批評

2011/4/6 国立能楽堂定例公演

平成23年4月6日(水)午後1時 国立能楽堂
◆狂言〈八句連歌〉 シテ:野村万作/アド:野村萬斎
◆能〈高野物狂〉(元禄本による) シテ:片山幽雪/子方:伊藤嘉寿
/ワキ:宝生欣哉/アイ:石田幸雄
/笛:藤田六郎兵衞/小鼓:大倉源次郎/大鼓:龜井廣忠/地頭:片山九郎右衞門

幽雪の〈高野物狂〉が美事な傑作である。

今回の〈高野〉は再演。2006年5月、京都観世会館における片山清司後援会で幽雪(当時九郎右衞門)が制作初演した準復古式を、5年を経てさらに洗い直し、世に問うたもの。

明和改正本の流れを汲む現行大成版の改悪本文を避け、原作を志向した5年前の上演も優秀だったが、そのとき作成された上演本にはいくつもの補綴が混在。主従ともに出家はするものの、結語は大成版と同じく弘法大師の徳を讃えるものだった。
今回は『謡曲大観』考異にも挙げられる元禄本に準拠。末尾は他流同様「げに主從の道とかや」と主従紐帯の緊密さを讃えて主題が一貫、劇的にも正しい。

この能では文が重要な小道具である。観世流現行型では竹棹の先に文を付けて出るが、むろんこれは要らざる改変で、男物狂である以上(今回は元禄本に基づき「放下にて候」「狂ひ者にて候」とハッキリ自称する)、狂笹を持つのが良い。ただし、狂笹を持つ他流も、文の扱いについては徹底しない。
前回、後シテは文をつけた狂笹を持って出、あとで後見座にクツロギ別の文を懐中した。懐中したことは筋が通っているものの、これだと文がすり替わった感じが拭えなかったし、笹につけたままでは後述するような「肌身に添へし」の心持ちが出ない。
今回は笹に何もつけず出、文は後場を通じて最初から最後まで懐中。この処置は優れている。
懐から覗くそれは四郎の忠誠の証である。「肌身に添へしこの文を」と角柱前で正面に向き胸元を左手で押さえ、思い入れを示すところに、若君その人を象徴する大事の品を慈しむ無限の心があふれて、深い感動があった。

元禄本に従い、前シテは次第の囃子で出て次第を謡う。これは少々情緒的に見えるので、現行どおり名ノリで始まったほうが良いようだ。
幽雪特有の芯の硬い謡が能の地力を支え、一番を通じて印象的。シテ謡がダレずテンポ良く進むため、前後を通じてアイやワキとの問答が弛緩せず、劇的緊張が一貫した。大抵は年を取ると気力が衰えて間延びがちになるものだが、今回の幽雪はこの点に留意したか、誰の〈高野〉よりも速い展開で美事。前場では文ノ段にこの美点が顕著だった。途中絶句もあったが、詰んだイキは断たれず、読み上げ後半に至れば至るほどさらに間を詰めて謡い込んだ力は大したものである。
読み終わり、右手を下げて文を舞台に垂らし、キリリと正面を見込んだ姿態が充実。「内容」が詰まっている姿だ。「今は散りゆく」で立ち、「嵐吹く」と幕を見込み、そのまま「行方はいづち」でアユミ、常座(太鼓座前見当)であえてキッパリさせず地味に正面にサシ、ヒライたところに悄然たる憂心が満ちて、確かに後場へと能をつないだ。前場では以上の点が特にすばらしい。

後シテ出の一声は替エではなく常の一声を打つ(越ノ段あり)。小道具としての文の扱いに優れているのは先述のとおり。
5年前に比べれば身体の衰えはいなめず、これは年配を考えれば致し方ない。が、上体のカマエに衰えはなく、立居につけて工夫を凝らして足腰の弱さも露呈しない。
ことに唸ったのは、半身のカマエの立派さ。
道行でいえば、大小前に立ち法鈴を聴く心で「耳に染み心澄みて」と右半身を前に出した半身と、「三鈷の松の下に」で角柱を見込んでおいて、すかさずキッと強くサシた半身。
このふたつの半身は、それぞれまったく別の身の扱いである。身体表現の多様さと豊かさを見せつけるこうしたところに、藝の深さが端的に顕われる。ちなみに、道行は舞台でのみ舞い、橋掛リには流れなかった。

