2012/4/12 「そろう/合わせる」考 | 好雪録

2012/4/12 「そろう/合わせる」考

先日大阪での「君が代斉唱口元チェック事件」について、ちょっと面白い視点からの記事があった。
不条理な規則づくめの旧軍時代、「君が代の時は、斉唱のマネさえしていれば遊ばれる(息を抜ける)と、私などは思っていた」、という大西巨人氏の談話に精彩がある。

記事の中では、「そろう/合わせるのが元々得意な日本語」として、日本文化の「そろう」「合わせる」特質を示唆するが、果たして本当だろうか?

地歌箏曲のような室内楽的邦楽合奏のレベルが落ちてつまらなくなったのは、演奏技巧の低下もさることながら、あまりにデジタル的に「そろい過ぎる」ことに起因する要素も大きい。タテ、ヨコ、あたかも方眼紙に割り付けた図形のように一点一角を「そろえて」演奏することは、実は容易なのである。

昔の名手の録音、現代であれば富田清邦の三弦に米川文子の箏の合奏を聴けば分かるが、確かに双方まったくバラバラということはないにもせよ、優れた手合わせとは、三弦は三弦、箏は箏、それぞれの演奏を独自に進めるものである。つまり、一点一角をキチンと「そろえて」行くようなことには拘泥しない。
大切なのは、拮抗する、内部の「気」が合う、そうしたことだ。
小部分に耳を傾ければ時としてそろわずズレることはあっても、「ここ」という要所(これは記譜されているわけではないその時々に自然と生ずるポイント)でピタリと合いつつ、また別々になり、その反復の中から最後には、ただ一点一角をそろえているだけの演奏からはとうてい予想できない巨大な合奏が立ち上がる。
つまり、「そろえる」ことに意を砕かず、細部で「そろわない」ものが大局的に「合う」ところに醍醐味があるのである。

映像に残っている1983年11月歌舞伎座での至高の〈関扉〉。
実際見た時の印象もそうだったが、歌右衛門の小町、二世松緑の関兵衛、先代勘三郎の宗貞、上の巻で最もウキウキする見どころ「恋ぢやあるもの」の手踊りなんか、3人が3人、互いにまるでそろえていない。てんでバラバラもいいところである。
が、そのバラバラが折々「ここ」というところで一つにピタリと「合う」面白さといったら、何度この映像を見てだに私はたまらず、手の舞い足の置くところを知らぬ思いに駆られる。
やはりここでも、「そろえていないのに、合っている」のである。

こうしたことを考えるにつけ、日本文化における「そろう/合わせる」特質は特質として、その「そろう/合わせる」の内実をもっと深く考察する必要があるだろうと、私は思うのであります。

2012年4月12日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.