批評

2011/9/3 大阪新歌舞伎座 9月大歌舞伎 昼の部

2・〈男女道成寺〉 ★★☆☆☆
3・榎戸健治作/山田洋次補綴/落語三遊派宗家監修〈人情噺文七元結〉 ★★☆☆☆

はじめの橋之助主演〈御摂勧進帳〉は正月の新橋演舞場での出し物だが、所用にて不見。
中幕所作事から見たが、はじめに〈文七元結〉のことから書く。

勘三郎が近年用いる山田洋次の補綴版は、大道具にうらぶれた生活感を強く出しているだけではなく、台本に細かな手を加えている(「落語三遊派宗家監修」なる正体不明の怪しげな肩書は不審)。
私は、主に以下の点で誤っていると思う。

1)お兼を長兵衛の後添えとし、お久を継子に設定している点。
2)最後の大団円の場がやや長く、会話上の入れ事が多い点。

1)について。
この改訂の作意としては、
A・継母と継娘との「なさぬ仲」の緊張感をドラマの水面下に置く(長兵衛内の正面仏壇に祀られる先妻の位牌が、ドラマの冒頭と末尾で観客の視線の焦点に位置する)。
B・生活の軌道から外れた長兵衛の心理に、あたかも無意識の内にAの緊張に圧された結果であるかのような必然性を強める。
C・最後に、これら人工的な家族関係が修復されて、実の親子以上の「人間愛」が生ずるドラマの成就を狙う。
以上の3点ではあるまいか。

私はこう考える。
「実の母親ならばともかく、継母を頂く娘の立場となれば、かえって自らを吉原に売ることはできないだろう」。

お久は気性の素直な、賢い娘である。これは動かない。
だとすれば、「自分がどう動けばどういう結果が生ずるか」ということは、冷静に考えているはずだ。
当時、吉原に身を売ることがどのような意味を持っていたか。
継母の立場からすれば、世間体からも先妻への義理立てからも、むろん継子への愛情があればなおさら、決してそれだけはさせるはずはない。
お久もそれはよく分かっているはずだ。「犠牲心から廓に身を売っても、世間さまは継母が邪険にして売り飛ばしたと思うに相違ない」と、考えるに決まっている。お久が気性の素直な、賢い娘である以上、間違ってもそれだけはできまい。

従って、ここは是非とも、お兼とお久は実の母子でなければならない。実の母子なればこそ、「娘の分際で親に断りもなしに自ら女郎に身を落とす身勝手」が理解されるのだ。お久の犠牲心は、親への甘えと表裏一体であることを考えなくてはならない。
事実、速記で知られる圓朝の原作では、お兼とお久を継母と継子にはしていない。「落語三遊派宗家監修」というのが胡散臭いというのは、こうした点である。
※六代目圓生は、なぜか継母継子の設定で口演した由、放送作家の松本尚久氏からご教示頂いた。本稿の論旨は変わらない。(2011/9/7追記)

2)について。
菊五郎が演ずる通常版の〈文七元結〉に比べて、山田洋次補綴版は役々の発するセリフが多く、演技も追加されている。

たとえば、最後の長兵衛内の場で、和泉屋清兵衛と文七から返却された50両(圓朝原作では100両)を長兵衛が突き返すが、とど、再び納める場面。
通常だと長兵衛自身がバツ悪げにこれを受け取る。
山田版では長兵衛は身を退いてここでお兼が差し出ると、周囲を流し眼で見やり、無言の内にチャッカリ頂戴する。
お兼を勤めた扇雀の目から鼻へ抜けるニンにもよるけれど、これだとお兼が強欲にも見えかねない。
さらに、こうしたところに「継母」という補助線を引くと、お兼という役柄に無用な着色さえも伴うだろう。

また、和泉屋清兵衛がお久と文七の婚姻を申し出る件。
通常版だと綺麗な娘姿のお久が飛び込んで、話はトントンと進み、家主の調停で瞬く間に事は済んでしまう。
山田版では、長兵衛はお久のあまりの変容に半ば放心し、清兵衛の話は耳に入らない。挙句の果てに清兵衛自身がお久を貰いたいのだと誤解すると、清兵衛は(今風に言えば)キレて、「アタシには女房も息子もいますよ!何なんですかこの人は!」と叫び、堪忍袋の緒を切らす。
私は、これだと清兵衛の役が悪くなると思う。
見ず知らずの職人を文七の親類同様に考え、その将来を託そうというのは、よほど先見の明がない限り無責任だ。先代勘三郎の長兵衛に付き合った十三代目仁左衛門の清兵衛は、とうぜん山田版ではないから格別の芝居もしなかったが、巧まずして大人(たいじん)の風格があった。
山田版で「何なんですかこの人は!」と長兵衛に喰って掛かった瞬間、清兵衛の先見の明は曇って見える。実際、人物の出来た大店の主人が、こういう相手に対してこうした言葉は決して吐かない。

