2012/3/16 「とうきょうスカイツリー駅」 | 好雪録

2012/3/16 「とうきょうスカイツリー駅」

東武鉄道伊勢崎線の「業平橋駅」の駅名が3月16日をもって廃せられ、翌日から「とうきょうスカイツリー駅」に改称される。
開業時から数えると、「吾妻橋駅(1902~4年)」→「浅草駅(1910年再興~31年)」→「業平橋駅(1931~2012年)」→「とうきょうスカイツリー駅(2012年)」と変遷を重ねたわけだ。

「業平橋」とは、現在は埋め立てられた運河・大横川に架かる、浅草通りの走る橋。ただし、駅名はこの橋名が由来ではなく、隅田川に架かる吾妻橋の異名を取ったのだという。が、この異称は明確な典拠を欠く説であって、疑問がある。
たとえば、『伊勢物語』で在原業平が「名に負はゞいざ言問はむ」と詠んだあたりと想定するならば、川上の言問橋のほうが「業平橋」の異称にふさわしかろう(もっとも、関東大震災後1928年に新設された「言問橋」の命名由来にも諸説ある)。
そもそも、業平の頃の古隅田川は川筋も異なり、橋そのものがなかったのだから、世話はない。

話は変わるが、東京23区内の拙宅の近辺に、昔は歴史の痕跡を示す地名が色々あった。古くから残る家の門柱表札や戦前の地図に、根岸、横須賀という地名が見られ、それらはもう在地の住民たちからもほとんど忘れ去られている(ちなみに、上野ではありません)。
根岸や横須賀は、一般的に台地末端、海辺に共通して付けられる地名である。恐らく近世以前、古東京湾がこのあたりまで入江をなしていた名残だろう。他にもそのことを思わせる地名がいくつも点在している。
昨年来、東京都内の地盤の強弱、さらには津波の被害が及ばないか、などの情報が堰を切ったように溢れ出した。都内での津波被害など、それまで誰も考えたことはなかったが、海抜の低い土地であれば僅か1mの津波に襲われただけで被害は甚大だろう。地下鉄がどうなるか、考えるだに恐ろしい。

駅名と地名の矛盾について言えば、東急東横線の学芸大学駅と都立大学駅がある。双方とも、大学本体は既に移転あるいは消滅してしまっているから虚名であって、学芸大学駅など地方から上京し都内の地理に疎い受験生にとって良い迷惑である。双方、碑文谷駅、柿の木坂駅という地名に即した旧称があるからそれに戻せば良いと思うのだが(碑文谷駅は鷹番駅でも良い)、「地域の反対」という理由でそのままになっている。

それから言えば、業平橋駅から「とうきょうスカイツリー駅」への変更は地域の賛成を得た、ということなのだろうが、正直なところ、これは経済効果を当て込んだに相違ない。
つまり、折角の新名所ができたのだから、それを駅名にすれば客が来て、金が落ちる、ということである。

とはいえ、歴史というものは重なれば実績である。スカイツリーが今後100年持てば立派な有形文化財で、いささか虚名臭い「業平橋駅」よりも筋の徹った歴史的駅名になるだろう。万事、後世の判断を俟つ以外ない。

ただ、先ほども述べたように、地名とは往々にして抜き差しならない意味あるものだから、それを軽々に変えてしまうのは不要だし、また、惜しいことだと思う。

都立大学駅に隣接する自由が丘駅は1929年の改称で、今や観光客まで集まるオシャレなスポットになった。これはいま考えてもモダンで垢抜けした地名・駅名に拠るところが多い。当初予定された田舎臭い「衾(ふすま)駅」だったら、こんな隆盛はあり得なかったはずだ。
衾の地名由来は諸説定まらず、そのいくつかに「山間の湿地」という説がある。たしかに、自由が丘駅畔には暗渠となった九品仏川が流れ、近くに奥澤の地名もある。自由が丘駅は低地に位置し、「丘」とはある意味で虚称なのである(もっとも、都立大学駅方向には土地が隆起し「丘」をなしていはいる)。

先日読んだ原武史『「鉄学」概論』(新潮文庫)には、大東急の五島慶太が阪急の小林一三のプランを模倣するかたちで鉄道・都市開発に邁進する説明がある。これに伴って生じた田園調布や成城学園の地名・駅名の創出は、戦後、あざみ野、つくし野、すずかけ台などまったく空想に発する創名に続いている。昭和50年代初頭に陸続と開業したこれらの駅名を聞いて、子供心にも地に足のつかない呼称だなと思ったものだが、それぞれがいかなる歴史を重ねて定着するかは、まだ未知数だろう。

もっとも、根岸、横須賀、襖、奥澤のように、その地名から地盤の脆弱さが予想できる便は、これら夢のような地名・駅名に期待できないことは事実である。

2012年3月16日 | 記事URL

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