと、私には思われる。
彼らを本格的に養成、それぞれが役者として立つように配分してゆけば、どれほど面白い舞台ができるかしれない。
が、彼らの名を番組に見ることは少ないし、現実問題として個々の個性が存分に活かされているとは思われない。

これは実にもったいないことだと思う。

2011年3月14日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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