2011/8/28 「世阿弥〈融〉のヴァリエーション」公演終了 | 好雪録

2011/8/28 「世阿弥〈融〉のヴァリエーション」公演終了

去る24日(水)から隔日開催された表題の渋谷・セルリアンタワー能楽堂特別企画公演が、本日無事に終了。
舞踊評論家の稻田奈緒美さん共々この公演の制作アドヴァイスを依頼された関係で、3日間とも通して見、実に興味深いものだった。

公演の副題に「月下氷身」と銘打ったのは愚案である。
「月下老」(『続幽怪録』)+「氷上人 」(『晋書」)=「月下氷人」、婚姻の仲人を意味する和製成語がある。種を明かせば、副題はこれをもじったもの。
今回は能と地歌とコンテンポラリーダンスの競演、それもゴチャゴチャの「コラボレーションもどき」は御免蒙り、それぞれの立場でそれぞれの仕事を個々別々にぶつけてもらう趣旨だった。異種同居の緊張感を保った、違和と調和の提示。月の能〈融〉を媒介にした一種のマリアージュだったわけで、副題の意図はまず達せられていたように思う。

「地歌〈融〉を伴奏に踊りたい」とは、企画進行の過程で勅使川原三郎氏みずから望まれたことだった。
私ですら考えつかなかったことで、これまでの氏の舞台歴を通観しても一種、冒険に相違なく、その成果はこれから色々と語られることだと思う。
地歌の主奏者・富田清邦氏の玲瓏たる歌と三弦に対して、勅使川原氏はきわめて深い畏敬と親愛の念を寄せられていたが、これは単なる踊り手と伴奏者の関係ではない、身体と音の深い深いつながりからくる真情だったように思う。

袴能と勅使川原氏のダンスを併演させた効果や意味に関しては、身体そのもののありように両者通底する部分が大きく、これはシテを勤めた香川靖嗣氏、塩津哲生氏、野村四郎氏に共通した意見でもあった。ことに野村四郎氏は、観世壽夫とジャン・ルイ・バローの名高い演技交換を引き合いに出し、勅使川原氏のダンスについて終演後かなり詳しく語ってくれたのが傾聴に値した。

今回の企画は、能の観客にダンスを見てもらうことよりも、むしろダンスの観客に能を見てもらい、地歌に接してもらうことを意図したものだった。
意欲的な観客が外部から参入してくれれば、現代の能シーンも活気づく。各回ごとに小書を変えた袴能〈融〉は3日とも当代望み得る最高レベルの出来ばえだったから、身体表現に目を凝らすダンスの観客に強い印象を与えたのではないかと思う。

ダンスにせよ能にせよ、演技者の身体をとくと見据えることと同時に、観客それぞれが個々のコトバを持たねば舞台は内的に深く刻印されない。簡単に言えば、優れた観客たろうと思えば、多くかつ深く書物を読み、自らの文章を研ぎ澄ますことに尽きる。特に、書を読むことを怠れば、批評眼は確実に落ちる。舞台数をただ見るだけでは何の進歩もないどころか、その経験だけに胡坐をかいて独善的になるばかりだ。
ダンス批評の現状については問題がないわけではないけれども、少なくとも、「多くかつ深く書物を読み、自らの文章を研ぎ澄ますこと」を自覚している批評人は、能や歌舞伎の批評人よりも遙かに多いだろう。

そうしたダンス愛好者、舞踊批評人たちの眼に、今回の袴能〈融〉がどのように映ったか。
私はそれに甚だ興味がある。

2011年8月28日 | 記事URL

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