ワキとの快速の問答に続き、打掛の手を聴いてから地謡がクリを謡い出すとシテは常座にクツロイで笹を扇に持ち替える。
クセ「真如平等の松風は」で大小前に下居のまま、膝立てた左足を僅かに引いてワキ座へ向け身を開くように半身となり、正面の高いところへ目をやり、そのまま角柱のほうへ視線を流す型は前回同様だが、幽雪の藝力を端的に示す部分だ。

身体と視線の微妙な扱いの中、下居姿の軸が強靱に一本徹っていて、ひときわ小さいはずの幽雪の姿に盤石の強さがある。それでいて、表現は寛いでいる。
高野の山々を吹く清風の流れを視線で描く描写力というだけでなく、この静止の姿の強さによって、深山霊地に身を置く実感が見所いっぱいに満ち満ちる。描写力もここまでくれば精神の風景という以外にないし、地謡が沈々と謡い鎮める「法性随縁の月の影」までの長い間、視線ひとつで成り立つこの型に籠められた心が持続して、途切れない。

この部分、全曲中の白眉である。

クセ中「待つ如くなり」のあとに打切が入り、シテはここで立つ。上端アト、実にゆったりと、白鳥の羽づくろいのような大左右がびっくりするほど大きい。
奥に行くに従ってさらに静謐をきわめたクセに続く、三段中ノ舞。二段目のオロシのあと、脇座から常座に行ったところで踏む拍子は省き、ここだけシズミに替えた。

舞アトは一気に運ぶが、現行大成版では省かれる詞章を元禄本どおりに再生して、ワキに対するシテと子方の芝居の手順は叮嚀になる。
「やがて元結」で頭上に扇を倒し断髪の心。「濃き墨染に」と左袖を出して見、「身をやつし」と立ちながら扇を開いて子方に寄り、そのまま橋掛りに入る子方を見送り、常座で留拍子。

繊細な工夫を籠めつつも、過剰な思い入れでベタつくこと一切なく、思い切りよいテンポと息の詰んだ間と、何よりも強靱な身体に支えられた一番。
隅々まで鉋のかかった総檜でキッカリ組み上がり、木の香も新たに緑蔭に建つ白木造りの小宮を見るような、幽雪の〈高野物狂〉だった。

地謡は副地頭に観世喜正を加えて総員が中堅・若手。多少外面的ではあったが、広い国立能楽堂の空間ではさほど気にならず、息が合って聴かせる部分も多かった。
ただし、最後の処理は疑問。「もとより誠の狂気ならず」から地謡が次第に締り過ぎて、余計な思い入れが強くなった。シテのイキが詰んでいるだけに、また、甘味のない乾燥した劇性が顕著だっだけに、地謡も何も考えずにサラサラと結末に至りたい。

子方(謡に大人風の癖がついていて気になった)は僧形。
私は前回の舞台批評で現行型同様の稚児姿を主張、病床の堂本正樹氏に笑われたが、これはあながち冗談でもない。
出家の前段階としての稚児姿には〈櫻川〉の例がある。〈木賊〉のような僧形(これはそうでなくてはならない)に望めない彩りを舞台に添えて、水面下に潜む稚児物の能としての劇性を暗示もする。
「春満」と名のるからは、平松の若君は眉目秀麗の若衆に相違あるまい。天下に名だたる高野山を舞台に、幼主へ熱誠を捧げる男物狂の能。
爽やかな男気は、艶麗の稚児に捧げられてこそ、である。

〈八句連歌〉は枯れ切った万作の至藝。対する萬齋は生々しい。

万作家の役者たちでの中では、ひとり万作にのみ、完成された無個性の個性がある。
なお、無個性という点では、未完成の竹山悠樹の藝質にそれがあることを、私は面白いと思っている。

2011年4月 8日 | 能・狂言批評 | 記事URL

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