細かいことだが、長兵衛が50両を包んだ手拭の扱い。
大川端で投げ付けられた文七が、ご丁寧にこれを嗅いで「臭い」と顔を顰める。
長兵衛内では和泉屋清兵衛がこれまたご丁寧に同じく「臭い」と嫌な顔をする。
観客は大笑いだが、まだ50両に気のつかない前者はともあれ、後者は要らざる入れ事だ。すなわち、この「臭い手拭」の反復によって、手拭の持ち主である長兵衛の役柄が冷淡に突き放され、戯画化される。
これでは、浅薄なギャクによって長兵衛の人物が卑小に見えるばかりである。

以上の3点だけを取って見ても、山田版の「入れ事」が人物の性格を掘り下げたものではなく、単なる「ウケ狙い」の演技・セリフであることが分かる。
これは志の輔の演ずる古典落語と同じである。
その場で即興的に生じたかのように装われたギャグを発し、目の前の観客に親近感を与えて目くらましをすることによって、演者が役柄に同化できない違和感を強引に融和させる手法。いわば、「古典の相対化」だ。

だがこれは、ひとり個人による語リ藝たる落語だからこそ成り立つ手法である。
演劇の登場人物が、自らの性格を裏切るような演技を勝手気ままに尽くしては、戯曲そのものが崩壊する。近年濫発される新作歌舞伎にはそうした性格のドラマが多いが、それは演出主義の視点でこそ成り立とう。役者個々の演技にのみ拠って立つ古典的な歌舞伎劇(〈文七元結〉もそのひとつと見なさなくてはならない)で、それはタブーである。

私は、山田版〈文七元結〉はそのタブーに気づかず、浅薄な効果主義でドラマの全体を見失った改悪版だと考える。
古典歌舞伎のドラマの構造を見失う陥穽が、ここには口を開けているのである。
 
長兵衛の勘三郎。〈申酉〉同様まだ本調子ではない。

大川端で文七の孤独に同情する独白。「長兵衛もまた天涯孤独の男だったに相違ない」と思わせた先代ほどの深さはないが、菊五郎よりよほど真に迫っており、幕開き帰宅の一言にも複雑な思いが籠められて巧い。
今は心身の復調を俟つばかりだが、前述の通り山田版の「改悪」〈文七元結〉は長兵衛の存在感を薄める結果にもなりかねないため、ことに最後の長兵衛内の場では、現状の勘三郎が手持無沙汰に埋没して見えかねない危険もあった。

文七は勘太郎。本来はもっと和らか味のある二枚目の役だろう。川端で長兵衛を信用せず突っ掛かるところで、みすぼらしい身なりの相手に胡乱の目を向けるのは正しいが、それがキツく出過ぎるきらいもある。
和泉屋清兵衛は橋之助で、通常版ならば文七の兄貴分のような若い商人に見えて良さそうなところだが、山田版では前述のとおり「臭がり、キレる清兵衛」となり下がって、あまり印象は良くない。
鳶頭伊兵衛の龜藏は、夜の〈一本刀〉同様、やはり顔付きが立派。
お兼の扇雀も嫌みなく実直に演じているが、これまた山田版の被害者で、実際以下に悪く見える。

長兵衛娘お久は芝のぶ。
抜擢とはいえ重演された役どころで勘三郎との呼吸もぴったりだが、これは実年齢に相応した役者が勤めなくては情が映らない。今年で満44歳の芝のぶ、見た目は相不変可愛らしいとはいえ、演技がカマトトの作リ物に見えるのは是非がない。
芝のぶは夜の部の〈一本刀〉で故人千彌が長年勤めた利根川端の子守を演じたが、これは添景人物だから成りきってしまえばそれで済む。ドラマの焦点となるこの役が作意的だと、このドラマの状況そのものが不自然に映りかねない。
もっとも、それだけに、全体が異化された山田版〈文七元結〉のお久としては適役、という逆説も成り立つかもしれない。冗談でなく、それこそ小山三にお久を演じさせたら、山田版は一新して見えるに相違ない。

角海老女房お駒の歌女之丞は〈引窓〉老母と並ぶ大抜擢だが、腕ではなく存在感で見せる女形の役とて、正直、間尺に合わなかった。角海老の場の幕開きで舞台上手で背を向け、床の間の正月飾りを眺めている後ろ姿が、人数の中にすっかり埋没して見えたのはその証拠。

〈男女道成寺〉は、白拍子桜子実は狂言師左近を勘太郎、白拍子花子を七之助。

踊りは勘太郎に一日の長がある。
金冠の件は、烏帽子の白紐が顔の輪郭を引き締めるため、勘太郎の角張った顎が目立たず、かえって先代・当代勘三郎譲りのクリっと良く利く目の色気が際立って美しかった。

七之助の花子。一度、道行きから鐘入までじっくり見たいものである。

2011年9月 6日 | 歌舞伎批評 | 記事URL

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