2012/2/25 役者の「旬」はいつ? | 好雪録

2012/2/25 役者の「旬」はいつ?

雀右衞門が91歳で亡くなった一昨日、今年82歳の關根祥六の〈羽衣 彩色之傳〉を見た。
本日は今年45歳の同年である狩野了一の〈葛城 神楽〉と友枝雄人の〈藤戸〉を見た。

役者の「旬」とは、一体いつを指すのだろうか?

世阿彌の「花」理論を、私はここで安易に援用したくない。
それ以前に、現代人のわれわれにとって舞台とは、藝とは、役者とは、という問い掛けを、現代人の言葉と思考とで持つべきだと思うからである。

「彩色之傳」のような重い習事は例外として(これは観世流の小書の中でもちょっと別格の扱いと考えなくてはならない)、〈羽衣〉は若手から老練まで誰でも舞う能である。
では、どのような世代の役者が最もこれに似合うのだろうか?
〈藤戸〉は習物の難曲で、若手にはまず無理とされる。
では、45歳の役者がこれを演ずるのはまったくの無意味なのだろうか?

そこには、「〈羽衣〉とは、〈藤戸〉とは、いかなる能か」「關根祥六とは、友枝雄人とは、いかなる能役者なのか」「能の善し悪しは何を基準に判断するのか」という問題が複雑に絡み合う。
私にとって舞台演劇に接するとは、こうした疑問を常に新た思索し文章化する創造行為であると思っている。
したがって、ことに能評には慎重にならざるを得ない。
今回の關根祥六と狩野了一と友枝雄人は、考えるべき重い問題を私に与えてくれた。
『能楽タイムズ』執筆予定の2月分の能評は、その意味でもちょっと大変である。

ただ、ひとつ私の信ずること。
演劇作品は、常に役者や観客の上位に置かれるべきだと思う。
ここでの「演劇作品」とは、ただ文字化された戯曲や台本のことではない。
それらを素材に、たとえば演者が自由にアレンジや即興を加えたものであっても良い。
こうして舞台上に成立する「演劇作品」が、役者の自己主張の道具や観客の恣意的な思い入れの容器でしかなくなった時、それは私にとって何の意味も持たない。

「演劇作品」を常に最上位に置きながら、舞台上と客席とが互いに鏡面となって緊張関係を保った時、そこに成り立つ総体が「演劇」というものだろうと、私は思う。
能も歌舞伎も、当然そうした「演劇」のひとつである。

2012年2月25日 | 記事URL

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