2011/5/12 能面の死活 | 好雪録

2011/5/12 能面の死活

坂戸金剛家旧蔵の本面を主とした54面が、1935年、三井一族の総領家・北三井家に譲渡されたことはよく知られている。現在は、「旧金剛宗家伝来能面」と一括して国の重要文化財に指定、三井記念美術館に移管され、同館の目玉となって折々展示される。

その中でも最重要の一面、いわゆる孫次郎の「本歌」が、このほど現金剛宗家・金剛永謹氏の〈熊野〉で実験的に使用された。5月10日付け毎日新聞の報道に詳しい。

これら坂戸金剛家伝来面は、去る2005年、日本橋畔・越後屋旧地である室町の三井本館に新美術館が開館するまで、上高田の三井文庫本館で、思い出したように展示されていたものだ。現地に至るには、高田馬場から西武新宿線に乗り換え、新井薬師駅に降りて歩みを拾う、ちょうどよい散歩だった。訪れる人も稀な狭い展示室で、天下の名作を心ゆくまで間近に眺める眼福は忘れない。室町に移った今、これから二度とこうした親密でのどかな気分は味わえまい。

もっとも、能面は展示で見るものでは、断じてない。
美術館・博物館で見る能面は、死んだ能面である。

「美術品」、ことに日本の「美術品」には2種類ある。
ひとつは、客観的鑑賞を主とするもの。
ひとつは、用いることによってはじめてそれが活きるもの。

後者は用いられる場がある程度限定される。一般的には前者のように思われる絵画作品でも、掛軸には床の間、屏風や襖絵には座敷、しかるべき鑑賞の場は決まっていて、褻(ケ)につけ晴(ハレ)につけ、生活の中で用いられ、享受されるものだ。
そう考えると、日本の古美術はほとんどが後者である。それらは単純に「美術品」と言い得るものではなく、昔ながらの表現に従えば、まさに「道具」なのだ。

その代表が茶道具である。現在もまず、「茶道美術品」とは呼ばない。点茶なり茶事なりに用いてのみ、茶道具の真価は発揮される。
たとえば、備前や信楽などいわゆる土物の焼物は、花入でも水指でも、しばしば「ずっぷりと」と表現されるように、充分すぎるほど水を含ませて用いる。そうしないと、本当の土物の肌合いにはならない。
瓦から発した楽焼の茶碗しかり。利休が切り始めた竹の花入しかり。水気を含まないままガラス越しに見るこれらは、たとえ長次郎の無一物だろうが、利休の園城寺だろうが、屍骸を見るようなもので、その真価はとうてい分からない。

面や装束や小道具一切、能に用いる品々は、昔風に言えば「能道具」である。
そして能面は、能舞台で用いられているのを見るべきものである。
床脇の書院に「面釘」と称する金釘を打ち、座敷飾りとして秘蔵の一面を掛ける故実があるにはある。が、そんなところに龍右衞門の小面が掛かっているのを見ても、いかにも鳴りの良さそうな時代の鼓胴が花入に使われているのと同じく、所を得ず晒しものになり下がっている名品に対して気の毒な、実に情けない気持ちになる。

能面が舞台で活きるというのは、ひとつには、役者が技をもってそれを使いこなしてこそ、という面もある。また別に、「能面はそれ自体、生きて、呼吸している」という事実に負うところも大きい。

つい先だって、ある能楽師と話していた時。おもむろに名品を取り出して、こう聞かされた。
「江戸初期の作で管理が悪かったせいか、ところどころ胡粉が浮いて、これは修理に出さねばならぬと思い、その前に一度使ってみました。不思議なことに、舞台を終えたら、すっかり浮きが落ち着きました」。

これは魔法でも何でもなく、至って科学的な反応だろう。つまり、舞台を前に幾度も手に取り、当日は肌に当てて用いるうち、長いあいだ蔵われて枯れきった木に適度な湿気が戻り、自然と膨張し、木と地塗りとの空隙がなくなった、ということなのだろう。
空気の乾燥したヨーロッパに本を持って行くと、早くも飛行機の中で厚表紙が反り返って現地でもそのままなのに、帰国するといつしかもとに戻っているのと似ている。

以前ある家で藏に除湿機を仕掛けたところ、装束のためには洵に成績が良かった半面、やはり乾燥しすぎて能面の塗りには覿面に悪影響があると分かり、慌てて取り止めたと聞いた。これもまた同じことだろう。

博物館学藝員の方々とこうした話をしても、ついに意見は交わらず、平行線をたどることが多い。その分野では現状維持が金科玉条であり、舞台で使用して少しでも損ずることを極度に恐れる。その価値観も分からないでもないが、しょせん、美術品管理と、「用の美」という思想とは、別世界の発想であろう。

だが、いくら名作であっても、舞台で用いられることなく博物館・美術館に死藏されている能面は、私にしてみれば「能面」ではない。能面のすがたをした木彫品であるに過ぎない。
観世宗家の赤鶴の小ベシミ。銕之丞家の日氷の蛙。山本東次郎家の小豆武悪。こうした超越的な名作が実際に舞台で使われなかったら、能はどれほど寂しいものになるだろう。
三井記念美術館だけではない、細川家の永青文庫にせよ、他にも保存・展示されるだけの能面は数多い。ただ、その中でわずかに、割れてどうしても使用に耐えなくなった名品に限るならば、市場価値もなく、さりとて展示用には何ら支障もないから、むしろ美術館・博物館の所蔵には格好だろう。
そうでない、「活きるはずの能面」の数々が暗い藏の中で乾ききって死んでいる現状を考えるにつけ、私はそれらが哀れでたまらない。
その意味で、今回の三井記念美術館の試みは、撮影用の試演ではあるにもせよ、ひとつの英断と評価すべきだと思う。

もっとも、私はこんなことも考える。

坂戸金剛家最後の太夫・右京氏慧には後嗣なく、宗家断絶を遺言して死んだ。命に勝るはずの本面を北三井家に譲渡した翌年である。現在の野村金剛家がシテ方4流の推挙を得て復興宗家となったのは1937年であり、とうぜん、前年に世を去った右京氏慧の与り知らぬところである。
金剛唯一、泰一郎、右京の3代は、もしかしたら明治以降の能界のひとつの中心となっていたかもしれない実力を秘めた藝統だった。時と人とを得なかったことと、不慮の災厄が重なったことにより、ついには一流断絶の憂き目を見た。

『六平太藝談』を読むと、同世代の盟友・右京に対して六平太がいかに親愛の情を寄せていたかが分かる。明治中後期、この2人に観世清廉を合わせた若手宗家3人は、初代梅若實と寶生九郎知榮との前世代の「名人」2人にとって、ある意味で年少の対抗勢力だった。長命を保ち名誉を一身に浴びた六平太は別にして、不遇な一生を余儀なくされた右京と清廉については、今改めてそうした視点で捉え直す試みがなされても良い。同時に、本面譲渡・流儀断絶の断を下さざるをえなかった金剛右京、および明治期以降の坂戸金剛家の悲運のもろもろは、近代能楽享受史の大切な裏面として、私はいちど詳細に論じたいとも思っている。

現在の坂戸金剛家本面の所有元たる三井記念美術館は、身を切るようにそれらを手離したに相違ない金剛右京氏慧晩年の鬱情に、今も思いを致しているだろうか。

2011年5月12日 | 記事URL

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